スクリーンの空

パロディ

人の夢

 かなり虚しいので何も思わない。自分の単調さにうんざりしている。どうせ何も出来やしないという不安。自分が過ちを犯しているという不安。同じ不安が繰り返されるが、何も感じていない事。絶望や目的を感じない事。自分自身の言葉が誰の役にも立たず、世間的にも褒められた事は何も言えないという事の気疲れそのものに、僕は疲れている。抽象化したくないので感覚的になる日があり、今日がそれだ。僕は明日には正反対の意見になるかも知れない事を書くのに習慣的な嫌悪感を覚えるが、継起する感情を纏め上げる事に虚偽を感じている。感覚は流れ去り、僕は自分を見失うが、全ては喪失なので、自分を見失わないものは存在しない。

 

 人間に親しみを感じず、好意を抱く事が出来ない。いつも自分を余所者に感じる。というのも、人々が集団となる時の、薄ぼんやりとした、柔らかい偽りの優しさが、人から人間性の何か厚みの様なものを剥ぎ取って、希釈された言葉と笑みが空間を包み込むからだ。緩やかな欺瞞。誰も他人を見てはいない。もちろん、これさえ甘美な日常の理想的なイメージの一つであって、多くの場合、数々の打算や欲望からなる、刺々しくうんざりさせる困難が一つ一つの応答に絡み付いている。しかし、僕はそうした事を煩わしく思うべきではないのだろう。正確に知る事なく解釈し、正確に知られる事なく解釈される事で現れる影像に、自らの実存を意図的に重ねる気苦労。だけどこの世界ではどうしたって、見られた者は皆、他人の夢になるのだ。苦痛が安らぎよりも真実の様に感じられるのは、まだ現実と虚構の違いを上手く見定めていない者だけだ。何故なら全ては夢なので、我々に出来る事は、都合の良い夢を見るか、都合の悪い夢を見るか、都合の良い夢と知りつつその夢を見続けるか、それとも……