スクリーンの空

パロディ

演劇

 人間の個人の情報量に対する言葉の無力さ。人間はそれぞれに病んでいる。人間は例外なくオリジナルに厄介だ。個々の性質を切り離し分析にかけるのは他者の経験の事後に過ぎないため、諸性質の積として最初から他者を理解しようとすることは知性の衰退である。

 彼一人を説明することで納得し、他者からそのトラウマ性を除去するために、様々な解釈が弄ばれる。しかしその解釈は彼一人を、あるいは彼によって生じたただ一度の状況を、辛うじて理解した気にさせるに過ぎない。

 他者一般に近付く方法は、思考する者の個人的な防衛の技術へと成り果てている。普遍に接近する手応えは金輪際なく、体系によって防壁を築きあげることも出来ない、その度ごとの果てしない労苦、雑念の虚しい後片付けという印象が残る。

 他者を了解する私の状態と、私の前に現れる他者を巡る「非因果的」な同時性を記述することが出来るのは、理屈ではなく、共時的なイマジネーションの戯れによってだ。

 完了を諦めること、それだけのことならば多くの者が理解している。しかし完了の不在は、世界全体が(解釈をいつも裏切るからというよりも、解釈が戯れであることを既に知っているが故に)、出来事の一回性を絶えず呼び覚ましながら流動する、主観と経験の狭間へと折り畳まれることを意味する。

 悲観する必要はない。解釈の落とし所が変わっただけだ。単純に生きていることに驚きたまえ。

 

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 お久しぶりです。以下自分語り。

 

 僕は発達系であり、発達系特有の執着的努力の末に、定型者の演劇を続けている可能性を時々疑ってしまい疲れる。世の中で起こることが茶番に思える理由。演劇のクオリティが低かった時期(およそ思春期頃から七〜八年間ほど)共同体からかなり完膚なきまでに追放され続けたこと、年を追い徐々に役をこなせるようになっている感覚があることで、個人的には一定の信憑性があるように思える。

 

 僕は情が浅く、他人に同質性を期待していないので一般的な意味での怒りも殆どない(もっと発作的で無差別的な怒りはある)。しかしそれを確証することも出来ないため、「普通の人間」の白々しさに苛立たせられる。何故苛立つのかと言えば、僕はこんなにも苦労して演劇をやっていると主張したとして、「みんなそうだよ」と言われそうな予感が大いにあること、そして僕がその言葉を否定する理屈を持ち合わせていないからだ。「みんなそうだよ」という応答が人を途方もない気持ちにさせるのは、他人事のように響くからではなく、それが判断停止の宙吊り状態に人を強制的に落ち込ませるからだと思う。「そんな訳ない」と発作的に叫ぼうと、その叫びは果てしない判断停止という名の虚空に吸い込まれていくだけなのだ。人々の断絶は妄想なのか、それとも実体なのか……。(しかしどうやって他人の考えを信じたり信じなかったりすることが出来るのだろう。どうやって半信半疑を抜け出せるのだろうか。)


 僕が違和感に包まれながら平然と生きていられるのは、その違和感が工夫と訓練によって克服される程度のもの(事実克服されている)である証拠なのだ。結果がそれであることが言葉に偏重を与えるが故に、強者は強者の論理しか語り得ず、それは弱者から常に糾弾される余地を残す。つまり僕は自分が人並みの健康を手にするのに、人並外れた苦行をしたのだと言い切る自信がなく(いや、それは確かに並外れた苦行だったのだが!)、根底に単なる偶然の作用を認めざるを得ないのだ。

 

 ((ところで人はすぐに「耐えられない」だの「我慢できない」だのと口にする。僕はそれを言わない。軽口は叩いても本気では言わない。耐えられないなら、たとえば感情を消した方が有利だと身体が判断して、感情を失ったまま動くことが出来るようになる。どんなに狂った環境にも適応してしまうかも分からない。耐えられないかどうかを決めるのは「主体の意思」ではない。

 考えてみれば気合や根性という言葉が嫌いなのは僕がいわゆる内向的な人間だからではなく、そんなものは空気のようにあって当然だからなのだ。それは口にされた瞬間に強者の論理として人を圧迫する。気合や根性と名付けられることさえなく、それが労苦であるという判定さえ覚束ないままで、混濁の中を泳ぎ回ることこそが気合や根性という語の指し示さんとする本来の意味だった筈だ。

(ところで僕の人格的な壊れ方はこういう極論を言うところに集中しているのだろうな……)

 その上で根性論が嫌いな理由は、往々にしてそれを唱える彼らは、体力や同調性が優れているだけに見えるからだ。その種の人間の人生に「気力」の出る幕などない気がする。彼らの厳しい(と体力のない人間には錯覚させられる)トレーニングの後の、有り余る力の発散による充実した表情を見てくれ。))


 断絶が事実であれ妄想であれ、僕は僕以外の人間が「自然」であり、僕は「不自然」だが何かしら気狂いじみた修練によって社会参加している存在であるという解釈に寄りかかっていることには、確からしさがある。


 とはいえ茶番に思われるのは社会に対してだけで、僕の情動が総体として薄っぺらい訳ではないのです。本当です。社会参加の面で僕が演劇的であるのは間違いないが、それは「たまたま」僕が自分とかけ離れた種族の人間の輪に入ってしまったからに過ぎないだろう(あるいは社会という構造が必然的に抱え込むあれこれによって)。

 言っておくけれど僕は社会で関わる人間の誰一人として個人的に嫌いではないと思う。けれども彼らの内の誰がいなくなろうとも二日足らずで僕の「記憶」から「思い出らしき印象」は抹消されるだろう。社会から離れた時、彼らの言葉が僕の胸に残ることはないだろう。彼らは僕に成長や成熟を望んでいるかも知れないので、僕が彼らの言っていたことはどこか微妙だが総体として釈然としないと訴えたとしても(訴えることはないですが)、彼らからしてみれば「いつかきっと分かる日が来るよ」と言うような、端的に言えば未熟者に対する上から目線の美談に回収されるかも知れず、そうなれば僕は自分が単純に素朴な未熟者である可能性を望みもするのだが、そして彼らの信じている説得可能性に賭けて、成長や成熟という観念が意味を持つ世界を望みもするのだが(僕は何も否定出来ないのだ)、それにしても彼らの存在が僕の胸に残ることはないだろう。そして僕は依然として何も分からず、実際的には共同体に所属しているにも関わらず、根無草や引きこもりと大差のない心性を当て所なく彷徨わせていることだろう。

 

 僕がこんなにも心動かされず釈然としない言語を用いる共同体で、文句一つ言わずに形だけで(それなりに上手くやれていることを楽しんでもいるのだが)同調しているのは、仮に僕が「みんなと同じような人」であったとしても、僕の演劇性に対するある種の執念を示しているとは言えるだろう。

 「ここに勤められる人は感情がない」と罵詈雑言を吐き捨てて職場を辞めていった者がいた。言うまでもなく職場の人間が皆無感情なのではなく、端的にその者の不適応から来る訴えである。その者は自己愛が強く周囲の人間から白い目で見られていたし、僕としてもその者の刺々しく権威的な人格に辟易していたのは事実だが、僕にはその者と周囲の者とのどちらが真っ当とも言うことが出来ないのだ。と言うのも、僕にしても長い間ほとんどの人を泥人形のようなものだと思って生きてきたのだし(朝起きるたび今日も人間どもの中で生きなければならないことに気付くことの、這い回る虫の巣に叩き落とされるような絶望)、僕の場合はそれをもはや所与の条件として受け入れてしまっているに過ぎないように感じられるからだ。故に断絶を殊更に周囲に主張するのは甘えなのだと言ってしまいたくなる。僕は他者に何の思い入れもないまま、無味乾燥な演劇に「執着」する(もしかしたら乗り物に乗れるようになるにも似た喜びがそこにあるかも知れないけれど)。これはもう「執着」以外の何でもないように思える。それがその者と僕のスタンスの違いというところだろう。

 

 

 総括すると僕は「結果的に正常に適応した普通の人」なのだろうな、という話ですよね、これは。最近はインターネットで知り合った人たちとdiscordでよく話してますが、かなり居心地が良いです。本当はこんなことを問題とせずに居心地のいい環境にいられたらそれで良いに決まっている。居心地のいい場所を探すという発想が、ないわけではないにせよ、何らかの形で酷く抑圧された結果なのだろうか。現実は原則としてこうなっているのだと諦めるのが早過ぎたように思う。

 世界に対する曰く言い難い座りの悪さはどちらかと言えばトラウマ的なものが後を引いているだけだったりするかも知れない。とにかく24歳くらいまではこの世の糞をかき集めて塗りたくったような人生だったと評価せざるを得ないので……。座りの悪さを解釈するために自信過剰になったりサディスティックになったりしてしまう訳です。アイデンティティの揺らぎは怖い。あまり自意識を働かせても仕方がないけれど。

 人生ですが、日に日に健康を更新しています。つまりそういうこと。めでたし。