スクリーンの空

パロディ

芸術の話

 一定の情緒に凡ゆるモチーフが包まれ、首尾一貫した論理で正当化された世界には我慢ならない。まるで「私は妄想と現実の区別が付いておらず、その点について指摘すると癇癪を起こしますよ」と開き直って、自分で看板を背負っているようなものだ。

 ポール・セザンヌが感覚に対して行うことで達成した、剥き出しの対象とでも呼ぶべき造形を、僕は言葉が形態や形態同士の関係にもたらす安定作用に対して行いたいと考えているのである。しかしことはそんなに単純ではあるまい。

 単に形而上的な観点による意味の不在を自覚する程度では足りない。意味を破綻させる何らかの固有のトリガーが見出されなければならない。それは一見して個人的なものに由来するようなのだが、普遍的なものを貫くトリガーである筈だ。

 例えばそれは皮膚感覚であり、対象に触れようとすればするほど、逆説的に対象を失っていく様な、対象の連関が切り離される瞬間の感覚を解き明かさなければならない。

 


 或いは世界が糞であるという感覚のことだろうか。幻想を失った世界は凍り付いてしまった。世界は乾き切って、痙攣しながら死に絶えている。幻想の中にあって、世界はその動きに意味を与えることが出来る。運動にはリズムがあり、我々はそれを楽しんでいた。しかし今や我々は予期せぬ揺動に常に身構えていなければならない。

 幻想を否定した所で真実に触れることなど出来ない。真実は幻想を成り立たせる為の柱に過ぎなかった。柱そのものにいかなる人間的な意味もありはしない。それならば幻想が切り替わる様を俯瞰しつつ、幻想に身を投じることの開き直りを肯定するしかないのだろうか。そうだとすれば、新たなもう一つの幻想の創出以上に意義ある仕事はなくなってしまうだろう。また、一つの幻想が外的な力によって破壊されるまで、出来るだけ長くそこに留まろうという(それを幻想だと知りつつ行うが故にことさら見苦しさが際立つ)、保守的な態度の称賛にしか繋がらないだろう。ここからは、運動性を肯定する倫理が導き出せないのである。運動性の目的は同一性の獲得ではないのだ。

 確かに世界はたびたび、最悪の瞬間を開示する。しかしその最悪の開示は神々による露悪的振る舞いなどではなく、それ自体を深く肯定しなければならない性質のものでもある筈だ。従ってそれを醜いものとして認識することは、何か重要なことを取り逃がすこときなりはしないだろうか。

 恐らく、幻想の美しさなどは退屈なのだ。そして退屈であるということなど大したことではないと言って、通り過ぎることは出来ない。退屈という問題は究極的に、人間の生の根源に関わる問題なのだ。幻想に醒めた者が幻想に再び入っていくのは、今自らがその中にいる幻想性を、運動を肯定する為の痕跡として見做しているからである。

 

 

 我々は物を表面的にしか捉えることが出来ない。決して存在を定礎することが出来ない。我々は根拠も必然性も不可視のままで意味の系列を信じ込み、自分が言っている意味も分からない呪文を唱え続けている。物の表面は時に、形容し難い一種の落ち着きのなさとでもいうような奇妙な外観を見せる。しかし、それはそのままに肯定され、流れ、忘れ去られる。この忘却の絶え間ない流れこそが、我々の神であるだろう。存在を見出そうとする者にとって、流れが形作る波紋の襞は、急速に凝り固まり、出口なき迷宮となる。居心地の悪い表面、そこに何かしら纏まった意味を与えることが出来ない表面の前で、立ち竦む他にない。表面は常に、内破される予感に満ちている。これがこのまま静止したままである筈がないという、恐怖の予感だ。それは暗闇の奥深くから這い出ようとするものの恐怖ではない。白昼に照らし出されたものの恐怖である。しかし、常にこれではない何かに変貌しようとする身振りにも関わらず、この表面が意味するものは根源的に明らかにされない。それは表面であり続ける動く表面であり、法則を超えた地点なき地点から到来する表面なのだ。

 この落ち着きのない表面。それは我々の存在の底が抜けたということであり、我々が故郷喪失者となった証である。我々の自己と、自己を取り囲む世界との信頼関係の底が抜けたのである。

 ここに来て表象は、もはや一つの美観や一つの気分を写し取り、そこに安穏とすることが出来ない。また、世界に奥行きは失われたのであり、形の奥にある何事かを示そうとすることも出来ない。我々は新しい故郷を生み出すのではない。我々は目醒めたままでいる。我々の目眩は、表象が表面でしかないこと、そして表象が決して静止していないことに由来する。表象は、凶暴で、不安定である。だがそれは、凶暴さや不安定さの表象なのではない。それは表象それ自体の凶暴さであり、表象それ自体の不安定さなのである。表象の意味は我々から切り離されており、故に我々を侵襲しようとする。しかし我々はこの幻惑を凝視し、逃げ出すことはない。何故なら表面にこそ、全て深淵なるものの痕跡が刻まれているからだ。しかしまた、これは垂直性、すなわち聖性の放棄ではない。垂直性は、表象され得ぬものであり、表象されることによって虚偽へと陥るからだ。

 我々は見ているものを知ることが出来ない。故に手は、絶えずイメージを不安定化させながら産出する。それは呪術師の糾う組紐の様に、外界を造形的に悪魔祓いする。造形的悪魔祓いは、イメージの奥に統一的な意味や、隠された神秘を指し示すことによって成されるのではなく、終わりなく変容する表面の暴力的不気味さを、美的に肯定することによって、そのままに達成されるのである。偶然現れた表象に、それが常に動揺していると知りつつも、憩いを見出すこともあろうが、そこに定住しようとする心性は跳ね除けられなければならない。絶えずどこかへ行こうとする運動を肯定しなければならない。

 肯定されなければならないのは、この運動それ自体であり、してみれば、現れる表象は運動をその都度垣間見させる痕跡に過ぎない。運動それ自体は不可視であるのだが、運動は、それによって表象の意義を二次的なものに貶めるような、背後に存在する真理めいた何物かではない。運動は、表象それ自体の表面に刻まれた一種の効果であると言うことが出来る。

 

 

 音楽との出会いのように、人との出会いのように、法との出会いもまたある。

 

 

 細切れになれば細切れになるほど救いようもなく沸き立つ悪夢が、離れ離れになった君の手足の呪い師によって、組紐に象られる。背景=痕跡の集積する時空間の中から思考を浮かび上がらせよ。思考は線である。決断は、もし背景=痕跡を消し去るならば、指一歩動かすに至るまで、狂気の沙汰となるだろう。しかしそうなってはおらず、線は、回帰する者の差し出す発光する糸のようだ。恩寵は彼方から飛来するのではなく、君の立つ地面に刻み込まれ、君の呼吸する空気の中に瀰漫している。何事も君自身から始まりはせず、何事も彼方に立つ者が定めた秩序によって動くのでさえない。

 


 問題となるのは、狂っているのは自分か、それとも彼かという、不安と焦慮を生む弁証法的な対決ではなく、ある形が別の形の描写の可能性を呼び込む一種の造形思考である。恐らく外傷的経験は、この造形思考の欠如ないし抑圧によって、もはや不可能となった統一的な意味への回帰へと、思考を強制的に揺り戻そうとすることによって、抜け道を失っていく。

 

 

 人間にとって意味とは、その言語以上の速度によって、「顔」なのだ。

 変顔は、社会的な意味を担った表情を持たない「零度の顔」を、顔のパーツの過剰な動きによって逆説的に示すことで笑いを起こす。そこにあるのは単に顔の筋肉の運動であり、その運動が本来意味するはずの表情がかけており、そこに「無」が生じる。いわゆる「無表情」は、社会的な意味が刻み込まれているので、「無」を提示することにはならない。

 同様に、付置の絵画(ピカソのように絵画の構成要素を造形言語として自然的対象から分解して再構成する方法)は、表象の造形的な偶然性を明らかにし、表象と意味作用の関連が恣意的であることを暴く。その過剰性は瞬間的にではあるが、剥き出しの虚無を露呈させる。その虚無の耐え難さから身を引く時に、笑いが起こるに過ぎない。瞬間的な虚無は、別の存在の予感を与える隙を生じさせる。ここにフォルム=現実という開示が起こる。

 顔の消去の果て、意味の不在がそれ故に空虚と名付ける、掻き消された面影の果てに、歩みを向かわせる指標、それは太古の……底にある筈のもの、人ではないものへの信仰である。破壊は意思的に行われもするが、その果て……そこに向かわせるものは、人ではない。