スクリーンの空

パロディ

賭けについてなど

 共同性が自明ではないということは、存在に有限な意味を与え、その意味の根拠が不安定であるということが(それを常に不安定であると考えることは出来るのだが)、乗り越えなければならない試練として立ちはだかってくる状況なのである。しかしその試練は決して乗り越えることが出来ない。意味を与えるのは共同性であり、意味の否定でさえも、共同性に基づくコードからの脱線を意味するに過ぎない。何かを語ることはそれ自体で共同性への信仰告白である。我々はそこに帰っていくことを強いられる。賭けは強要されている。我々は主体の華々しい決断によってではなく、諦めによって、賭けに戻っていく。意味それ自体を賭け事であると認識することは、ニヒリズムの最果てに生じるのだ。いかにそれが意味を欠いていたとしても、我々はどこか遠くへと飛躍するのではなく、我々が生まれてきた地点へと、帰郷するのだ。我々の語る言葉は、故郷の言葉でしか有り得ない。我々の言葉が通じる他者とは、同じ故郷を持つ存在者であるが故に、そこに飛躍などない。賭けとは彼自身の唯一の故郷へと帰り着くことであって、だからそれは決断ではなく諦めなのだ。故郷とは身体である。そこには別種の可能性がある。

 

 

 真理への挫折は、彼をオリジナルなきパロディの空間へと開く。そして金輪際この空間だけが存在する。つまるところ、彼は真理に対して挫折したのではなく、まさにそれ故に、世界に対して挫折することになるのだ。パロディの空間において、自明に共有可能な意味というものは、思考が許す限りにおいてまで細分化され、根底から懐疑に晒される。そして考え得る全ての表現は、共有可能性の保証の欠如によって水平に並列させられる。もはやある言葉が別の言葉に取って変わろうが、それが伝達されることによって人々の脳裡に再現されるであろう、想定されるべき現実などというものは等しく偶然である。賭けが始まるのだと言っても、蓋然性のない無限大に増殖する選択肢の中での賭けとは、一体何なのか?賭けを行うにあたって必要な、賭ける意志を駆動させる外的要因は消失しているとすれば?

 賭けることを可能にする何か、それは予め書き込まれているものでなければならない。人は予め書き込まれているものに対して賭けを行うのであり、自発的意志によって賭けるのではないのだ。パロディの空間において、人は何か自由な選択をすることがどのような結果を引き起こすか分からないような賭けを行うのではなく、それ以外に賭けようのない何かに賭けるということに賭けるのである。それに賭ける他にないものに賭けることを決断すること。それが彼の意識を存在の妙有へと開かせる。完全に決定されていることと、偶然に開かれたままであることの一致という恩寵。完全に決定されており、それに賭けざるを得ないにも関わらず、決してそれがオリジナルではあり得ないということの恩寵。真理への飛翔という試みからの帰還は完了する。

 

 

 流れだとか光だとか命だとか言って、安易なスピリチュアルな感動に寄りかかってはならない。彼らには崩壊の危機感覚が欠けている。日常的空間がひび割れる時に現れるものは、緊張を孕んだ物体の痙攣であり、紛れもなく不愉快なものであるだろう。馴染みのない世界との対峙によって出現する新たな空間、意味、隠喩は、我々を包み込むのではない……それらは予兆されるに止まる。

 

 

 昔行った悪いことを悪びれていないかの様に口にするのは、成人してから身に付けた公正な価値観と照らし合わせ、過ちを正面から反省することを避けている為に緩やかに続いている罪悪感や、薄々気付いている自らの無能力やみっともなさ、それら自堕落な性質が、現に招いている不満な境遇の数々といった、理想との不和を緩和する為の神経症的な行動であり、しかしその正当化は、無意識を説得する訳ではないので、強迫的に反復されることになるだろう。

 

 

 恐らくピカソは本当に物を壊すのが好きなのだ。人はそこに目を向けないけれど、芸術として昇華される以前の、幼稚で本源的で、恐らく社会的に許されない、単純に邪悪な衝動、そういうものが作品には隠されている。仮にそれが目に見えたとしても、目の前にあるのが芸術作品であるならば尚更、人は何かと小綺麗な説明を用いて隠蔽してしまう。

 目を背けずにいられないものは、そもそも目に映らない。とはいえ目を背けずに見られるものにまで作品として高められた「外部性」は多くの場合、人の意識から排除されてしまう。暴力性そのものが芸術に値するのではない。現実を更地に戻し、別のリズムを捕まえるためにそれは利用されるのだが、利用されたものは隠匿される。これは美術史的な鑑賞とは関係がない。

 

 

 思考が言語であり、言語をパズルの様に組み替えることが、世界の捉え方を実際に変えてしまうことのメタ認識。現実と言語の癒着を一度切り離していること。遊びであることが即ち真剣であり、その一致を楽しめること。

 

 

 現実の矛盾に耐えられない未熟な精神は垂直的関係に於ける、論理的に平等な断罪を望んでいる。子供が抱いている、大人への素朴な信頼のような。それは信仰に発展する。しかし宗教的な土台が欠けているからこそ、無宗教を気取っているからこそ、たかが世俗の論理に雁字搦めにされてしまうのだろう。日本人は立場的に上の人物を神だと思って信仰してしまいがちだ。過言ではない。実際に信仰における思考回路が発動しているのだから、上っ面の、いわゆる「宗教的イメージ」など本質的ではなかろう。

 ダブルバインドも学習性無力感も、垂直的な規範意識への信仰とセットで成立しているのではないか。何故矛盾が発生するのか。垂直的関係が実際は権力による偽装だからである。本来、そもそもが一人の人間の欲望を相手にしていたのである。そうであるならば欲望の分析が必要となる。さらに言表行為はその性質上、一般性や普遍性を装ってしまう(これは発言者自身にとっても悩みの種となり得るだろう)。もっとも、認識が構造的な分析に移った時点で、支配からの脱出は殆ど完了しているだろうが。

 権力の構造を暴くことは単に社会批判なのではない。傷を負った人生から立ち上がる為にも、自立する為にも必要な認識上の訓練の一つだ。

 

 

 マジョリティは無意識的な差別構造に身を浸して生きる。マイノリティは、意識的に差別を行うための胆力がいる。意識的に差別主義者になることの罪悪感に耐える力がいる。或いは罪悪感など感じずに差別するようになる必要がある。差別しない人間になる能力が必要なのではない。そんなことは出来るはずがない。そこを間違えたマイノリティは病む。

 

 

 合気道などの技は、その技を良く知っている相手には掛けやすい。これと同じで、同じ性質の人には話が通りやすい。自分の乗り越えてきた道の重みが伝わるかどうかも、性質の近さに影響する。極端な話をすれば、理性のない怪物にとって、人間的な価値や、尊厳の重みなど全く通用しない。怪物はお前のことをクズ以下の存在と見做す。性質の異なる他者も、程度の差はあれこの様なものだ。ところで、性質の異なる他者に対して、異なる技術体系を持った他者に対して、最も効果的な手を打てなければ、積み上げてきた技術など独りよがりであり、無意味だ。陳腐なことを言っている馬鹿だと思われるだけだ。相手の重心を見極めて、有効な技をかけなければならない。人間的な大きさを見せつけたり、権威に寄りかかったりするのは最終手段であり、あなたと信頼関係を結んだり、手懐けたりすることは出来ないと降参した合図だ。

 自分が優れているか劣っているかを棚上げして、技の次元において考える。あらゆる事柄を「技化」する。その対象についての好きや嫌いは、「技化」における快楽とは、あまり関係がない。車に全く興味がなくても、運転することは出来る。運転できてしまえば、なんとなく楽しかったりもする。

 

 

 果てのない旅には

 影のように儚いものしか

 連れて行くことが出来ない

 部屋にかかる闇……

 右半分が唐突に外にまで広がる黒

 そこから雲が入ってくる