スクリーンの空

パロディ

死と乙女

 扱っている言葉を変えたい。ここにいたくない。言葉を変えるのではなく、経験の方を変えたい。感覚そのものを。僕の本質は自己を否定し続け、停止する事だ。それ以外には特に何の要素もないので、別人になったって構わない。全ての自分の感情を冷笑する人間が脳裏に住み着いている。そいつによると、僕の思考は僕の思考であるという理由で却下されなければならない、との事だ。何一人で舞い上がってやがる。こいつを上回る方法はない。自己否定に限界はないからだ。無視する方法はあるが、僕自身よりも僕自身なので無視できない。癒す?癒すと言っても何を?僕に感傷の権利はない。幼児退行して泣き言を言うのも嫌だ。吐いた言葉を全て自分で塗り潰さなければならない。書いた言葉を書かれたという理由で消さなければならない。僕はいつまでも逡巡する。逡巡は痙攣になって、その震えは細か過ぎるので、傍目には止まって見える。みんな死ねば良いと思う。いや、思わない。何も思わないから、思わない。倫理からではなく、思う事自体を抑圧しているのを肌で感じるので、思わない。思う事をしている人に嫉妬するが、嫉妬しない。相対的だからだ。僕が思っている事はかっこ悪いが、何も思わない事はかっこ悪い。僕だからだ。僕は自分が気持ち悪くてしょうがないが、自分を気持ち悪いと思う事もまた気持ち悪い。そう、これは自分が感じている事に対する違和感なのだ。違和感だけが真実であり、あとの表現は何かしら決定を下してしまうから、違和感の餌食になる。違和感こそが感覚の中の感覚だ。感覚の王。僕は結局、子供が書き殴る様な感情表現の数々を繰り返すだけなのだ。僕は最悪だが、別の世界の自分が思ったかも知れない事と、今この僕が思ってる事のどちらがマシだろう。僕が比較しているのだから、どちらでも良さそうだ。そうではなく、どちらも良くなさそうだ。否定形に取り憑かれた僕だからだ。少しはものを考えているのだろうか?同じことを違う言葉で言い換え続けてるだけなんじゃないか。抽象的な理屈を文の始めに置いて、結論は同じだ。僕の抽象は考える事や感じる事そのものについてであって、僕自身が考える事や感じる事に向き合う事を回避する。無内容だ。無意味だ。僕の言う事は全て同じだ。この文章も同じだ。僕が言いたいのは要するに、何も言う事なんてない、何も言うべきではない、という事じゃないか。もはやそんな事には飽きた。僕の中には多様な感性などない。何を見ても同じだ。呪われた還元主義者だ。純粋じゃないのだ。見ていやがれ。今それを証明してやる。何か言ってみろ。何か名指してみろ。ほらお前、あれは何だ。お前だ、お前。あれが何だか言ってみろ。そう、あれは《死と乙女》だ。正解。実に簡潔な答えだ。それでは、その隣のあれはなんだ。《死と乙女》。また正解。そうだ、分かっているじゃないか。じゃあ、そのまた隣のあれは…。