スクリーンの空

パロディ

人の夢

 かなり虚しいので何も思わない。自分の単調さにうんざりしている。どうせ何も出来やしないという不安。自分が過ちを犯しているという不安。同じ不安が繰り返されるが、何も感じていない事。絶望や目的を感じない事。自分自身の言葉が誰の役にも立たず、世間的にも褒められた事は何も言えないという事の気疲れそのものに、僕は疲れている。抽象化したくないので感覚的になる日があり、今日がそれだ。僕は明日には正反対の意見になるかも知れない事を書くのに習慣的な嫌悪感を覚えるが、継起する感情を纏め上げる事に虚偽を感じている。感覚は流れ去り、僕は自分を見失うが、全ては喪失なので、自分を見失わないものは存在しない。

 

 人間に親しみを感じず、好意を抱く事が出来ない。いつも自分を余所者に感じる。というのも、人々が集団となる時の、薄ぼんやりとした、柔らかい偽りの優しさが、人から人間性の何か厚みの様なものを剥ぎ取って、希釈された言葉と笑みが空間を包み込むからだ。緩やかな欺瞞。誰も他人を見てはいない。もちろん、これさえ甘美な日常の理想的なイメージの一つであって、多くの場合、数々の打算や欲望からなる、刺々しくうんざりさせる困難が一つ一つの応答に絡み付いている。しかし、僕はそうした事を煩わしく思うべきではないのだろう。正確に知る事なく解釈し、正確に知られる事なく解釈される事で現れる影像に、自らの実存を意図的に重ねる気苦労。だけどこの世界ではどうしたって、見られた者は皆、他人の夢になるのだ。苦痛が安らぎよりも真実の様に感じられるのは、まだ現実と虚構の違いを上手く見定めていない者だけだ。何故なら全ては夢なので、我々に出来る事は、都合の良い夢を見るか、都合の悪い夢を見るか、都合の良い夢と知りつつその夢を見続けるか、それとも……

死と乙女

 扱っている言葉を変えたい。ここにいたくない。言葉を変えるのではなく、経験の方を変えたい。感覚そのものを。僕の本質は自己を否定し続け、停止する事だ。それ以外には特に何の要素もないので、別人になったって構わない。全ての自分の感情を冷笑する人間が脳裏に住み着いている。そいつによると、僕の思考は僕の思考であるという理由で却下されなければならない、との事だ。何一人で舞い上がってやがる。こいつを上回る方法はない。自己否定に限界はないからだ。無視する方法はあるが、僕自身よりも僕自身なので無視できない。癒す?癒すと言っても何を?僕に感傷の権利はない。幼児退行して泣き言を言うのも嫌だ。吐いた言葉を全て自分で塗り潰さなければならない。書いた言葉を書かれたという理由で消さなければならない。僕はいつまでも逡巡する。逡巡は痙攣になって、その震えは細か過ぎるので、傍目には止まって見える。みんな死ねば良いと思う。いや、思わない。何も思わないから、思わない。倫理からではなく、思う事自体を抑圧しているのを肌で感じるので、思わない。思う事をしている人に嫉妬するが、嫉妬しない。相対的だからだ。僕が思っている事はかっこ悪いが、何も思わない事はかっこ悪い。僕だからだ。僕は自分が気持ち悪くてしょうがないが、自分を気持ち悪いと思う事もまた気持ち悪い。そう、これは自分が感じている事に対する違和感なのだ。違和感だけが真実であり、あとの表現は何かしら決定を下してしまうから、違和感の餌食になる。違和感こそが感覚の中の感覚だ。感覚の王。僕は結局、子供が書き殴る様な感情表現の数々を繰り返すだけなのだ。僕は最悪だが、別の世界の自分が思ったかも知れない事と、今この僕が思ってる事のどちらがマシだろう。僕が比較しているのだから、どちらでも良さそうだ。そうではなく、どちらも良くなさそうだ。否定形に取り憑かれた僕だからだ。少しはものを考えているのだろうか?同じことを違う言葉で言い換え続けてるだけなんじゃないか。抽象的な理屈を文の始めに置いて、結論は同じだ。僕の抽象は考える事や感じる事そのものについてであって、僕自身が考える事や感じる事に向き合う事を回避する。無内容だ。無意味だ。僕の言う事は全て同じだ。この文章も同じだ。僕が言いたいのは要するに、何も言う事なんてない、何も言うべきではない、という事じゃないか。もはやそんな事には飽きた。僕の中には多様な感性などない。何を見ても同じだ。呪われた還元主義者だ。純粋じゃないのだ。見ていやがれ。今それを証明してやる。何か言ってみろ。何か名指してみろ。ほらお前、あれは何だ。お前だ、お前。あれが何だか言ってみろ。そう、あれは《死と乙女》だ。正解。実に簡潔な答えだ。それでは、その隣のあれはなんだ。《死と乙女》。また正解。そうだ、分かっているじゃないか。じゃあ、そのまた隣のあれは…。

暴力表現

 フィクションを仮構し、無秩序の中で、人々の意志に纏まりを持った方向付けを与える事を創造行為と呼ぶならば、現代に於いて、数え切れないほど生み出された「方向」は、もはや根拠も必然性も持たず、観念の数々は全くフラットな水平面上での、趣味や慣習からなる価値観の「座標」でしかなくなる。

 例えば理性中心主義と、それに対抗する、ある種の「低いもの」、理性が排除して来た諸概念の存在、血や刑罰などの暴力性、蜘蛛や驢馬などの歪な生き物、人間達同士の埋める事の出来ない隔たり、激烈な攻撃性、不安をそそる不定形との対立は、今となっては完全に実質を欠いたものとなっている。そんな構図にはノスタルジーさえ感じてしまう程だ。我々が生きる時代では、暴力は平凡な属性の内の一つでしかない。「刺激的な表現」は退屈の代名詞と言って良く、暴力、そして死さえも、相対的な慣習や趣味の一形態へと衰退している(僕はそうした感受性を暴露する表現の先駆としてマネの絵画を思う)。倦怠感による感情の支配は今に始まったことではない。

 暴力は、それが期待されざる事故でなければ役に立たない。人間は暴力をそれと知らない内に待ち望んでいる生き物かも知れないが、しかし、この場合の暴力がイコール血みどろの表現であるというのは間違いだ(もしかしたら昔はそれで良かったかも知れないけれど)。暴力とは予測に対する裏切りであり、思い込みの解体でなければ効力を発揮しない。要するに数々の魅惑的なイメージは本来ただの餌であるべきなのだ。しかし我々は何かしらのイメージを介さなければ想像力の転換を成す事は出来ない。暴力的なイメージは日常という空間に対立する格好の方法として、これからも生み出され続けるだろう。しかし我々の目を本当に覚まさせる様な暴力表現の可能性は、全てが見世物の様になった世の中に於いて、趣味性の共同体がますます細分化されると共に、減退して行くだろう。

 

 なんて事をミヒャエル・ハネケ監督の映画を観て思っていました。

 

表象

 たとえ世界がフィクションであってもフィクションの中に様々な感情の居場所を見付けられるという事自体を尊重しなければならない、と思う。というのも、それ以上のものは何処を探しても見付からないからだ。幸福や不幸のイメージによる諸々の価値観、即ち物語は本人の意図に依らず自動的に形成されてしまう。幸福の表象(例えばお金持ちになるとか)は個人の生理的な充足感と一致している場合もあるので、それを虚構として相対化したとしても、執着こそ消えども苦痛自体は、生きている限り消えてなくなる訳ではない。例えば飢えという苦痛が食べ物を求める時、御馳走の表象がフィクションでしかないと知っていても、とにかく食べない事には充足は与えられず苦痛はある、という風に。人間の作り出す物語は多様なので、ある個人の心の平安や充足にとって適切に機能していないものもあれば、食べ物の様に(ほぼ)確実に機能しているものもある。その「確からしさ」は偏に経験によって与えられているに過ぎない。表象は全て何かしらの意味でフィクションであるが、我々が表象を通してしか世界と関わる事が出来ない以上、現実/虚構という対立は何の役にも立たない。例えばある人にとってお金持ちである事が他者より優れている事を意味しており、その人が他者よりも優れていたいと望む時、飢えに対する食べ物への欲求が誤りであるとは言えないのと同じ意味で、この場合もそれが誤りであると言う事は出来ない。何故なら人より優位に立ちたいという欲求は彼にとって飢えと同じ様に現実そのものだからだ。その様なやり方を間違っていると思う時、我々は別の物語を参照しているに過ぎない。即ち人より優位に立っても人の心は本当に満たされはしないだろう、という物語だ。しかし現実を変えるのではなく、内省によって心に抱いてしまっている物語の枠組みを変える試みは、数々の尺度の否定による平安という、幸福論の一つのやり方以上のものではない。個人の内面的な経験を直截に他者に伝える事は出来ないので、その効用が論証によって条件付けられるという事はない。僕の見ている赤色が他者の見ている赤色と同じ質感であるか分からないという事と同質の問題だ。尺度の解体によって齎される一種の平安状態は、それが既に起こっている個人にしか理解されない。また人間がある特定の方向へ向かう選択をする時、それ自体一つのフィクションへの根拠のない欲望に依る他ないし、予め(どの様な人間性を獲得するかという)結果を予測する事が出来ない為に、選択はその時点に於ける直感的な飛躍として行われざるを得ない。正当化された方法など決して存在しないのだ。現実と虚構の対立は無効となり、真理の表現は行為遂行的な信仰告白となる。それは他者をただ「誘惑」するのだ。全く無根拠な愛着だけがその発端となる。それしかやり様が無いのだから、それで構わない。それが出来る事を尊重しなくてはならないのだ。こう考えるのも僕が尺度を否定する立場の人間だからであり、それが僕の感情の居場所であるからだ。もはや取り替えの効かない、巻き戻す事の叶わない居場所なのだ。それ自体もまた偶然的な結果に過ぎないと思う。

 或いは僕が言いたい事は、他人のエゴイズムを否定しようとする事はエゴイズムである、という反省であるかも知れない。

シモーヌ・ヴェイユの悲劇と詩

 ヴェイユにとって、詩、即ち美の発見には恥辱、悪による実存の引き裂きが必要である。美とは我々をうっとりさせるだけではなく、現実の不条理と命の恐ろしさを見せ付けるものでもあるのだ。古代ギリシャでは悲劇が最も美しい表現とされた。何故ならばそれが「本当の事」を語っている様に見えるからだ。悲劇は世界に不条理な苦しみがどうしようもなく存在してしまう事を伝え、それによって傷を負った人間を慰める事なく肯定するのだ。リスクの無い世界では、人は人格の何たるかを理解する事が出来なくなる。悲劇はそうした安住に亀裂を入れるのである。我々は信仰心や、愛する恋人や美味しい料理など、好ましいものが目の前にある時には、それを柱として価値観の中心を支え、諸々の事物を関連付けて生活を意味付ける事が出来る。好ましいものに囲まれている時、我々は自らの執着やエゴイズムに気付かない。悲劇が体験させるのは、そうした意味関連の連鎖の破れである。ヴェイユが用いる「キリストの磔刑」の比喩に代表される「なぜ私が」という嘆きは、自らの所有物への執着やエゴイズムの自覚であり、それを消し去る為に必要な儀礼である。その瞬間、世界は剥き出しの無関心を持って致命的な牙を剥くだろう。しかし皮肉な事に、世界が思い通りにならないという不条理の現れこそが、世界の実在感を我々に伝える唯一の方法なのである。予定調和の世界に我々はリアリティを感じる事が出来ない。であるから、目を背けたくなる残酷な悲劇こそ、我々に真実を伝える表現である。しかし同時に真実は我々を焼き尽くす程に危険なものだ。

 取り返しの付かない悪が現実に存在する。もしそこに美が存在しないならば、悪を被った我々の心は耐えられず、他者に向けて攻撃性を発露させるか、それが無理と分かると自らの世界の表象の方を傷付けてしまうだろう(この場合、本来なら素晴らしい筈のものが自分を侮辱している様に感じられる様になる)。それでも持ち堪える事が出来なければ、気が狂うか、すっかり堕落してしまうかするだろう。しかし幸運にも、まったくもってそれは幸運なのだが、美はやって来る。我々は不幸を被った人間の生を真近に垣間見る時、虫ケラを見るようにして嘲笑う事などしない。また、可哀想だと思って同情するのとも違う。我々はそこに生の全的な輝きを認める。何故その様になっているのか決して分からないが、一切の起こり得る事を誤魔化さずに直視する時、極限的な苦難の最中、これ以上なく低い地点まで魂が落ちる時、神秘的な誘いの風に乗って美は立ち現れる。ヴェイユの「神など存在しないと思いながら祈る事」「神を信じている者よりも唯物主義者の方が神に近い」というある種の撞着的な態度に示される様に、「なぜ私が」と問うその時、一切の賞賛や同情などの現実的な慰めはあってはならない。報いられる事のない悲劇。そしてそれを必然として受け入れるのだから、当然復讐など考えてはならない。すると運命に引き裂かれた実存の内部に、世界がただそこにあるという事実を受け入れる事の、新たな美が現れる。その為には、我々はただひたすらに自分自身の無力を噛み締め、恥辱の中で待つ事だけが必要なのである。

 僕はここで疑問を感じる。それはリスクの問題だ。こうした美の捉えた方は、人々を安逸の中に守るものである一般に考えられている善とは相入れない様に思われる。我々は普通、自らが思い抱いている安寧の日々を成り立たせるものを善と定義し、そこから逸脱する要素を悪と定義して切り離している。つまり普通、悪とは幻想を破るものである。しかしヴェイユが「悪が成されたという事によって善を愛する事」と語る様に、彼女にとって善とは悪の対となる概念ではなく、悪を包括する上位の概念である。それは決して不幸の体験が役に立つから愛せという意味ではなく、不幸があるという事を愛せという要求なのだ。この様にヴェイユに於ける真善美の概念は、不幸の体験によって分かち難く結び付いているのだが、同時にここにヴェイユの過剰なまでの厳しさがある。不条理による苦しみが避けがたい必然であり、そこから逃れようという思いさえ禁じる事が、それらを感じる為に必要な条件であるのだ。つまりここではゲーテが「涙と共にパンを齧った事がないものは…」と語る様な意味で(それを極限まで激しくした様な意味で)、悪に善が浸透するのだ。この様にして善悪の観念が解体されたならば、その後で現世を生きる我々は、如何なる方角を向く事が出来るだろうか。

 ヴェイユにとって美の出現には一つの意図されざる不条理が必要である。不条理を被った人間の表現として、美が存在しているのだ。これは一見して矛盾である。悪は常に意図の外部から生じて来る不条理としてあるので、悪を自ら求める訳にはいかないからだ。もしユートピアを想定してみると、そこに美は存在しないだろう(恐らく真も善も存在しないだろう)。しかし美の感情がユートピアの人間の感情と比して、多かれ少なかれ悪を被る事のない人生は可能であるが、そうした過酷ではない生を歩む人間の感情と比して、優れているなどと言う事は出来ないのだ。ヴェイユの眼差しは一切の尺度が瓦解する特異点に向けられており、そうした考えもまた、一つのエゴイズムとして退けられる。つまりとにかくこの現実に不条理はあるのだから、その限りに於いて美を感じ取る態度や能力に価値はあるのだと、そう考えなければならない。でなければ美はすぐさまヒエラルキーへと転落してしまうだろう。そうなってしまえば、美はもはや純粋ではなくなる。

 しかし不条理の中でこそ現れる美を信じる事が出来るならば、(すぐに思い付くのがこの人しかいないのだが)岡本太郎の様に意図的に自らを苦境に落とす選択をし続ける事さえもあり得ない行為ではないのだ。しかし彼の行動を論証によって暴く事は出来ないだろう。平穏さの欺瞞に対する嫌悪によって引き裂かれ、不幸の他に居場所を失った彼の矛盾に満ちた実存を朧げに想像してみる事だけが可能である。彼に於いては自らの「主体性」こそが、逆説的に、まず何よりも「外部」からの不条理であったのだ。あるいは芸術家とはその様な人種なのかも知れないし、その様な人達にこそ美は相応しい様にも思えて来る。しかしいずれにしても現在の自己を許容するという自己肯定によってのみ、美は可能となる。

 ヴェイユは飢えた人々にパンを施さずにはいられなかったが、それは彼女が施しを普遍的な観念としての善なる行為であると考えての事ではなかった。彼女は自らの内なる声に従って、そうせざるを得ないと判断したから、そうしただけである。それは極めて《私的な善性》なのだ。しかし所有や執着の願望を離れ、自己と世界の関係を注視した結果、施しをしない訳にはいかないという確かな気持ちが芽生え、その行為が可能になるならば、それは一つの善であり、また一つの必然である。《私的な善性》は、完全に意図の外部から訪れたのでなければ、虚偽となる。その様な純粋に内発的な行為には確かに美があるのだろう。一体、そうした自然な感情以前に遡る、抽象的な論理などあるだろうか。一つの論理を採用する事さえも、その根拠は彼の主体性に還元される行為であると言うのに。そして自分が自分である事さえ、自ら意図した事ではない。全て起こり得る様に起こっているのであり、それらは全て究極的に許されている。行為を抽象から決定する事はどうしても出来ない。言葉は単なる道具でしかないのだから。

 ヴェイユは我々がどれ程の不条理に晒されようとも、自らの不幸を凝視するならば、一人一人の心に何らか神秘的な仕方で転回が起きる事を信じているのであり、我々に指標を与えこそすれども、個人の生と行動を方向付ける内なるエネルギーを、論証によって定義付けようなどと意図してはいないのだ。だからヴェイユはその変化を、ただ恩寵と呼ぶのだ。ヴェイユの言葉は他の全ての価値の創造行為と同じく、一つの飛躍であり賭けである。だがヴェイユの思想は形而上学によって倫理を基礎付けようとした多くの哲学者よりも、遥かに冷徹に論理的である。その上で、ヴェイユは哲学者である以上に詩人であるのだと僕は思う。(僕は全ての表現は詩であると思っている人間だけれど。)

 

 

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詩の発生 - 未詳まで

愚者

 愚者は愚者の言う事にしか耳を貸さないし、愚者の言葉に共感し賛成する。その事に不満を言う訳にはいかない。人々は正しさを求めているのではなく、快い生活を求めているだけかも知れないのであり、基本的にその態度は否定されない。愚者が愚者の共感を求めるならばそれで良い。彼は社会性を獲得するためのエチケットを持っているのであって、それを批判する事は、正しいことを言っている自分を見ろという醜さに直結しているので不毛だ。そもそも(如何に幼児的なルールであれ)適応されているルールが異なるのであって、その事に不条理を感じるのは視野狭窄だ。条理とは世界の混沌の中から反復、即ち類似性を発見する事によって個々人が独自に生み出したパターン認識に過ぎず、本質的には全てが不条理である事を知る必要がある。そして自らの認識を普遍化しようとする執着を捨てる必要がある。ルールの幼児性を俯瞰する事は、幼児的なゲームに参加しているプレイヤーよりも高次な認識を持っているという事にはならない。部外者である事は偉くない。俯瞰したならば、その上で上手く立ち回るか、或いはルールの改変を施す様な、実効的な表現を生み出さなければならない。正論を振りかざすことでは土俵にすら上がれないのだ。勿論、自分が適応出来ないコミュニティに参加する必要など微塵も無いし、他者の心を上手く捉える事(空気を作り出す能力など)は端的に技術的な問題であり、態度一つで変えられる話ではない。ただし、ある特定の集団に於ける振る舞いを軽蔑するのは、それ自体が褒められた振る舞いではない。それは自らが課した価値基盤への執心だからだ。賢さや愚かしさがあるのでは無く、多様な人々による共同体と多様な生活が存在しているのだと思わなければならない。正しさなどという価値の主張は、一つの階層性の持ち込み、即ちイデオロギーであり、それ自体として狭隘さを孕んでいる。何よりもまず人々には生活があるのだ。

顔を失った

 再び世界がネバつき始める。その理由が僕には分からない。極度に神経質になっている。目に付くものが尖り、色彩が煩くて、直視出来ない。通り行く人々の表情がべっとりと脳裏にこべりつく。顔だけじゃない。服の質感や、辺りの物音もだ。静物は不気味な生物の様で、風に揺れる植物は百の怪物の集合だ。結ばれたカーテンの中には生きた首が入っている様に見える。僕だってそんなイメージは非現実的だと知っている。僕はイメージを事実と混同して混乱に陥っているのではない。僕は恐怖の「印象」について語っているのだ。一部の人が蓮や人形に恐怖を覚える様に、様々な物が不気味に、恐ろしく見えるのだ。昼間の方が特に酷いが、単純に時間帯に左右される問題なのか定かではない。夜は副交感神経が働くとか、知った事ではないが、確かに落ち着いている様に感じる。僕は静かな場所にいたい。僕の願う事はそれだけだ。静かな場所、だがそれは、物理空間上の特定の地点という訳では無いだろう。そんな場所は物達に溢れかえっているこの世界には、ほんの1ミリだって存在しないのだ。僕はどこに隠遁すれば良いのだろう。

 物には「光に照らされていない裏側」がある様なのだ。目を凝らしても見えないが、存在する事だけは知っている。それから物を見る僕の目、僕の認識、つまりそれは言葉であるのだが、言葉の最小単位である単語にも無限に「裏」があるのだ。言うまでもなく僕達は決して物を完全に把捉している訳ではない。自分の目に写っているこれらが全てでは無いのだ。少し目を凝らせば、言語を逸した情報で溢れかえっている。そいつらには落とし所が無い。気分や技術の問題では無くて、原理的な問題として、落とし所が無いのだ。ただ一握りの砂が語り掛ける声を、僕は一生かけても解読する事は出来ないだろう。だから僕は自分の神経の方を隠遁させなければならない。無視する事。見て見ぬ振りをする事。それが絶叫する物達を黙らせる唯一の方法だ。

 物の細部には確かに神が宿っているのだ。それは美と呼ぶ事も出来た筈だが、もう怪物なのであった。細部は表象を免れ、人間に内面化される事を拒む。ごく部分的に慣れ親しむ事は出来ただろうが、一時の気休めだった。僕には表象…まったくそれは圧縮の形式でしか無かったのだ…をむしろ消してしまおうと、馬鹿な努力をしたものだった。美は余りにも脆弱で、愛は困難な上、破滅的だった。明証性はボロ切れだった。物質はよそよそし過ぎたけれど、神はといえば既に腐敗が進んでいた。同一性は閉鎖的で、しかも幻影だった。慣習に染まる事は周知の通りグロテスクだった。だが今では僕はそれらに頼る人達を、もはや愚かだと言って非難する事は出来ない。無知だと言って退けてしまう事は出来ない。僕はこう言う事しか出来ないのだ。「慣習、それを選んだならそれに浸かると良い。それが破られたなら、別の何かを頼ると良い。」

 人間の発明には、沢山の概念があり、数多の風景があり、無数の精神状態があったに違いない。そして結局全ては人工的だった。僕達は人工的な幻想から人工的な幻想へと「横滑り」しているだけなのであった。なるほど慣習は気味の悪い剥き出しの世界を覆い尽くしてくれる塗装ではあるだろう。だけどドぎつい上に安っぽい色彩だから、どちらにしろ耐え難いのだった。しかし愛はというと、こちらは甘味料なのだった。今まで僕は、愚かにも慣習だけに食ってかかっていたのだ。美はというと、香水だった。しかし我々は何かは選ばなくてはならないのだ。何も選ばないという事は不可能だ。自分に相応しい美を発見する事が一つの達成であるならば、それと同じ意味で、自分に相応しい慣習を身に付ける事だって達成である筈なのだと、言わざるを得ない。とにかく、ハリボテだと分かっていても、どこかにしがみ付かなければいけないのだ。

 僕は昔から雑踏が大の苦手だった。群衆に対する言いようのない不安を抱かずにはいられなかった。自らの体系を持たずして過剰な匿名性の中に埋没する事は危険である。人間達は決して風景にはならないのであった。僕達は情報の大部分を無意識的にシャットアウトする事で生活している。知覚の遮断は望もうと望むまいと、自然に習得されてしまうものであり、惰性と習慣によって鈍った大人達の知覚に対する安っぽい批判を目にする機会は多いが、そうした情報の省略は適応と同義であり、生きる為に必要な技術である事には間違いないのだ。必要に応じて段階的に情報を汲み取れる様にして行く事が健全な成長ならば、求められているのは惰性からの脱却などではないのだ。惰性とは一つの達成である。惰性から脱する技術は、まず適応の上に成り立つのであり、その目的は生活を新鮮に感じる事であるから実質的に一種の贅沢品でしかない。

 人々に好意を抱くには、まるでポスターを見る様にして、把捉出来ないが確かに現実に存在している筈の何か不気味なものから目を逸らしていなければならなかった。僕はポスターの様なブラッシュアップされた表象がどうにも生理的に受け入れられなかった。ポスターは事物に様々なツルツルとした「顔」を付加させていく。人々はポスターによって世界に人間的な親しみを与え、多大な情報を一つのツルツルとした「顔」の元に纏め上げる。だが事物は決して、隅々まで人間的になる事は無い。それは常に我々を裏切り続けるのだ。こうした事物のひしめき合う世界の前で、数々の画家の仕事は無謀に思えるのだった。画家もまた、少々お上品な新たな「顔」を発明するに過ぎなかったからだ。どれだけの「顔」を記憶すれば、僕はこの世界を、ネバついた事物に拒絶される事なく、安心して眺める事が出来るだろうか?それはもう絶望的な試みなのであった。

 記号性、即ち漠然とした属性として人間を「まず」認知する事によって、個人であれグループであれ、性的な関心であるか否かに関わらず、人間に対して「好意」を抱く事が出来るらしいのだ。しかし僕にとって人間はどこまでも謎であり続け、不気味な存在であり続けた。しばしば僕は人間を粘土の塊や気味の悪い人形の様に眺めてしまっている事に気が付く。地域共同体的な共感性の失われた近代に於いて、記号性までもが奪われれば、人間は粘土や人形と何も変わらない様に見えるだろう事は当然あり得る事だ、などと言うのは陳腐だが、僕にはその時、他者を好意という感情で塗り潰す事は都合の良い思考停止にしか思えない。

 人間を恣意的に一面化して眺める事、それが僕には出来なかった。他者達は紛れもなく実存の厚みを持っているのだ。その厚みは他人である僕には不可視であるが、他者達がこの僕の妄想である筈は無い。それは確かだ。誰も心の底から独我論者になれはしないのだ。しかし僕は他者達に、身勝手にも好意を抱く事が罪業に思えるのだ。人間は決して風景になる事は無く、風景さえも決して一つの精神状態にはならない筈なのだ。それなのに僕以外の者は、そんな事を気にも留めず、他者達の顔付きや服装や髪型や口調などから、勝手に一つのキャラクターを脳内にでっち上げ、それをでっち上げたという意識さえせずに受け入れるのだ。例えばアイドルの純真無垢を疑わない夢見がちな少年と何も変わらない事を、誰もがやっているのだ。僕は目に見えるものをツルツルとした質感の表象に還元する眼差しを拒絶したいのだ。そして気が付けば僕は解釈する事自体が愚行である様な世界に投げ出されているのだ。

 僕としては正直の所、知識を身につける事で世界を広げようと思う事なんて丸であり得なかった。勉強する事は、既に見えてしまった理不尽な世界を、人間的な解釈で追い抜こうとする作業だった。全くそれは作業でしかないのだ!勿論、知識が増えるに従って、半ば自動的に世界は広がって行ったけれど、そんな事は楽しみでも何でも無かった。そんな事は気にも留めなかった。視野の拡張は道具として役立つ事はあった。だけどそんな事は全く切実な問題では無いのだった。

 変人を変人と呼び、馬鹿を馬鹿と呼び、まともそうな人をまともそうな人と呼ぶ事、それは言葉の「身を守る」効力なのだ。言葉を意識的に扱う事で言葉を疑い、「顔」を疑う僕は、いわば言葉によって作り上げた世界を、解鍵してしまうのだった。単語の一つ先は、段階を踏む事なく、突然の無限に繋がっている様に感じるのだ。もう言葉は僕を守らない。気を保つ事、それは単語の「力」を、名詞と形容詞の「力」を利用する事、むしろ「力」の中にすっぽりと身を隠すという事なのだ。だが言葉が所詮、世界を分類する為の記号でしか無い事を僕は知っている。

 事物に「顔」を与える試み、それをもう僕は諦めてしまいたかった。なるほど事物を記号的に認識する事は、日常を生きる為の武装として役に立つだろう。それを僕は否定しない。人間は自分が信じている認識の総体の内側に留まる事で身を守っている。だが事物が人間が過信している認識を裏切る事もまた事実だ。僕は「顔」を持たない事物達の常軌を逸したダンスを、それ自体として美と呼べるようにする必要があるだろう。しかしそれは、美である筈が無かった。醜悪でも、あるいは崇高でもある筈が無かった。それは何でも無い印象、逃れ去って行く印象でなければならないのだ。「顔」を持たないという事が、この世界の本質(本質を持たないということに於いて)なのだから。

 僕は言葉の世界の内部と、言葉の破られる世界の、両方を生きる術を身に付けなければならなかった。どちらか一方に身を留める事は出来ないのだ。少し目を凝らして見てみれば、物達は恐るべし姿を露わにする。それを防ぐ手立ては無いのであった。芸術家は物達に「顔」を与え続けて行く。それは賞賛すべし、発展的で人間的な行いだ。だが僕達はまた、「顔」を逃れ続ける物達の世界を生きている事を認めなくてはならないのだ。僕達はイメージを逃れる物にイメージを与え、言葉の極北に向かって言葉を尽くさなければならない。そうした行いは事実、この上なく矛盾に満ちた行為だ。しかし世界を、人間を裏切る物として見做し、それに対抗する形で「顔」を発明し続ける事は、いわばアキレスと亀の様な無限の追いかけっこだ。人間の創造は所詮は有限だから、僕達は無限である世界に追い付く事は出来ず、物達は僕達を何度でも容赦なく攻撃し続けるに決まっている。

 かつて画家、パウル・クレーは、時代が悲劇的であればあるほど芸術は抽象に向かうと語った。悲劇とは「言葉から逃れ去る物達」であったのだ。彼の言葉は当然、戦争の非人間性や、近代的理性への信頼の喪失を指し示していた。意味を奪われた剥き出しの世界に投げ込まれた人間は、もはやこの世界に「顔」を一つ一つ付与する事で、見慣れたものにしてしまおうとは思わなかっただろう。そうした試みが破局を迎える事は明らかになってしまったのだから。もうこの世界では、対象の直喩的な明示は不可能となってしまったのだ。そうした状況こそが悲劇なのであった。そうなれば僕は、この不可知の世界自体を描こうとせざるを得ない。しかしそれはもはや世界に慣れ親しむ為のフィルターをまた一つ創り出す事ではあり得ず、理解不可能な世界の不可能性そのものと共和する、絶対的に不毛な試みなのだ。そう、だから僕は結局、表面に留まることを選ぶことになるだろう。