スクリーンの空

パロディ

赤と黄色

 比較的古いものではないけれど、過去に書いた文章。具象的に、毒性を高めて書こうと意図していたとは思う。露悪的な直接性と、言葉を目に見えるものに向けていこうとする不慣れな試みと。

 

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 色々あったけど……みたいな語り口が健康の指標なのかも知れない、なんてことを思う。僕には何があったのかさっぱり分からなくなっている。そういう記憶や言語の機能が上手く働いてないから、実質として何もなかったに等しい荒廃した風景だけが見えている。

 

 たぶん健康に見える思考回路とか、爽やかに見える性格とか、適応的で、人の気持ちが分かるような表情で、世界を恐ろしい場所とは考えない自信とかは、経験値じゃなくて資質なのだ。彼らと接しているうちに、彼らがゲロを吐くような気分と常に闘いながら平気な面をしている訳ではないことが分かってしまうと苦渋だった。出来れば全員ゲロを吐いていて欲しいといつも願っていた。僕が持ってる感情を彼らの方でも持ってなくて、悪人は一人もいなくて、数の勝利で終わっていた。俯瞰してみると、色んなことを思ったりしてる人間ってみんな可愛い、みたいな気持ちがあって、こっちはこっちで終わっていた。

 

 何割くらいの人間が僕がクソだと思う連中のことをクソだと思ってくれれば世の中は変わるのだろう。クソなやつをクソだと思うのは一人でやればいい筈なのに、結局は数が物を言うようになってしまうらしい。

 

 僕の皮膚が腐ってるのはどんな因果とも関係がなくて、純粋に天罰なのだ。全身が焼けるようだった。数の力で物事の価値が決まってしまうのも純粋な天罰なような気がしている。社会の不正は許せないけど、世界の不正なら許せる気がするから、ある人はずっと闘争をしているけど、ある人は宗教をしているのだった。真実なんてどこにもなくて、解釈次第なのだ。僕はそこで何も解釈せずに立ち止まっているから、何も思うことはない。

 

 これから先、さらにグループは細分化されて、相対化されて、気の合う奴だけで集まって、それまでのことは全部なかったことになって内輪ノリで終わっていくのだろう。原罪の観念が胸をよぎったけど、深く考えなかった。

 

 頭の中から人間たるものが消え失せてしまっていた。誰かと会話をしているのは僕ではなくて棒人間のように平板なキャラクターになってしまった。頑張って自分自身に形を作り変えようとすると、気味の悪いもごもごとしたスポンジ性のマネキンのようなものが出来上がった。相手が何かを言うと、マネキンの表面がぶちっと割れて中から赤と黄色のドロドロしたものが吹き出して地面に垂れた。相手は喋り続けていた。マネキンからもう一度人間になろうとすると、今度は目の前にいる相手が突然テレビ画面の映像になって、僕は灰色の地平線にただ一人で立ち竦んでいた。僕は誰とも向かい合うことが出来ず、誰にも声が届かなかった。相手は僕にではなく空気に向かって口を動かしていた。僕が人間の前に存在しようとすると、やはり気持ち悪いもごもごしたマネキンになって相手と向かい合っていた。

 

 人と話していたら粘土だった。ぐちゃぐちゃ動いてるのを眺めていたら、実は粘土なのは僕で、相手は人間だった。ぼーっとしていたから、そういう白昼夢だった。皮膚病でアレルギーで怠かったし、面倒臭いし頭が回らなかったから全部が嘘だった。どこかで台詞を間違えたらしく後でお前は失礼だと指摘された。何を間違えたのか理解できかったし、何もかもを間違えているのだろうと決め付けて考えるのをやめた。

 

 感じなきゃいけない感情のフリをしようとしていたけど、病気で挙動が変だから失敗していた。演技力がなかったから人間的な生活は終わっていて、演技するのは諦めてしまった。花粉症で怠かった。鼻水が酷かった。床まで垂れるような鼻炎が常態で、常に眠かった。目に見えて病気だから、こいつはさぞ下らない人生を送ってきた人間なのだろうということを隠すことも出来なくて、精神汚染されたアスカ・ラングレーみたいに頽廃していた。体が生きることを拒否していた。対人用の仮面が壊れているので、精神の底の底まで人に見透かされてる気がして、統合が失調気味だった。

 

 みんながそんなに苦労しているのならば、ここまで言語が衰弱している筈がないと思う。だからそれは恐怖ではないし、苦痛ではないのだろうと思う。恐怖や苦痛が引き算された苦労というものもあるのだ。そんな「ただの苦労」なら、たかが知れている。言葉の綾を使って、見え透いた嘘で騙して慰めるのは汚いと思う。「ただの苦労」なんかを語って、共感ごっこをして、誤魔化すのはやめて欲しい。みんなが本当に苦痛に苛まれているならば、ここまで言語が衰弱してる筈がない。

 

 自殺したかったし、そうでなければ放火するとか、家具を叩き壊すとか、体内の死を放出する何事かをしなければならないのに、僕は我慢の天才だから黙って震えているだけだったので脳が壊死していた。「何があった?」という直近の原因だけを訪ねる知能の低い大人しか世界に存在しなくて終わっていた。

 

 テレビで老人が最近の若者は突然キレるから怖いだのなんだのほざいていた。僕としては、他者と文脈を共有出来ていると怒りを表出することが出来て、他者に文脈を歪められ続けるとキレるしかなくなるんだと思っていた。怒りは共同体に於けるコミュニケーションとして肯定的に評価すべき表現だけど、キレるのはそもそも社会との断絶が基底にあって、構造が違うから、最近であることも若者であることも関係がない。怒りは特定の対象に対して向けられるけれど、キレるのは脈絡がなく無差別的に見えるのは当然のことだ。怒ることが出来る人は順調に社会をやっていて、幸運だから場を支配する力を持っていて、「話せば分かる教」の信者としてカルト的に完結してることがあるから手に負えないと思った。

 

 本当に何でも話せる友達は滅多にいないとか、本当の居場所なんてないだとか、みんな愛想良くしてるだけだからとか、みんなそれなりに寂しいだとか、そんな話を聞かされて共感する雰囲気になっていて、俺も共感しなきゃいけなくて、ここが現場だと思った。寂しいだか辛いだか知らないけれど、断絶ではないから、何かとお喋りの種にはなるものだ。

 

 ギャグ漫画だと思おうとしたけどホラーだった。一日中頭が働かなくて同じ呪いの言葉をずっと脳内で繰り返していた。第一朝から夢が最悪だった。悪夢というよりも、脳の処理機能がバグってるのだとはっきりと分かるようなネバネバした体感覚的な夢で、金縛りと幽体離脱で目が覚めるシーンを何十回もループして肥溜めみたいに疲れた。

 

歪な部分は個性的だから、観念的にまとめ上げられていく認知の外に少しずつ追いやられていって、飢えた犬みたいに死にそうになっている。そうして顔はポスターみたいになっていく。

 

 それなりに読書などをしているのに僕は殺すとかそういう過剰な言葉を使うのが癖になっていて悲惨そのものだ。「健常者死ね」よりも力強い言葉を、未だに知らない。

 

 犯罪者の書いた本を読んだら、結構普通の不幸な人で、自意識の構造とかも普通だと思った。僕の精神が終わってるから出てきた感想なのだろうか。少なくとも犯罪者に関する便乗本を書いて儲けてる女の方が遥かにイカれていて最悪だった。

 

 ニュースで親が子供を殺していた。健常者っぽい女が、「そんなことは信じられない」だの「考えられない」だのコメントしていた。「考えられない」というのは自分自身の想像力の至らなさへの絶望であるべきなのに、自分が考えられないものは世界に存在してはいけないみたいなノリで、善意を涙ながらに訴えていて、気持ち悪かった。こいつが少数者側だったら、世界は「考えられないこと」だらけな訳だから、そのまま気が狂ってしまうんじゃないかと思った。恵まれてる奴が思考停止すると自由意志の力を過大評価するのはお決まりだった。

 

 人の感情が伝わってこなかったが、本物の虚無だから危機感はなかった。笑い方を忘れた。喋り方がおかしくなって、声が震えていた。言葉が喉に突っかかって出てこなかった。たぶん少し前に僕は自殺していて、今の僕は霊魂だけで彷徨っている。