未詳まで

同じ人

捩れた方法で

 僕は物事を理解できる。僕は現象を解釈できる。だけど僕の理解や解釈が他者のお眼鏡に叶うかどうかに関して、つまり僕の理解したと思っていることが、第三者の価値にとって『理解に値するかどうか』に関して、一切の自信がない。僕の不安はこの様な形で、凡ゆる知的な努力を根源的に上回っている様だ。

 

 物事を理解したという感触は、直接的で無根拠な直感としてしか正当化しえず、その社会的な正当性は、つまりその直感が他者に伝達可能なものとしての地位を得るかどうかは、他者の表情や身振り手振りによって賭けられている。例えば、僕が子供の頃に、算数の九九を正しく諳んじることが出来た際の、大人達の「優しい反応」が、そうした「手応えの反復」が、自分の直感が実際的に有効であるという、客観性への信頼を形成するのに役立つ唯一の指標なのだ。要するに僕は「僕が理解したと信じること」を信じないことだって出来るのだ。自己自身と世界への信頼が発生する根拠を指し示すことは出来ない。暴力に耐え得る強度の言葉-世界認識など存在しない。この文章を恐れたまえ。

 

 他者達が犇めく世界をこの様な疑惑の観点から眺めると根源的な不安が生じるため、人は問題を単純化する。つまり「僕の直感に与えられた『理解の感触』が正しいのだから、彼がそれを認めないならば、彼の方が間違っているのだ」という具合に。この二者択一の思考が社会の前提となる。

 

 

 

 古典主義は世界の悲劇性を知っている。世界の悲劇性は本能心理学のそれとはまた違った源泉、即ち「客観的な」根源がある。マニエリストは、しかし、世界の「メランコリア」の内に立っている。それは彼が主観主義者だからだ。「不条理な」「エロティックな」狂気にすら陥る程に、「イデア」における、また「空想」裡における反対物の「狂気的」統一をすら成し遂げるほどに、主観主義者たり得るからだ。即ち、形象の世界と彼自身のエロティックな表象の形象とは、ーー自閉症的にーー交流する。彼を執拗に襲う非合理的な形象の数々ーーそれらは如何なる意味でも「自然」とは無関係だーーが、二重の意味で彼を満足させている。より適切な表現を用いれば、言うまでもなく自己満足と同様に繰り返し起こり得る、世界の「黒ミサ」の中で、この非合理な形象に満足を感じ、またこの形象を通じて満足を得るのである。「意志」と「表象」とは、怪物的な一致する不一致の内に一体となる。この過程に於いては、世界はただーーデフォルメされた形で現れる他はない。(ルネ・ホッケ)

 

 古典主義者にとっての「悲劇」とは、確固とした一つの事実であり、例えばそれは災害による死亡人数や、どの国が戦争をしているかなどの報告によって、客観的な基底を成した世界の上に与えられる感情だ。しかし主観主義者にとって現実の出来事や事実性は、まず差し当たって問題とはならない。彼らの「メランコリア」とは、自己と、その主観性が今まさに構築しようとする世界との中間で生起する、悪夢的でせん妄症的な荒廃だ。彼らは認識の枠組みそのものを始めから信用していない。彼らの目に映るのは、理路整然とした纏まりを失った無意味の形象が継起して出現する、錯乱の現場である。それら矛盾に満ちた(秩序を持たないという意味で原理的な混乱をきたしているのであって、合理主義的な枠組みに適わないという理由による「客観主義者にとっての矛盾」ではない)形象を結び付ける内奥の力の出現は、ただプラトン主義的な直感を指し示すことによってのみ語り得る、独我論的な(言語の極北の意味に於いて)自己満足に終始するより他にない、迷宮からの束の間の解放なのである。

 

 そのため新たに創造された表象は奇妙にデフォルメされている。しかし人間がデフォルメされていない表象を認識することなどない。もし「ありのままの現実」が在るように見えるならば、それは習慣と愛着が呼び起こした錯誤でしかないのだ。亜流形式主義者による表層的グロテスクを峻別するにしても、ことが生じる現場が一人の主観であるところの形象同士の結合は、「観念的」である他に成り立ち得ず、故に硬直した古典主義=自然主義の排他性は、こうしたプロセスの忘却によって起こるのである。他者への伝達を自明視した「自然」など、本来、創造なしには存在しなかったのだ。常に自分自身の主観性の中で、「プラトン主義的」に矛盾を乗り越え、決して自己満足以上の結果を偶然としてしか享受せず、ただ一人「イデア」の内に調和を試みるのが芸術家の目標であった。「メランコリア」の芸術家は、意味が砕け散り、イメージが奇妙に絡み合いながら湧出する、荒れ果てた更地にまで降りて行く。

 

 


 しかし表象されたものはすぐさま記号化への危険に晒される。ここである一つの深刻な逆説が生じる。完成されたものは何故それが完成を表徴出来るのかという疑問に対する根拠を持たないが故に、未完成よりも恐ろしいという逆説が。理性は表象を「既に在ったもの」として客体化する。客体化された対象はプラトン主義的な自己=恩寵という手触りを拭い去る。もはやそれは有象無象と同じ土台に並び立つ一つの意味に過ぎなくなる。即ち(常識的に考えられているのとは逆に)理性の健全さこそが主観主義的な感性を不安に陥らせるのだ。直接に感じられたもの以外の全てに疑惑の眼差しを向ける者にとって、充実した安心感は、記号体系を形作る理性の解除によってもたらされる。


 だが理性の眠りはまた狂気を呼ぶのである。だから主観主義者は平静な生を送る上で、作為的な仮面を脱ぎ捨ててしまうことは許されない。世界との和解は恩寵であり、残念ながら、それは持続しないのだ。彼らは自分の言葉を、自分が構築した世界の正しさなど信じてはいない。しかし他者の存在する空間で生きる上では、直接に感じられたものを、客観性へと堕落させ、その仮構された秩序を自明なものとして扱わなければならない。ただしこの主観性の客観性への置換こそが(どれだけの科学的論証も虚しく)どんな奔放な想像力にも増して、飛躍的なアクロバットなのだ。理性崩壊の兆しはそこかしこに広がっている。彼らにとって社会を生きることは緊迫した、息を継ぐ間もない、賭けの連続となる。