スクリーンの空

パロディ

中くらいの収束

 これまでと違う言葉を使おうと思う。いや、そんな心構えは無意味で、だって同じ言葉を使おうとしたことなんて一度もなかった。線引きをするのは馬鹿馬鹿しい。これまでとこれから、それがずっと続いていくだけだ。ただ、もう少しだけ普通の文章を書こうと思う。余りにも漠然としているけれど、とにかくそう思う。単なる日記、日々のこと。哲学ではなく言葉遊び。深刻になったり、軽率になったり。偶然目に付いたニュースや、読んだ本のこと。今日あったことや、人と話したこと。失敗したことを語る時も、まるで笑って誤魔化せることであるかのように。愚痴を言いながらも誰も憎んでいない人のように。これからやりたいこと。気取らず、知的であろうとせず。病んだ人間の気負いを捨てて。かと思えば束の間もの思いに沈んだり、そんな人間的な、数々の、差し当たって目的もないあれこれ。こうして言語化すると、そんな凡庸さすらもイデアの様になってしまうので、意識は程々にして。

 

 

 ブログのタイトルを変えました。「中くらいの拡散」は自分自身の自我の拡散についての記述を旨にした、誰にも読まれないつもりで始めたブログだけれど、ごく少数ながらとても美しい文章を書く方々と相互読者になれたりして、絡んだりはしていないけれど、素直に嬉しかったです(なんでこんな改まった風なんだろう)。今は適当な対義語をタイトルにしているけれど、すぐに変えるつもり。別に文章を書くのが得意な訳でもないし、物書きになろうとしてる訳でも勿論ないから、気楽に呼吸出来ることが一番大切だ。そんなコンセプトでやっていきます。まぁ、精神の段落を一つ終えた様な気がしていて今はこんな文章を書いているけど、もしかしたらそれも嘘かも知れないから何とも言えない。

 

 

 僕は今では目の前にあるものを美しいと思うことが出来る。世界は色鮮やかに廻り続けていて、僕はそこから弾き出されてしまってはいないらしい。僕がまともな人間になったとか、幸せになったとか、そんなことはなくて、ただ目の前にあるものを普通に眺めていられるようになっただけ。達成と呼べるようなものじゃなくて、本当にそれだけのこと。

 僕の感情が死んでいる内に消えてしまった人がいて、消えてしまったことさえ思い出として心に刻まれてはいなかった。それ程に感情は死んでいて、時間は無機質に通り過ぎて行き、毎日行くべき場所に通っていたのに、自己認識は今まで一歩も外へ出たことがない子供そのものだった。手で触れられるものは影のようになって、即座に遠くへ消え失せてしまった。意味を与えられない記憶に対して忘却は容赦しないから、僕は霧の中で朦朧と死体をやっていた。

 無色透明な出来事の数々を、壊れた記憶を、繋がらない人生を、どうやって取り戻すことが出来るだろうか。そんな問い掛けが芽生えた時には、罪責感と虚無に潰されていた。自殺しようとしていた。けれど生きている。やがて心を乱すことなく語れる過去になるだろうか?

 

 

 解釈することを暴力だと感じていた。どんな内容も、表現されてしまった途端、物の側に属するようになってしまう。それは広告の様に各々の幻想へ意味を貸し出すだけだから、ナルシシスティックで、許されない行為だと思っていた。人はその人が引き出せる意味だけを引き出せば良いだなんて、そんなことを知らなかった。昔聴いていた曲を改めて聴いて、こんなに良い歌詞だったんだ、なんて始めて気付いて、涙を流すなどしている。かつては僕の感情が終わってることを知らしめただけの災害も、ニュースなどでふと目にして泣いてたり。一過性の感激症。

 

 

 僕の理性を破壊するものは世界に属するが故に無限、僕が考え得ることは人間的であるが故に有限だ。そんな訳だから解釈は行われた瞬間に崩壊の危険に晒される。人間は物語が壊れてからでなければ対応出来ず、予め用意出来る万能薬は存在しない。ずっと予兆に備えようとしていたのに、世界は盲目の意志に貫かれていて、悲劇は常に外部から、不意打ちで襲ってくる。

 けれど僕に出来ることは、僕が意味を感じ取ってしまうということだ。僕が選んだのではないそれ。僕がコントロールしたのではない感受性と理解力。僕は何も所有していない。僕は僕自身を他者として眺め、まるで贈り物の様に自分自身を受け取っている。僕はそこで初めて意識の過剰を止め、従順になれる。もう未来に身構える必要はないのだ。全てが無関係だと思うことも出来て、そう思わないことだって出来るそれ。何故自分がこいつなのか、なんて問いすら外から訪れて、ずっと変わることなく続いてきたそれは、たぶん悲劇と同じ無限の側からやって来た。何故そうなっているのか永遠に謎のまま、ただ見えてしまうというそれだけなのだ。僕たちは死に物狂いになってやっと歩けるのに、それだって簡単に壊れてしまうものなのだと自覚までしている。それでも眼差しが生き続けているのは、偶然によって、ただ幸運によってだ。そんな訳で、或いは語り得ない諸々の力の働きを借りて、僕は自分に、現在に出会うことを許した。