愚者

 愚者は愚者の言う事にしか耳を貸さないし、愚者の言葉に共感し賛成する。その事に不満を言う訳にはいかない。人々は正しさを求めているのではなく、快い生活を求めているだけかも知れないのであり、基本的にその態度は否定されない。愚者が愚者の共感を求めるならばそれで良い。彼は社会性を獲得するためのエチケットを持っているのであって、それを批判する事は、正しいことを言っている自分を見ろという醜さに直結しているので不毛だ。そもそも(如何に幼児的なルールであれ)適応されているルールが異なるのであって、その事に不条理を感じるのは視野狭窄だ。条理とは世界の混沌の中から反復、即ち類似性を発見する事によって個々人が独自に生み出したパターン認識に過ぎず、本質的には全てが不条理である事を知る必要がある。そして自らの認識を普遍化しようとする執着を捨てる必要がある。ルールの幼児性を俯瞰する事は、幼児的なゲームのプレイヤーよりも高次な認識を行なっているという事にはならない。部外者である事は偉くない。俯瞰したならば、その上で上手く立ち回るか、或いはルールの改変を施す様な(たとえば他者の心に響く様な)表現を生み出すかしなければならない。正論などの力技では土俵にすら上がれないのだ。もちろん自分が適応出来ないコミュニティに無理に参加する必要など微塵も無いし、他者の心を上手く捉える事(空気を作り出す能力など)は技術的な問題であり態度一つで変えられる話ではない。一つ言える事は、ある特定の集団に於ける振る舞いを軽蔑するのは褒められた振る舞いではないという事だ。それは自らが課した価値基盤への執心だからだ。賢さや愚かしさがあるのでは無く、多様な人々と多様な生活が存在しているのだと思う事。正しさなどという価値の主張は、一つの階層性の持ち込み、即ちイデオロギーであり、それ自体として狭隘さを孕んでいる。何よりもまず生活があるのだ。

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