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顔を失った

 この文章は神経が尖っていた時に書き留めていたメモを纏めたものです。

 

 再び世界がネバつき始める。その理由が僕には分からない。一種の神経症なのだろうか。確かに極度に神経質になっているのを感じる。目に付くものが尖り、色彩は煩く、直視出来ない。通り行く人々の表情がべっとりと脳裏にこべりつく。顔だけじゃない。服の質感や、辺りの物音もだ。静物は不気味な生物の様で、風に揺れる植物は百の怪物の集合だ。結ばれたカーテンの中には生きた首が入っている様に見える。僕だってそんなイメージは非現実的だと知っている。僕はイメージを事実と混同してしまう混乱に陥っているのではない。僕は恐怖の「印象」について語っているのだ。一部の人が蓮や人形に恐怖を覚える様に、様々な物が不気味に、恐ろしく見えるのだ。昼間の方が特に酷いが、単純に時間帯に左右される問題なのか定かではない。夜は副交感神経が働くとか、知った事ではないが、確かに落ち着いている様に感じる。僕は静かな場所にいたい。僕の願う事はそれだけだ。静かな場所、だがそれは、物理空間上の特定の地点という訳では無いだろう。そんな場所は物達に溢れかえっているこの世界には、ほんの1ミリだって存在しないのだ。僕はどこに隠遁すれば良いのだろう。

 物には「光に照らされていない裏側」がある様なのだ。目を凝らしても見えないが、存在する事だけは知っている。それから物を見る僕の目、僕の認識、つまりそれは言葉であるのだが、言葉の最小単位である単語にも無限に「裏」があるのだ。言うまでもなく僕達は決して物を完全に把捉している訳ではない。自分の目に写っているこれらが全てでは無いのだ。少し目を凝らせば、言語を逸した情報で溢れかえっている。そいつらには落とし所が無い。気分や技術の問題では無くて、原理的な問題として、落とし所が無いのだ。ただ一粒の砂の語り掛ける声を、僕は一生かけても解読する事は出来ないだろう。だから僕は自分の神経の方を隠遁させなければならない。無視する事。見て見ぬ振りをする事。それが絶叫する物達を黙らせる唯一の方法だ。

 物の細部には確かに神が宿っているのだ。それは美と呼ぶ事も出来た筈だが、もう怪物なのであった。細部は表象を免れ、人間に内面化される事を拒む。ごく部分的に慣れ親しむ事は出来ただろうが、一時の気休めだった。僕には表象…まったくそれは圧縮の形式でしか無かったのだ…をむしろ消してしまおうと、馬鹿な努力をしたものだった。美は余りにも脆弱で、愛は困難な上、破滅的だった。明証性はボロ切れだった。物質はよそよそし過ぎたけれど、神はといえば既に腐敗が進んでいた。同一性は閉鎖的で、しかも幻影だった。慣習に染まる事は周知の通りグロテスクだった。だが今では僕はそれらに頼る人達を、もはや愚かだと言って非難する事は出来ない。無知だと言って退けてしまう事は出来ない。僕はこう言う事しか出来ないのだ。「慣習、それを選んだならそれに浸かると良い。それが破られたなら、別の何かを頼ると良い。」

 人間の発明には、沢山の概念があり、数多の風景があり、無数の精神状態があったに違いない。そして結局全ては人工的だった。僕達は人工的な幻想から人工的な幻想へと「横滑り」しているだけなのであった。なるほど慣習は気味の悪い剥き出しの世界を覆い尽くしてくれる塗装ではあるだろう。だけどドぎつい上に安っぽい色彩だから、どちらにしろ耐え難いのだった。しかし愛はというと、こちらは甘味料なのだった。今まで僕は、愚かにも慣習だけに食ってかかっていたのだ。美はというと、香水だった。しかし我々は何かは選ばなくてはならないのだ。何も選ばないという事は不可能だ。自分に相応しい美を発見する事が一つの達成であるならば、それと同じ意味で、自分に相応しい慣習を身に付ける事だって達成である筈なのだと、言わざるを得ない。とにかく、ハリボテだと分かっていても、どこかにしがみ付かなければいけないのだ。

 僕は昔から雑踏が大の苦手だった。群衆に対する言いようのない不安を抱かずにはいられなかった。自らの体系を持たずして過剰な匿名性の中に埋没する事は危険である。人間達は決して風景にはならないのであった。僕達は情報の大部分を無意識的にシャットアウトする事で生活している。知覚の遮断は望もうと望むまいと、自然に習得されてしまうものであり、惰性と習慣によって鈍った大人達の知覚に対する安っぽい批判を目にする機会は多いが、そうした情報の省略は適応と同義であり、生きる為に必要な技術である事には間違いないのだ。必要に応じて段階的に情報を汲み取れる様にして行く事が健全な成長ならば、求められているのは惰性からの脱却などではないのだ。惰性とは一つの達成である。惰性から脱する技術は、まず適応の上に成り立つのであり、その目的は生活を新鮮に感じる事であるから実質的に一種の贅沢品でしかない。

 人々に好意を抱くには、まるでポスターを見る様にして、把捉出来ないが確かに現実に存在している筈の何かから目を逸らしていなければならなかった。僕はポスターの様なブラッシュアップされた表象がどうにも生理的に受け入れられなかった。ポスターは事物に様々なツルツルとした「顔」を付加させていく。人々はポスターによって世界に人間的な親しみを与え、多大な情報を一つのツルツルとした「顔」の元に纏め上げる。だが事物は決して、隅々まで人間的になる事は無い。それは常に我々を裏切り続けるのだ。こうした事物のひしめき合う世界の前で、数々の画家の仕事は無謀に思えるのだった。画家もまた、少々お上品な新たな「顔」を発明するに過ぎなかったからだ。どれだけの「顔」を記憶すれば、僕はこの世界を、ネバついた事物に拒絶される事なく、安心して眺める事が出来るだろうか?それはもう絶望的な試みなのであった。

 記号性、即ち漠然とした属性として人間を「まず」認知する事によって、個人であれグループであれ、性的な関心であるか否かに関わらず、人間に対して「好意」を抱く事が出来るらしいのだ。しかし僕にとって人間はどこまでも謎であり続け、不気味な存在であり続けた。しばしば僕は人間を粘土の塊や気味の悪い人形の様に眺めてしまっている事に気が付くのだ。共感性の失われた近代に於いて、記号性までもが奪われれば、人間は粘土や人形と何も変わらない様に見えるだろう事は当然あり得る事なのだ。その時、他者への好意は都合の良い思考停止にしか思えないのだ。

 人間を恣意的に一面化して眺める事、それが僕には出来なかった。他者達は紛れもなく実存の厚みを持っているのだ。その厚みは他人である僕には不可視であるが、他者達がこの僕の妄想である筈は無い。それは確かだ。誰も心の底から独我論者になれはしないのだ。しかし僕は他者達に、身勝手にも好意を抱く事が罪業に思えるのだ。人間は決して風景になる事は無く、風景さえも決して一つの精神状態にはならない筈なのだ。それなのに僕以外の者は、そんな事を気にも留めず、他者達の顔付きや服装や髪型や口調などから、勝手に一つのキャラクターを脳内にでっち上げ、それをでっち上げたという意識さえせずに受け入れるのだ。アイドルの純粋無垢を疑わない夢見がちな少年と何も変わらない事を、誰もがやっているのだ。僕は目に見えるものをツルツルとした質感の表象に還元する眼差しを拒絶したいのだ。そして気が付けば僕は解釈する事が愚行である様な世界に投げ出されているのだ。

 僕としては正直の所、知識を身につける事で世界を広げようと思う事なんて丸であり得なかった。勉強する事は、既に見えてしまった理不尽な世界を、人間的な解釈で追い抜こうとする作業だった。勿論、知識が増えるに従って、半ば自動的に世界は広がって行ったけれど、そんな事は楽しみでも何でも無かった。そんな事は気にも留めなかった。視野の拡張は道具として役立つ事はあった。だけどそんな事は全く切実な問題では無いのだった。僕はただひたすらに混乱を鎮めたかっただけなのだった。

 変人を変人と呼び、馬鹿を馬鹿と呼び、まともそうな人をまともそうな人と呼ぶ事、それは言葉の「身を守る」効力なのだ。言葉を意識的に扱う事で言葉を疑い、「顔」を疑う僕は、いわば言葉によって作り上げた世界を、解鍵してしまうのだった。単語の一つ先は、段階を踏む事なく、突然の無限に繋がっている様に感じるのだ。もう言葉は僕を守らない。気を保つ事、それは単語の「力」を、名詞と形容詞の「力」を利用する事、むしろ「力」の中にすっぽりと身を隠すという事なのだ。だが言葉が所詮、世界を分類する為の記号でしか無い事を僕は知っている。

 事物に「顔」を与える試み、それをもう僕は諦めてしまいたかった。なるほど事物を記号的に認識する事は、日常を生きる為の武装として役に立つだろう。それを僕は否定しない。人間は自分が信じている認識の総体の内側に留まる事で身を守っている。だが事物が人間が過信している認識を裏切る事もまた事実だ。僕は「顔」を持たない事物達の常軌を逸したダンスを、それ自体として美と呼べるようにする必要があるだろう。しかしそれは、美である筈が無かった。醜悪でも、あるいは崇高でもある筈が無かった。それは何でも無い印象、逃れ去って行く印象でなければならないのだ。「顔」を持たないという事が、この世界の本質なのだから。

 僕は言葉の世界の内部と、言葉の破られる世界の、両方を生きる術を身に付けなければならなかった。どちらか一方に身を留める事は出来ないのだ。少し目を凝らして見てみれば、物達は恐るべし姿を露わにする。それを防ぐ手立ては無いのであった。芸術家は物達に「顔」を与え続けて行く。それは賞賛すべし、発展的で人間的な行いだ。だが僕達はまた、「顔」を逃れ続ける物達の世界を生きている事を認めなくてはならないのだ。僕達はイメージを逃れる物にイメージを与え、言葉の極北に向かって言葉を尽くさなければならないのだ。そうした行いは事実、この上なく矛盾に満ちた行為なのだ。しかし世界を、人間を裏切る物として見做し、それに対抗する形で「顔」を発明し続ける事は、いわばアキレスと亀の様な無限の追いかけっこなのだ。僕達は世界に追い付く事は無く、物達は僕達を何度でも容赦なく攻撃し続ける事は既に決まっている。

 かつて画家、パウル・クレーは、時代が悲劇的であればあるほど芸術は抽象に向かうと語った。悲劇とは「言葉から逃れ去る物達」であったのだ。彼の言葉は当然、戦争の非人間性や、近代的理性への信頼の喪失を指し示していた。意味を奪われた剥き出しの世界に投げ込まれた人間は、もはやこの世界に「顔」を一つ一つ付与する事で、見慣れたものにしてしまおうとは思わなかっただろう。そうした試みが破局を迎える事は明らかになってしまったのだから。もうこの世界では、対象の直喩的な明示は不可能となってしまったのだ。ウォーホルの技が有効なのは、彼が決定的にアイロニカルであるからだ。そうした状況こそがまさに悲劇なのであった。そうなれば人は、この不可知の世界自体を描こうとせざるを得ないだろう。それはもはや世界に慣れ親しむ為の幻想をまた一つ創り出す事ではあり得ず、理解不可能な世界の不可能性と共和する不可能な試みだ。