スクリーンの空

パロディ

賽を振る

 例えば「泣き喚けば人に気持ちが伝わる訳じゃない」という種類の戒めが、全く同様に、「今こうして書いている文章が誰かに理解されること」に対しても生じている。それくらい言葉が他者に伝達されることに飛躍を感じるときがある。

 言語能力の有効性は、赤子が泣き喚く様な一つの賭けから別のもう一つの賭けへと、ただ横滑りした結果として、事後的に与えられているように思う。自分がそう考えるところの言葉の正確さを心掛ければ意思伝達の可能性が上がる訳ではなく、言葉は鳴き声の派生であって、環境が適切さの水準を決定するのだ。

 

 (子供の頃、自分の見ている世界が全くのデタラメであるかも知れないという不安の一部は、自分は並外れた人間なのだと思い込むことで回避されていた気がする。)

 身の振る舞いを知ることで、不定形な実在は外的な規則に絡め取られる。自惚れと同じように、自分を凡人だと受け入れることも、劣等感に苛まれるのも、多数に対する少数を恐れるのも、実存的な不安を隠蔽するために拵えた嘘のバリエーションであることに違いはなかった。僕がまだ僕である以前に触れていたリアリティに相応しい場所は、嘘の内部では決して見つからない。


 孤独が世界を剥がすまで、知性が失墜する暗がりに向けて、真っ逆さまに落ちていけるようになること。他者への伝達可能性による意味の正当性に保証を求めることを辞めれば、正常も異常も、中心も周縁もない時空が出現する。それを受け入れさえすれば、不安は不安のままで、敵対すべきものではなくなる。

 

 本を開くと理解できる言葉が書かれている。挨拶をすると「こんにちは」と返ってくる。そうした契機によって、再び秩序の内側に立つ。個人的な推測が世界を固定する。目に見えないものは存在しないことになる。安心は訪れるだろうか。次に出会う本や人にだって、僕は同じように触れることが出来るのだと信じる。それは妄想ではなく客観的認識と呼ばれる。僕は根底さえもの彼方に生きているのだ。

  狂気の淵から生還すると言うのは、いつだって適切ではない。回復するべき正しさなんて存在する筈がない。いつもいつも繰り返し、これは偶然なのだと感じるべきなのだ。姿なきものを忘れないために。

 

 

 ☆  ☆  ★

 

 

 意味や目的など存在しないことも、到着した時に問われるのは「今までどうだった?」という質問であり、最初に見定めたゴールは幻想でしかないことも、知っていた。振り返って初めて現在を生きることの重大さに気が付く、陳腐な劇の主人公のような盲目さで生きてはいなかった。未来へ目標を先送りすることの中に実質はないということを、正しく理解しているつもりだった。

 それにも関わらず、僕は閉じ込められ、如何なる輝かしさにも手を伸ばすことが出来ず、どんな充溢も経験することは出来ないのだと予感していた。そしてそれは決してあり得ない話ではないのだと、ひしひしと感じていた。


 意味や有用性といった観念から自由になることは新たなスタート地点であり、それはどんな描線を引くことも可能な下地に立つことでしかない。イメージはいつも外から訪れ、偶然が新しいものを引き連れてくる。僕に出来ることは、より良い兆しが現れるのを待つことだけだ。

 何を体験することになろうと、僕は少しも世界を知ったことにはならないだろう。だけど僕は真理の不在なんて恐れていない。僕が恐れているのは、体験を体験足らしめる「何か」の不在だ。


 例えば外的な価値基準に取り憑かれ、勝敗にしか意義を見出せなくなっていた人が、ある日、身の回りに当然のように存在する物の美しさに胸を打たれることがあるとする。憑き物が落ちたという訳だ。しかしそんな風に「今ここ」を取り戻すことが出来たのは、彼に懐かしむべき生命の実感や、愛すべき故郷の記憶が備わっていたからに過ぎないかも知れない。別のある人はそうした外的な価値の虚構性を全て理解した上で、乾涸びた残骸だけを目にすることになるかも知れないのだ。


 他者と比較することから生じる惨めさを解除したところで救われないみすぼらしさは存在する。非言語的なものへ繋がる回路が焼き切れていることを発見してしまうという絶望がある。

 水を飲み、渇きが癒されるのを快く感じること。カーテンを開け、差し込む日差しを綺麗だと思うこと。そんなことさえ既に一つの恩恵であるかも知れない。


 自力が通用するのは価値を相対化する所までだ。そこから先は人間の意思を超えている。そのことを無視すると、身体性もまた一つの権威へ変貌してしまう。

 わざと物語に騙され続けている人もいるだろう。自分自身の体を痛めつけたり、命を危険に追いやったりすることでしか生きた感触を得られない人もいるだろう。ただ僕はそうした欺瞞を辞めることに決めたのだ。

 誰もが身体に豊かな生命を宿しているなどと、あらかじめ言うことは出来ない。それでも自分自身を他者として信頼し、サイコロを振り続ける。そうすることの内にだけ、僕の願う充足が舞い込んでくる希望がある。

 

捩れた方法で

 僕は物事を理解できる。僕は現象を解釈できる。だけど僕の理解や解釈が他者のお眼鏡に叶うかどうかに関して、つまり僕の理解したと思っていることが、第三者の価値にとって『理解に値するかどうか』に関して、一切の自信がない。僕の不安はこの様な形で、凡ゆる知的な努力を根源的に上回っている様だ。

 

 物事を理解したという感触は、直接的で無根拠な直感としてしか正当化しえず、その社会的な正当性は、つまりその直感が他者に伝達可能なものとしての地位を得るかどうかは、他者の表情や身振り手振りによって賭けられている。例えば、僕が子供の頃に、算数の九九を正しく諳んじることが出来た際の、大人達の「優しい反応」が、そうした「手応えの反復」が、自分の直感が実際的に有効であるという、客観性への信頼を形成するのに役立つ唯一の指標なのだ。要するに僕は「僕が理解したと信じること」を信じないことだって出来るのだ。自己自身と世界への信頼が発生する根拠を指し示すことは出来ない。暴力に耐え得る強度の言葉-世界認識など存在しない。この文章を恐れたまえ。

 

 他者達が犇めく世界をこの様な疑惑の観点から眺めると根源的な不安が生じるため、人は問題を単純化する。つまり「僕の直感に与えられた『理解の感触』が正しいのだから、彼がそれを認めないならば、彼の方が間違っているのだ」という具合に。この二者択一の思考が社会の前提となる。

 

 古典主義は世界の悲劇性を知っている。世界の悲劇性は本能心理学のそれとはまた違った源泉、即ち「客観的な」根源がある。マニエリストは、しかし、世界の「メランコリア」の内に立っている。それは彼が主観主義者だからだ。「不条理な」「エロティックな」狂気にすら陥る程に、「イデア」における、また「空想」裡における反対物の「狂気的」統一をすら成し遂げるほどに、主観主義者たり得るからだ。即ち、形象の世界と彼自身のエロティックな表象の形象とは、ーー自閉症的にーー交流する。彼を執拗に襲う非合理的な形象の数々ーーそれらは如何なる意味でも「自然」とは無関係だーーが、二重の意味で彼を満足させている。より適切な表現を用いれば、言うまでもなく自己満足と同様に繰り返し起こり得る、世界の「黒ミサ」の中で、この非合理な形象に満足を感じ、またこの形象を通じて満足を得るのである。「意志」と「表象」とは、怪物的な一致する不一致の内に一体となる。この過程に於いては、世界はただーーデフォルメされた形で現れる他はない。(ルネ・ホッケ)

 

 古典主義者にとっての「悲劇」とは、確固とした一つの事実であり、例えばそれは災害による死亡人数や、どの国が戦争をしているかなどの報告によって、客観的な基底を成した世界の上に与えられる感情だ。しかし主観主義者にとって現実の出来事や事実性は、まず差し当たって問題とはならない。彼らの「メランコリア」とは、自己と、その主観性が今まさに構築しようとする世界との中間で生起する、悪夢的でせん妄症的な荒廃だ。彼らは認識の枠組みそのものを始めから信用していない。彼らの目に映るのは、理路整然とした纏まりを失った無意味の形象が継起して出現する、錯乱の現場である。それら矛盾に満ちた(秩序を持たないという意味で原理的な混乱をきたしているのであって、合理主義的な枠組みに適わないという理由による「客観主義者にとっての矛盾」ではない)形象を結び付ける内奥の力の出現は、ただプラトン主義的な直感を指し示すことによってのみ語り得る、独我論的な(言語の極北の意味に於いて)自己満足に終始するより他にない、迷宮からの束の間の解放なのである。

 

 そのため新たに創造された表象は奇妙にデフォルメされている。しかし人間がデフォルメされていない表象を認識することなどない。もし「ありのままの現実」が在るように見えるならば、それは習慣と愛着が呼び起こした錯誤でしかないのだ。亜流形式主義者による表層的グロテスクを峻別するにしても、ことが生じる現場が一人の主観であるところの形象同士の結合は、「観念的」である他に成り立ち得ず、故に硬直した古典主義=自然主義の排他性は、こうしたプロセスの忘却によって起こるのである。他者への伝達を自明視した「自然」など、本来、創造なしには存在しなかったのだ。常に自分自身の主観性の中で、「プラトン主義的」に矛盾を乗り越え、決して自己満足以上の結果を偶然としてしか享受せず、ただ一人「イデア」の内に調和を試みるのが芸術家の目標であった。「メランコリア」の芸術家は、意味が砕け散り、イメージが奇妙に絡み合いながら湧出する、荒れ果てた更地にまで降りて行く。

 


 しかし表象されたものはすぐさま記号化への危険に晒される。ここである一つの深刻な逆説が生じる。完成されたものは何故それが完成を表徴出来るのかという疑問に対する根拠を持たないが故に、未完成よりも恐ろしいという逆説が。理性は表象を「既に在ったもの」として客体化する。客体化された対象はプラトン主義的な自己=恩寵という手触りを拭い去る。もはやそれは有象無象と同じ土台に並び立つ一つの意味に過ぎなくなる。即ち(常識的に考えられているのとは逆に)理性の健全さこそが主観主義的な感性を不安に陥らせるのだ。直接に感じられたもの以外の全てに疑惑の眼差しを向ける者にとって、充実した安心感は、記号体系を形作る理性の解除によってもたらされる。


 だが理性の眠りはまた狂気を呼ぶのである。だから主観主義者は平静な生を送る上で、作為的な仮面を脱ぎ捨ててしまうことは許されない。世界との和解は恩寵であり、残念ながら、それは持続しないのだ。彼らは自分の言葉を、自分が構築した世界の正しさなど信じてはいない。しかし他者の存在する空間で生きる上では、直接に感じられたものを、客観性へと堕落させ、その仮構された秩序を自明なものとして扱わなければならない。ただしこの主観性の客観性への置換こそが(どれだけの科学的論証も虚しく)どんな奔放な想像力にも増して、飛躍的なアクロバットなのだ。理性崩壊の兆しはそこかしこに広がっている。彼らにとって社会を生きることは緊迫した、息を継ぐ間もない、賭けの連続となる。

 

追悼

 幸運の意味を知っているから。不条理を知っているから。それが起きるということくらい分かっていた。だから君が自ら命を絶ったからといって、悲しむこともなかった。改めて驚くことはなかった。それは悲劇じゃなかった。僕は世界の残酷さを知っていたから。世界は僕の思う通りに運行しているわけじゃないことを知っていたから。それは不幸でもなかった。君のような人間にとって、人生に意味や希望があることは前提ではなかったから。僕らが大した仲でもなかったことだって関係しているのかも知れないけれど(僕たちはいわゆる友達を作れるような人種ではないから)、そんなわけで君の死は、ただ起きるだろうことの一つでしかなかった。僕に「どうして」と口にする気はない。僕には原因を説明するつもりも、価値を表明するつもりもないからだ。

 だからといって僕が何も感じなくなった訳ではない。むしろ以前よりはっきりと感じられるくらいだ。それは二度と再演されることのない音楽の停止の様なものだった。他に名前を付けてしまえば取り返しようもなく変質してしまう、比類なき終わりだ。ただ一回の出会いと、君と僕が存在した僅かばかりの中間と。そしてこれからも時間は、何も変わることなく茫漠としたまま流れていくことだろう。たぶん僕は純粋に物事を受け止めるようになったのだ。ただそれだけだ。不在の感触……さようなら。ほんの少し結び付いた言葉、僕が訪われた表象、さようなら。きっとそれだけだ。

 

日差し

 少し熱いくらいの日差し。時間がゆっくり進む気分。退屈を感じるのは良い兆しなのだと思う。(僕は生きているか死んでいるかの実感も湧かないまま消えて行くつもりだったのに。)空が綺麗だった。木々の色が深くなって、風が強くて、僕はさざめきが好きだった。

 どこか遠くで誰かが演奏した音楽を聴く。場所とか世紀とか人名が、かつて存在した事実なんて本当にどうでも良かった。そんなことがどうして分かるのだろう。確かなのは僕がいま聴いている音だけだ。微細なものが巨大なものと和解して、凡ゆる懐疑は意味を成さなくなった。必然とか運命とか。それはどこからか運ばれて僕にまで届く。馬鹿みたいだけど、それで十分だ。

 

 疑う余地もなく幸運の結果がばら撒かれている。大地とアスファルトは同じで、蟻の巣と高層ビルは同じだった。それは角膜に刻まれた描線で、手のひらで払われて消える模様だった。人工的で作為的なものは何処にも認められなかった。散り散りになったのは光。揺らめいているのは湖で、構築されるのは石だ。言葉と意味の連なりは、瞬きをする度に配列を変える星座だった。そして結局、全ては僕の眼差しに帰属していた。美しいことも残酷なことも、全て無償で現れるのだ。遠くから。それは途方もなく遠くから。

 

 相変わらず生活は面白くなく、創造性は欠落していて、僕は二十数年の間に捏ね上げられた自分の傾向性に辟易している。天才にだけ許された充足があるのだろうし、それは僕には手が届かない。こんな風に恩寵は静けさを与えるだけで、表面的な不協和音が消え去る瞬間なんて、この程度の気休めなのだろう。周囲を見渡す限り、死にたくなる程に重苦しい何かは見当たらない。それは有難いことだけど、それでも僕は基本的に死に惹かれている。何も変わりはしない。

 自殺に必要なのは苦悩でも、絶望でもなく、意識の軽さだ。勇気すら要らない。むしろそれは邪魔なのだ。こんな調子なら、死ぬのは余りにも簡単そうだ。と、ふんわり思った。

 

解除

 すぐダメになりそうだけど、出来るだけ毎日書く。そうすれば書かれた内容は自ずと、その日に偶然そう感じただけというニュアンスを含むようになる。これが数週間に一度となると、一回性の成長やら思想の変化やらといった趣になり、内容が煮詰まって重苦しくなる。一撃で現在の自己を説明しようとする様になり、ますます何も書けなくなる。そんなこと出来やしないと知っていても勝手にそうなっていく。さらに言葉を使わないと言語野が自省録(マルクス・アウレリウス)みたいになる。それはそれで笑えるかも知れないけど、僕はどちらかと言えば、表現の本質は多様な変奏をすることだと考えている側の人間なので、それは芳しくないという訳だ。別に書くべきこともないけど、好意的に見れば、主張しなきゃいけないことが何もない程度には自由なのだ。人と毎日会ってる人ほど無内容な話を口にするように見える。そっちの方が気楽そうだ。

 

 

 以前より生きていて苦痛に思うこともなくなったけれど、愉快になった訳でもない。幾つかの個人的な問題を解決したつもりになったら、退屈が勝るようになった気もする。生活は順調にならない。習慣の問題ではなく病気の所為かも知れない。出来ることなら食事なんて摂らずに、光合成か何かで済ませたいとか、そういう風に思ってしまっている。食事にさえ気合いを要するのは生まれもった性格な気もする。立て直した所で、体を壊す度にリセットされてしまうことから刷り込まれた無力感かも知れない。ハッキリしているのは、自然体で生きていると僕は着実に死に向かって沈んでいってしまうということ。何とかやっていかなくてはならない。

 

 

 友人や恋人を作ること。他人より良い結果を出して、誰かに勝利すること。世の中の役に立ち、有用性を知らしめること。ある種の人間はそれらを健常さや優秀さの証だと信じている。そうすれば自分に訪れた恵みを、有り難いと感じられるだろう。意味と基準さえ設ければ、もっと下の連中がいるという理由で、抽象的な存在に、例えば神に感謝することだって出来るだろう。これは良い場合であって、悪い時には彼らは弱者を排撃しようとするだろう。多分でかい事故や病気に遭遇するまでは、そんな風に死ぬまでの時間の大半をやり過ごすことも出来るのだ。

 意味も基準もなしに満足することは難しく、出来事に対して素直で透明な喜びを感じる為には、まず何より自分自身がユニークな存在でなければならない。自分の機嫌を自分で取らなければ他者と上手に関わることが出来ない、というのは正しい。目の前にあるものが退屈ならば、それは僕自身の陳腐さを反射しているのだ。どんなに素晴らしい光景を目にしても、どれだけ人間関係に恵まれても、そいつはずっと付き纏ってくるだろう。逆に自分で自分の機嫌さえ取れるなら、その他の凡ゆる報酬は、純粋にボーナスとして出現することになる。そういう人は稀にしかいない。たぶん本物のエンターテイナー。たぶん本物の詩人。

 

 上等な存在になろうとしてはいけない。可能な限り比較を絶すること。どこにも辿り着こうとせずに直感で道を曲がること。既視感の元に一般化せず、ゆっくりとページを捲ること。僕には大した知性も才能もないから、堕落していると、完成された作品は一日で既存のガラクタに成り下がってしまうし、生きることは退屈さからの逃避という側面ばかりを主張するようになる。

 理想的な幸福と見做している状態に永遠に近付けない絶望がどれだけ強くても、空が綺麗とかいう瞬間ごとに、意識そのものを解除して生きていける人間になること。そうなりたい。

 

オタクと海に行くなどした

 先日ツイッターで知り合ったオタクと海を見に行った。オフ会というやつ。

 

 普通のブログっぽいこと(?)を書きます。

 

 先週にもひょんなことから仲良くなった東大生のオタクと会ったばかりだと言うのに。注目すべきは、マジで人と遊ぶことが少ない僕に、一週間に二度も交友的なイベントが起こったという事実だ。ちなみにオフ会は人生初です。

 今回会ったのは早稲田のオタク。何の捻りもないが、二人とも頭が良い。巡り会いに感謝。おかあさんに自慢しよ。

 

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 どこに向かうのか知らされないまま、君に連れられ辿り着いた海は、しかし生憎の曇天の為、ハチャメチャにエモい訳ではなかった。そのことを冗談まじりに伝えると、君は少し哀しそうな顔をした。

「いや、こういう海も好きだよ。ほら、アンゲロプロスみたいでさ…」 

 僕はそう取り繕ってみたが、君は映画には疎いらしく、そっぽを向いてしまった。

 「私があげられるのは、これくらいで全部」

 少しの間があって、戦場ヶ原ひたぎの台詞が聞こえてきた。化物語のラストシーンだ。

 だが隣を見ると、そこにいたのは長髪ツンデレの女子高生ではなく、オタクだった。

 

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 ところでオタクは写真に撮られるのが嫌いな生き物だ。

 どの写真にも人間がいないから、実際にオフ会をしたのか怪しくなってくる。

「本当は一人だったんじゃないの?」

 そういう疑惑を僕にぶつけるのは止めて欲しい。僕も自信はない。

 

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 代わり映えのない灰色が続く。ある種の美しくない死に方の様なものを連想させられる。

 歩きながらVtuberやネタ・ツイッタラーやエロ漫画について話した。虚無だ。

 

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 この辺りには何もない。見捨てられた土地なのだ。

 彼は言う。「東京で最も"終わり"に近い場所だ。」

 (ちなみにこのセリフは6回くらい聞いた。)

 

「ここはギリギリで東京?」

「ギリギリで世界だ」

 なるほど?

 

 だけど終末の地にも美しいものはある。一筋の希望だって見えてくる。そう信じて俺たちはここまで来た。そうだろう?

(この先めちゃめちゃ歩いたけど行き止まりだった。)


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 何だかんだ言っても海は良い。

「人生初の海はポケモンだった。」

「おおー、我々の時代的感性を見事に表した言葉ですね。」

 それはそうとフナムシが大量にうじゃうじゃしてるのが見れて素晴らしかった。

 

 

 はい。

 

 

 帰りに食べたトンカツはトンカツの味がした。シモーヌ・ヴェイユの良き読者である我々は食に疎かった。

 

 

 こういうのって何を書けばいいんだろう。書き方を根底から間違えたっぽい。終わります。

 

 オタクと話すのも高学歴と話すのもインターネットの人間と話すのも全然経験がなくて、何が正解なのかさっぱり分からなかったが、この日を境に相互ブロックになった訳じゃないので成功ということにします。

 

 

 平成最後の夏は最高の夏になりました

 

 ありがとうございました。

 

 

 

 おまけ

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 一回目のオフ会が僕の誕生日だった為、オタクがプレゼントしてくれた花束です。花束を貰う機会なんて普通ないので、凄く嬉しくなったから見て欲しい。値札の部分とか。

 

 

 

 

 みんな夢でありました。

 

 

 

ロートレアモン伯爵の文体で人間を殴るだけ

 おや!君の剛健な身体に備わったミミズの様に太い神経にも、痛覚が備わっているとは知らなかった!しかし、自動機械の定められた文法に従って緊張した、普段なら盛りの付いた猫の尾の様によく動く表情筋や、僕の耳には優しいヒキガエルの様なうめき声で、僕の同情を誘おうとするのを諦めろ!そう君に説教しながら、マゾヒストの犬の睾丸の様に柔らかい、縛り付けられた君の剥き出しの鳩尾に、僕の岩石の鋭さを持つ、骨ばった拳をめり込ませるのを、君が赤子そのものである善意がそうさせている懇願で、止めることが出来るかも知れないという幻想を、もし君が昨今の優れた道徳教育によって、絶滅収容所の死体の前で、満面の笑みでピースした写真を、愛情の印として恋人に送り届けたという親衛隊の残忍な偏見が、全世紀までの野蛮な人類特有の振る舞いとして終止符を打たれたのだという、無知な大学生のそれと見紛う、惚けた歴史観を持っているのでなければ、今すぐに捨てろ。だが、僕の真意を、君も直ぐに理解することだろう。僕が十何度目かの拳を振り上げた時、君がこの世でこんなにも理不尽な目に合っているのは自分だけだという、理性的に考えれば馬鹿げたものでしかない激情に駆られながら見せた、標的に狙いを定めた猛禽類にも似た、数秒後に起こる殺人を約束する、獲物にとって致死的となる眼光を、僕が見逃した訳ではない。だがそれと同じ眼が、彼のきめ細かく艶のある顔に宿ったのは、彼がまだ十五にも満たない頃だった。いや、彼の受難に満ちた物語を、今はまだ僕が語る頃合いではないだろう。カミソリの様に瘦せこけた頰を見せる相手もいなくなった、賢明なる読者は、僕と彼との出会いの、ウンバチクラゲも神経毒の分泌を、その必要がもはや皆無だという理由で止めてしまうエピソードを、僕がいずれ秘密にしておくことを諦めるという約束を、ここに交わすことに感謝しろ。さぁ、君の悪意によって僕自身が黒い血を流す為に、肢体の縛めを解いてやろう。……おお!何てことだ。まさか絶命してしまうとは!この長話をしている最中にも、君の急所を、怒り狂ったマッコウクジラが海面を叩きつける尾の万力を込めて殴り続ける暴力行為を、一時中止することを、僕がうっかり失念していた為だというのか?鮮血と吐瀉物が花開く床に寝転がった、鬱病を患った猿の様な君よ。心から済まない。命を奪うなんて、そんなつもりは毛頭なかった。僕はただ世界の重い一撃が、健康な君の魂に加える変容を、この目で確かめてみたかっただけなのだ。そして数年後には、君が大事そうにしていた綺麗事の数々を捨て切れずに、海岸から身を抛つというロマンチストの真似事さえしなければ、現実に目を瞠いた君は、僕に感謝するまでになったことだろうに!僕の少しばかり極端ではあると僕自身も認めるところの、動機主義に偏った倫理観を、君が承認してくれるなら、この拷問の帰結として用意されていなかった不可抗力の殺人を、思わず神も許してしまうに違いない。悪気はなかった!そして君は、傲慢な者と嘘吐きが堕ちるのだと迷信深い連中に言われている、逆さ吊りの地獄にて、積もる話を蓄えて、一足先に待っていろ。もし僕の様な人間が堕ちる地獄が、この地上以外に存在すればの話だが、やがて僕もその地に赴くだろう。氷漬けのコキュートスで悪魔大王に噛みちぎられる為に、奈落の最下層へと向かう、その通過点として。