スクリーンの空

パロディ

表面に踏み止まること

 僕は映画を見ていて話の筋が分からなくなったりしない。YouTubeの下らない動画で笑ったりも出来る。音楽を聴けば、曲が自分の身体とどこかで共鳴していることが分かる。小説で作者の欺瞞や陳腐な図式性を批判することが出来る。文字の羅列を読み、それが理由もなく詩であることが分かる。このような可能な感受力の箇条書きが、あの心的状態を逆向きに照射することはないが、僕が言いたいのは、それらが出来るという、「知性の圧倒的な表面性」は想像を超えて尊いということだ。この点はいくら強調してもしすぎることはない。僕にはそんなことさえ容易でない時期もあった。いつも人格の片隅で表面性を漂い続けることを留意するべきで、それが生活をするということなのだと感じている。

 

 

 失われた事物の表情、それがこれであるという「感じ」の喪失はどのような事態だったのだろうか。認識された事物の表情の豊かさとは、円柱を真横から見れば長方形であるという様な誰にとっても既知である一つの視点のことではなく、百人の画家が百通りの円柱を描くような「感じ」の多様性であり、さらにその中のある「感じ」が自分自身と共にあるという「感じ」だ。その欠落は、芸術やコミュニケーションの意味的な差異が認識出来るにも関わらず、全てが自分と等しく無縁である為に無意味になってしまう感覚となる。ニヒリズムのような絶望ではなく、為すこと全てが直ちにフェイクになってしまうような断絶。僕たちは「感じ」の上で始めて判断を下すことが出来るらしい。

 それが与えられていることは多くの人にとって余りにも当たり前らしいので、誰も問題にすらしない。或いは多くの人は、そのように目まぐるしく事物を見ることが出来るという可能性を知らないのか、そうでなくても日常的にはその重要性をとても低く見積もっているように見える。人々の多くは芸術家ではないし、少なくともある程度は、従うべき意味が自明に与えられる世界を生きているのだろう。

 そのような喪失とそれに伴う混乱はしかし、その始まりに於いて、表面性を秤にかけようとする試みによって生じてしまったのではないだろうか。僕たちが生活する日常世界では、事物は大した多様に開かれてはいない。意味の殆どをシームレスに運ぶ空間化された時間が、僕たちの思考を制限する。たがそこで行われる凡ゆる判定を、例えば芸術の様に開かれた無数の選択肢と平等に相対化して、「感じ」の水準によって眺めてしまったならば。意味の違いであるべきものが、純粋に質の違いとして見做されてしまったならば。このような症状は事実、「感じ」の差異を識別する感性にかけては鋭い人に多いようなのだ。

 僕なりにその内面的な状況を記述するならば、心からすっかり「感じ」が消えてしまったのでは決してないように思う。むしろ数え切れない程の感じを俯瞰してしまい、そこに優劣が存在しないことを誰よりも知悉している頭脳から、評価を下す判定だけが消えたのだ。つまり心の中には余りにも沢山の「感じ」が並列していて、選択を絞り込む無意識的な機構が欠如しているのだ。それは主観しか存在しなくなった世界に於ける主観性の欠如と言っても良いと思う。それが日常生活の様に固定された文脈に満ちた世界で特に危険となる、未知性の不気味さという事態ではないだろうか。

 或いは、これこそが己であるという一つの質に肉薄しようとするあの探求の意識的な眼差しが、この惑乱へと至る後押しをするのかも知れない。だがそのようにして沈み込もうとしている深みは、生活する人間が呼吸をする場所ではないのだろう。それなのにそこに留まることが出来る人がいる。そこが本当の自分の住処なのだと思ってしまう人がいる。だけどそれは、芸術を生きようとした筈が、芸術を生活してしまったという誤ちだったのではないか。だとすれば、今度は自己消滅の恐怖に逆らってでも、捉えられないものを捉えようとする意識を放棄していかなければならないのではないか。「感じ」は、身体の声は、本当の意味で死んでしまいはしないのではないか。

 感受性はその深みを失くしたのではない。その逆に、表面性をこそ斬り裂いて細切れにしてしまったのだ。「感じ」を失ったのではない。世界の全てを「感じ」の水準で考えようとすることにして、痙攣してしまったのだ。そうして思い描く限り可能な世界全てに向けて注がれる眼差しの過剰が、自分自身の目を焼いてしまったのだ。僕は想像するのだが、自然な自明性を失うに至った彼らは、決して何者も断罪しようとはしなかったのではないか。何故ならある一つの「感じ」の相の下で事物を捉えることは、現実の多様を切り捨てることに他ならないからだ。そして彼は如何なる表情も自己の経験の前提にしないことを選んだのだ。理性的な意味の系列が織り成す体系への不信は前提である。彼らは不可知性を前にして、自らの倫理すら手放してしまわなかったか。そして彼らの境界を揺らす資質は、何らかの衝撃によって暴走してしまったのではないか。

 

 

 事物の表情。それは追い求めれば消える幻であり、影こそが実体であるような蜃気楼だ。立ち止まらなければならない。現れた形象は、直接に与えられたのであり、それ以上の何者でもない。僕に感じられることも、考えられることも、根拠なしの賜物だ。一歩でも近寄れば、それは奇妙に形を整えて擬態する。記憶のコレクションは骨抜きにされた素材でしかなく、そこで参照される質感は平板に均されている。決して意図するな。それが見える時、知性を働かせるな。「これが自己なのだ」と口にするな。それが世界へと成長することはない。一貫性へと進化することはない。自己意識とは、開けようとすれば閉ざされる扉なのだ。これは明白な経験であって、禅問答などではない。リアリティは形象にそのまま突き刺さっていて、それを見る時、僕たちは既に自己意識へと到達している。朝日が射したなら、朝は来たのだ。

野蛮なもの

 人が他者に何らかの説明を求める時に多くの場合、自動的にある一つの暗黙の主題を設定してしまい、その時点で関係性は硬直に陥っている。それは時に最も下品な、しばしば権力を握る者による、意図的な弱者への圧迫であることもあるが、他方では自由なやり取りが封殺されて行く息苦しさの中で、ある日突如としてバラバラの身体性となって噴出する強引な論理空間ということもある。後者の場合、彼らの意図とは裏腹に、そのように真面目な空間の中で、対話はすぐさま挫折してしまう。そこで行われるのは一つの岩ともう一つの岩の衝突のようなものになる。その時、両者は論理空間を共有してはいない。論理とは前提となる経験によって歪曲する特殊な空間であって、誰もが等しく参加できる一本の予め整備された道ではない。その時、分断された空間は、衝突によってのみ統合され得るかのように我々を急き立てるだろう。どうやら我々の理性は目の前の分断された状況を、立ち止まって眺めることに耐えられないようなのだ。

 言うまでもなく、もっとも野蛮な低い次元の統合性は暴力であり、それ故に暴力に於ける関係性の構造はもっとも明瞭だ。その次に低い次元が論理的説明の要求であるように見える(その差は歴然だが)。そしてより低い次元の統合性は、より高い次元の統合の可能性をなし崩しにして、相手を同じ土俵に容赦なく引き摺り込む力を持つ。仕掛けられた相手はそれを根底から拒否する権利がない。例えば暴力において一方が殴りかかったならば、もう一方は防衛をしなければならない。可能な選択は闘争か逃走に限定される。

 多くの人は論理的説明の破綻から暴力へと至る野蛮性ならば認識しているが、自由な対話から論理的説明へと至る野蛮性を正当な方法として見做している。それよりも高い次元の事となると下手をすれば感知さえされない有様だ。確かに、異なる次元でのコミュニケーション(暴力含め)は、それぞれ機能を、全く異質な機能を担わされた方法に見えるので、次元間の移行は何らかの問題を解決する上で必要な秩序のようにさえ見えてくる。もちろん論理(場合によっては暴力も)の有効性を貶める気など誰にもない。だが高い次元での対話の現実的な挫折が、我々に論理を要求し始めるという側面を忘れてはならない。そして高められた空間でしか、凡そ相手の人間性など理解出来ないのだ。

 好きな女性を必死に説得しようとする哀れな男は、ある特殊な高い次元でのみ生き生きとしていた、豊かな兆候を野蛮に消し去っていく。そうした場面の想像は容易い。兆候は説得のように単調な図式的コミュニケーションを生業とする男にとってはある種、神懸かりなものにさえ見えるだろう。それは確かに詩的だとか霊的だとか形容される。だがそうした兆候は、より豊かな対話を可能にする、我々に備わっている認識の形式の一つなのだ。もちろんそれは、余りにも豊富な可能性を含むために、誰にとっても困難な形式であるには違いない。

 

 低次な空間に感性を隅々まで塗り潰された人間が窒息を免れ、それを成熟などと思い違いをして、ぶくぶくと自惚れているように(ときどき)見えるのだけど、さて、そうなってしまった人間に、芸術は薬になるのか?いや本当はそんな悲観的な事態なんて全然なくて、誰しもの心が他の者には想像も付かないような、決して穢されることのないユニークな豊かさに開かれているのかも知れない。全か無かの思考が過ぎる気がしなくもないけど…。

 

 僕は筋金入りのポエマーなので(?)こういう主観から外れた文章をぼんやりと書くのはこれで最後にしたいと思います。多分。

色んな音に聞こえる長い溜息

サルトルは『存在と無』の中のもっとも見事な個所で、他人の実在という次元で、眼差しを機能させています。もし眼差しがなかったとしたら、他人というものは、サルトルの定義にしたがえば、客観的実在性という部分的にしか実現されえない条件にまさに依存することになってしまいます。サルトルの言う眼差しとは、私に不意打ちをくらわす眼差しです。つまり、私の世界のあらゆるパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序づけるという意味で、私に不意打ちをくらわす眼差しです。


 既に何度も繰り返された話だが、自らの理性の正しさを保証するものはこの世界のどこにもないのだ。何故ってこの世界を構築しているのが僕自身であり、正しさを与えようにも自己循環しているのだから。狂人との、面と向かっての対話を想定してみるが良い。自分の認識している世界について、君と違った仕方で確信している、そんな信念の狂人との対話を。もちろん狂人というのは説明の為の極端な代表に過ぎない。すべて他者の眼差しは僕の世界に不意打ちを食らわせる。むしろその限りにおいて他者は眼差しを持っていると言って良いだろう。この地点でサルトルの言う、眼差しの決闘が起こる。断っておくけれど、決闘と言ってもそれは単なる力比べではない。これはある主題に於いて己の優位性を証明する、そんな限定的な闘いではないのだ。狂人の例に戻ろうか?いや、聡明な君のことだ、その必要はないだろう。ここでいう他者とは、ある社会的ヒエラルキーの代表者などではないのだ。他者の眼差しの恐怖とは、「君のことなんて、君が思ってるほど誰も見てないよ」などという自意識過剰くんに対する言葉に慰められるような、あの惨めったらしさなどとは無縁なのだよ。そのような他者は、言うなれば自分自身の鏡でしかないのだ。アアッ!そんな程度の不安ならばどれだけ幸せなことか!自分自身の認識している世界の枠組みを乗り越えてくる、あの恐るべし眼差しよ…。そうそう、こんな文章を書いている僕も、確信を持った狂人かも知れないね。何せ疑惑すら、眼差しの前では平等に崩壊の危機に晒されるのだから。

彗星

 あと一歩を踏み込めば、僕はこの世界から消えてなくなる。誰かが少し背中を押しさえすれば、それは為されるだろう。目の前を轟音が通り過ぎる。だけど僕はまだ黄色い線の手前にいる。恐らく同じ時、どこか別の場所で、彼は五十八錠もの睡眠薬を飲み干した。十五歳の時。それなのに僕は立ち尽くしたまま。二日後に彼が病院で息を吹き返した時も、同じ場所で立ち尽くしていた。


 生きていく事の困難や、日常の煩わしさからの逃避、数え上げれば切りがない程の呪い。そうした理由をどれだけ積み上げても、決して一つの行為へ踏み切る説明にならないことなら、誰だって知っている。

 だけど、そうではなかった。僕達は何一つ説明しようとしなかった。道徳や哲学を口にすることは即座に過ちだった。正当性というものは問題ですらなかったのだ。

 

 夜空を走る光が流れ星の全てであるように、深い眠りに就くよう静止する身体は彼であり、引き千切られて地に横たわる身体は僕だった。イメージは余りにも速く来た。動物と亡霊達の騒めく沃野を貫いて、それは心臓のリズムと同期する。僕達は確かにそれを掴んだ。なのに次の瞬間にはもう、捕らえられているのはこちらの方なのだ。

 

 それは生物学的な死を意味していたから、僕達も自然、それを自殺と呼ぶことにした。そうすることで何かが明確になるような気がしたからだ。だけどそんなことさえも僕達にとっては、偶然でしかなかった筈なのだ。それが死を意味するという事実は、死のビジョンに比べれば、不純で、取るに足らないことだった筈なのだ。

 

 それだから僕達は、本当は自殺を試みたのではなかった。僕達が必死になって手に入れようとしていたのは、命を終わらせることではなかった。きっと、だから彼は息を吹き返したし、僕はいつも線の前で立ち尽くしていた。

 

 (単なる回帰する物語として。)

 

 彼は生き返った。僕は死ななかった。

 目の前を通り過ぎる轟音を、今も目撃している。

 彼は生きている。僕は生きている。

すべて一つの生き物は

 誰もそれを言葉に出来ないし、言葉にした所で僅かばかりでも意味あることは伝えられないということならば、分かり切っている。僕たちはすぐ隣にいる人とさえ、感情を共有しているなどと言うことは出来ないのだ。だけど現にそれが起きているこの世界で、僕に確信出来ることだってある。例えば自己と他者のあいだで、触知することの叶わない無限の中間地点に、誰でもない者の声がいつも微かに谺していること。

 

 きっと始めは彼、一人の奏者の意図から外れた音色の、何か違和感のようなものだ。他の人もまた同じようにそれを感知しているのか、決して確かめることは出来ない。にも関わらず、あるかないかの気配が消えてしまわないように、全ての奏者が自らの呼吸を僅かに注意する。誰もが同じ一つの、たぶん外からやってきた声のトーンに耳を傾けていることを、このとき僕たちは既に感じ取ってしまっている。理由は分からないけれど、この予感にはそうした求心力があるのだ。そしてそれは起こる。何が契機となったのか、発火や沸騰のように突如として。僕たちに理解出来るのは性質が変化したという、ただその結果だけだ。はっきりと分かる、『あの瞬間』に何らかの閾値を超えたということは。それなのにすべてが終わった後で、一切の印が残ることはない。だってそれはただ一度しか起こり得ない現象なのだから。

 それは余りにも遠くから聞こえて来るので、あたかもあらかじめ僕の胸の中で響いていたかのようなのだ。兆候はそこにあり、しかし誰がそれを掴んだという訳でもなかった。気紛れな風が合図となるのを、たぶん皆が期待していたのだ。何故なら純然たる偶然がないとすれば、異なる意識が一致する瞬間を、誰に思い浮かべることなど出来るだろう。すべて一つの生き物は、こんな風にして息づき始める。心と世界の真ん中で。音楽が生まれたのだ。

 かつて手を伸ばせば届く距離に、暗闇は横たわっていた。記憶はゆっくりと薄くなっていく。はっきりとよく見えず理解しがたいものならば、あっという間に。定かならぬ恐怖と混乱の生々しい記憶は、良くも悪くも想像以上の速度で消え去っていく。僕たちには何か別の回路が必要だ。非知なるものを思い出すために。

 何故だったのだろうと考えるけれど、車窓から眺める風景のように遠ざかっていく感覚だけが……やっぱりそんな綺麗なものじゃなくて、ただ自分がそこにはいないという、断ち切られているという、孤独よりも具体的な手触りだけが記憶に、身体にこびり付いている。僕は誰とも出会えなかった。いや、それは嘘だ

 

 眼に浮かぶのはあり得たかも知れない可能性。たぶん掴むことは出来なかった機会。もっと大きな幸運。或いはさらに残酷な不条理。取り返しの付かない事故。自分が選んだように見えて、外から決められていた必然。こうであったならと想像してみることが出来ること。もはや夢見ることさえ不可能なこと。巡り会うはずだった人の、目に見えない顔。病気ではなかったかも知れない自分の、決して話されることのない喋り方。体験することのなかった、あの人と気楽な時を過ごす気分。触れることはない。彼ら、すぐ隣にいたかも知れない何人もの僕が見る世界に、この僕の手が触れることはない。あるかないかの対象を意識することは決して出来ず、思い描く僕がいる限り、想像力は外部へと突き抜けることはない。こんな風に巨大に膨れ上がる憧れはたぶん風船とよく似ていて、中にはいつも空気が詰まっているだけだ。

 

 問題は、はっきりしていない。無限に遠い他者。理解することの叶わない自明性。演技と同化。何故笑うのか分からずとも笑えるように慣れてしまうこと。僕以外の者もまた同じなのかと問わないようにすること。表面を撫でるだけの娯楽だって、全く楽しくない訳じゃない。僕の本質が暗い奴だなんてことはない。分裂していたって良いんだ。その時その場所でだけ、優しくて礼儀正しい人ということになれば完璧だ。何を隠すためなのか。もしかしたら空虚さを。分からない。そんなことはどうだっていい。

ことの記憶

 僕は何かをしてきたし、誰かと出会ってきたけれど、経験の中で繋がりが断ち切られてしまっていて、喩えるなら何かの一貫性を保つために「何もない人生だった」と言わざるを得ないと強制されているかのようなのだ。実際に関わってきた人のことを思うと失礼だとは思うのだけど、記憶が意味から置いてきぼりにされてしまうのを、どうしても止められなかった。

 僕の人生が事実として、実質的に、取り立てて言うほど空虚ということでは多分ない。何かを探しているという感触だけが残っている。何かをなかったことにしている。そう思う。

 

 記憶の事象が「私はあなたにとって存在しないも同然だったのか」と問う。

 

 『始めの位置』に立った時、僕の手元にあるのは異常な熱量と執着心だけで、可能性すら信じてはいなかった。

 かちかちと脳の配線を切り替えてゆく、絶望的に気が遠くなる作業。言葉を糸にする。体の内を流れるものの幽かな気配だけを頼りに、存在するかどうかも分からない針穴に向けて。どこにも触れることの出来なかった物語はバラバラに砕け散って、他者の眼差しに貫かれて死んでしまった。何かを間違えた。頭では理解出来そうもない何かを。グロテスクな仮面が幾つも出来上がっては、付けてみることさえせずに割った。

 

 その仕事を僕はやり遂げたわけではないのだろう。それなのに自分がぼんやりとした平穏に落ち着いてしまいそうなのが怖い。平穏は自分の力で獲得したものでもなければ、苦難の証明でもないかも知れない。

 考えもしなかったことだ。自殺を思うほどに強い感情は、ほんの僅かな間だけ許されている。ただーーーのことを、今でも僕はこの人生に起こった出来事として、確かに組み込めてはいないと感じるのだ。どんな納得があり得るのか未だに想像も付かない。まだ回収出来てはいないのだと意識し続けなければならない。それは実際に起こった事だ。自分の何割かを分断させて、どこかの地平に置き去りにしたことさえ忘れてしまわないように、えらく感傷的な言葉をここに残しておく。もう少しだけ答えを出すのを延期する。

 

 もし意識が変容し続けるものであるならば、答えのあり得ない問いかけは、すがたかたちを変えながら決して消え去ることはなく、何度でも。(これは祈りだ。)