詩の発生

 嘆きを嘆きとして表現するだけでは優れた詩にはならないと僕は思う。矛盾を抱え込みながら対立を乗り越えるか、対立そのものを肯定的に提示しなければならない、という気持ちがある。嘆き悲しむ者は、許しや報いを欲する事なく、美によって現実を受容し、美の質感によって許しが現れる様でなければならない。矛盾を誤魔化す事なく見据えれば見据えるほど、美は困難になるが、その輝きも増すのである。自己と世界の対立が激しければ激しいほど、必然的に外的な状況に依存した解答を与える事は難しくなる。しかし対立が強いほどに、それが詩として表現された際の救いの力は普遍的になる。

 僕が考える良くない詩とは、たとえば孤独を嘆く精神の解決策として友人や家族や恋人を出現させる様な詩である。この様な詩は状況を改善させる事で問題を飛び抜けてしまう。しかしどれだけの芸術がこの様に状況に依存した形で解決策を提示した気になっている事か。我々は心構えを変えなければならないが、心構えを変えれば必ず現実が改善される保障などない。現実はどこまでもコントロール不能であり、不条理に満ちている。だから人は自由や努力を完全に信頼してはならないし、そこから派生される自己責任のロジックを用いてはならない。孤独の経験の後で、結果として他者との新たな接触があるのは勿論構わない。しかし他者との接触が彼の救いであってはならない。他者の出現が即ちハッピーエンドの証明であってはならない。彼はただ孤独を潜り抜ける事によって一つの詩を獲得したのでなければならないのだ。

 なるほど意志的な活動意欲を刺激する詩があっても良かろう。或いは現実とは違うもう一つの甘美な幻想世界へ誘う詩が。しかし僕がこの文章に於いて言う所の美の概念に則るならば、そうした詩は、詩として美しくないとはっきり言おこう。こうでしかない現実を真っ直ぐに見抜き、この世界がただこの様にある事の衝撃を感じる事の中に美は存在するのだ。我々は優れた絵画を自分のものにしたいなどと思うだろうか。絵画を自室の壁に飾る事までは出来る。だが優れた絵画はいつでも「そこにあるだけで良い」ものなのだ。自己から離れて、ただそのままである事に満足する様な対象。如何なる干渉を及ぼそうとも思わない様な対象。手を触れる事が罪悪であるかの様に思われる対象。それこそが美なのである。一体、誰に絵画を「所有」する事など出来るのだろうか?いや、絵画を「所有」する事は何者にも出来ないのだ。詩は世界その物を一枚の絵画にしなければならない。

 綺麗に咲いた花しか美しいと思えない人は、虫の存在を隠蔽するだろう。詩が生まれるのは、花が決定的に奪われた時なのだ。この残酷な世界に於いて、花は損なわれ得るものなのである。愛の対象の欠損こそが、あるがままの現実を開く唯一の扉なのだ。もし花以外の物に美を与える詩が生まれなかったならば、その時は美の敗北だ。そうなれば我々は幸福を手にする為に、再び花を咲かせようとする事しか出来ないだろう。しかし現実は取り返しの付く事ばかりではない事を、詩を持つ者は知っている。我々が他者を妬まずにいられるとすれば、それを単なる態度の問題として片付けるべきではない。新たな詩の誕生が、虫を美しいと思える精神の誕生が、現実を受け入れされるのだ。妬みを醜い心だと責める必要はない。態度を変えようとする必要もない。救いはその様な強引さによってもたらされるのではない。妬むな、恨むな、受け入れろと幾ら自分に言い聞かせた所で、心が捻じ曲がるのみで効果はない。詩は極めて繊細かつ全体的な知性の働きによってもたらされるのだ。人の心の変化はこの様に起こるのである。かくして、花を枯らしてしまった者にとって 、詩の出現こそが救いとなるのである。

 新たなる現実が開かれたならば、詩は生み出されなければならない。だから美の創出は、現実との絶えざる(敗北から始まる新たな)闘いだ。しかしどちらが幸福と言えるだろうか。死ぬまで花に囲まれて生きるのと、理想が破られ、思い通りにならない現実に触れるのとでは。残酷さだけが、傷付けられる事だけが、生々しい実在感に触れる術だとしたら。僕はここで一つの解答を提示しようというのではない。花を愛し続ける事もよかろう。どちらがより良い人生か、などという結論を出す事は手に余る。美を推奨する事は、時に残酷な行いでもあるのだ。ただし花は決定的に朽ち果ててしまうかも知れない。我々は、自らの認識に亀裂を入れる様な新たなる詩の閃光を導き入れる覚悟を持っておいて損はないだろう。美とは、我々をうっとりさせるものでは無いのだ。うっとりさせるものは、所属、承認、慣習、愛情などによる相対的な居心地の良さである(ここで僕はそれを美と相対化するが否定はしない)。美とは我々の理想を木っ端微塵に吹き飛ばし、我々の肉体を焼き尽くさずにはあり得ないものなのだ。

雨の日の天啓

プロローグ

 その日、僕は雨の降る中、誰もいない海岸で膨れ上がった溺死体が引き揚げられるのを一人眺めていた。性別不明の水人間の口、かつて口であったと思われるボソボソとした穴の中から鮮やかなオレンジ色の魚、カクレクマノミが一匹這い出てきた。きっとその縺れた舌をイソギンチャクと勘違いしたのだろう。恐ろしい鮫に追われて慌てて逃げ込んだのかも知れない。きっと何か滑稽な失策を犯して鮫を怒らせれてしまったのだ。まるでアニメみたいに。そう、ファインディング…なんだったっけか。思い出せないが、まぁいい、とにかく海は危険がいっぱいだ。死体処理業の人達はまだ、その可憐な小さな命に気付いていない様子だ。ドジな可愛いやつ、イソギンチャクとこんなブヨブヨに変形した醜い脂肪の塊を間違えるなんて。その時僕の頭は突然閃いた。なかなか使い物にならない僕のポンコツの頭脳だが、こうした時に限っては役に立つ。思い付いたんだ、この可愛い奴に名前を付けるなら「ニモ」しかないって。素晴らしいネーミングセンスだろう。ぴったりだ。さっそく皆に知らせてやりたくなって来た。何故かは分からないが、こいつの名前は「ニモ」以外にはありえないって思ったんだ。まるで天啓のようにその二文字が降ってきたんだ。きっと誰もが気に入ってくれるだろう、「ニモ」!ああ、可哀想な「ニモ」!しかし君を助けてやる事は僕には出来そうもない…さようなら「ニモ」!君がこれからどこに向かおうというのか知らないが、幸運を祈る。君の冒険がありありと目に浮かぶよ!この残酷な世界を無事生き延びろ「ニモ」!