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屈折した少年の話

 僕は何故、人と同じステージに立とうとしないのか。何故あらゆる大衆的な表現への参入に嫌悪感を覚えるのか。僕が大衆的という言葉を使う時、何故そこまで極端な厳しさを帯びるのか。それは他者と共有可能な言語を忌避して、余白に目掛けて逃げて行く致命的な心性だ。本当は他者にどの様に振る舞えば良いか学習している筈なのに、自分にとって既知の文脈となった途端、その使用を拒みたくなる。わざと脱線したくなるのだ。他者が反応に困る様に。それは意思疎通がスムーズに行われる事の、分かり切ったルーチンに対する嫌悪感なのだ。いや、それでは不十分だ。僕は根本的に可能なコミュニケーション自体を拒絶している様なのだ。まだ幼い時分から、僕はどの様な振る舞いが大人に可愛がられるかを頭では理解していた。それを無邪気に行う事が出来るのならば、それで良かっただろう。しかし意識してしまえば邪悪に思われるのだった。今考えてみれば意識しなければ善良だなんて馬鹿げた倫理はあり得ない。これは知性や技術の問題ではなく、もっと根深く精神を侵している問題である。

 つまりこういう事である。僕がある振る舞いをする。その振る舞いがどの様な内面性と一致しているか、実際のところ定かではない。しかし振る舞いはそれが行われた瞬間に一つの記号となり、他者はそれを恣意的に読み取る。全てのコミュニケーションには定められたコードが予め用意されていて、そこから逸脱する振る舞いは記号として十全に機能しない。表現はこの様に制限されていて、子供は誰でも(大人が作り上げたコードが余りにも短絡的であり、自分自身も多彩な言語を身に付けていないために)演じる事を要求されるのだ。そして僕は自分の思いを形式的に理解されてしまう位だったら、あえてそれに反抗し、塞ぎ込んだり捻くれている方がマシだった。僕にはそこに齟齬を感じずにいる人が不思議でしょうがなかった。理解されるという事ほど歪んだ暴力はないとさえ思われた。そんな風にして僕には、他者に理解されてしまうのが気持ち悪くて仕方がないという神経質な感情だけが強固に形成されてしまったのだ。

 僕は大人に可愛がられない子供であった訳ではなかった。だが意識可能な領野が広がるにつれて、逆説的に制限を被る言動が増えていってしまうのを止める事が出来なかったのだ。こうした自分自身の態度に僕の神経は参ってしまった。根本的に矛盾を抱え込んでいるのだから当然だ。僕のしている不断の努力は、自己追求と自分自身に言い聞かせた、果てなき逃走なのかも知れなかった。気が付くと、僕はもはや骨の髄まで染み込んだ、逃走という悪癖に自己同一性を見出してしまっていたのだ。僕は例外者でしかありたくなかった。他者に理解されてしまいたくなかった。どこにも所属したくなかったのだ。もっとも所属したいと思える集団と出会った事もなかった。ある集団を規定するコードによって自己を位置付ける事が出来ないのだ。気弱で内気な人が、不良達のグループに所属出来ない様に、僕はどこにいても場違いである様に感じ、そうした不和はいつも僕以上に周囲の人の方が先に気付いている様なのだった。こうした不遇がこの不幸の原因なのかも知れないが、僕の先天的な性格がそうさせているのか、どちらが先かは分からない。

 逸脱する事、交わらない事、それが結果ではなく、目的になってしてしまっている転倒を感じる。いや、結果と目的の順序など、どの様にして判明するだろうか。僕はどこにも所属する事が出来なかったが故に、疎外され続けたが故に、誰にも賞賛される事のない無能力の故に、或いは僕の潜在的な性質の醜悪さ故に、そうなのだ。順序など明らかにして、何になろう。僕の意志などは虚しかった。僕を仲間だと思う者は一人もいなかった。しかしそれは自己憐憫の種にはなるまい。僕に何か人を驚かせる様な能力さえあれば、人並みの才覚さえあれば、こんな事にはならなかっただろうからだ。才能を認める人達は自然とその人の周囲に集まるだろう。能力とは社会的な(物質的、精神的、両者を含めた)有用性であり、他者なくして成立しない概念だ。はっきりと言ってしまおう。つまり例外者とは「無能」の別名だったのだ。

引き裂き

 お前が生み出したこの膨大な言葉の連なりとお前自身との間にどういった関係があると言うのだ。考える事自体の遊戯的な楽しみ以外にどの様な絆があると言うのだ。 お前そのものだと思って必死に積み上げて来たお前の言葉、そうした言葉はかつて、確かにお前の肉であったかも知れぬ。いま一度良く見るが良い。もはやお前の生において、お前の言葉の数々は無用品ではないか。答えろ、未だにお前が潔く空っぽになってしまう事を辛うじて堰き止めている力は一体何だというのか。

 僕は愕然とした。それは言葉の予期せぬ反逆だった。僕の内部では、何か神経の様な致命的なものが引き千切られてしまっていた。そしてその裂け目から《本物の痴呆》という怪物の目が覗いていた。

解像度

 不幸や痛みの経験が他人の気持ちが分かる人間になる条件とは思えない。ある程度の不幸しか負っていない人は更に強烈な不幸の体験には共感不可能であり、余りにも過酷な目にあった人はそれほどの苦痛を感じていない人の気持ちなど理解出来ない。全く現実を苦にしない人たちは、(少なくとも外見上は)そうした人たち同士で楽しそうにやっている様に見える。

 子供の、転んで膝を擦りむいたり親に叱られたりした事などの平凡なエピソードへの共感性は、親の不在や虐め被害者への共感性と相入れない。こうした事は特定の共同体における歪みだけでなく、人間の認識の構造に根ざしている。身をもって知らない事を想像する事は人間にはそもそも不可能だ。共感不可能なものへ共感を差し向ける事は、さらに歪な不和を呼び起こすだろう事は容易に想定出来る。分からないものを分からないものとして切り離し、一種の諦念の上で異質なものとして尊重する関係を結ぶのが健全なのだと思う。上部だけの共感は思い上がりであって、余計に事態を悪化させる。凡そ共感的理解というものは外部からの人為的な差し向けによって与えられるものではない。一人の友人や一冊の本との巡り会いは真に偶然的な幸運であるに違いない。だから幸運に恵まれなければ人々は精神的な孤独を余儀なくされるのだ。こうした想像力の偏りは日常生活の中でも良く観測出来るが、それらの多くはこうした「悪意のなさ」の延長線上に位置付ける事が出来る様に思われる。余りにも汚いものを人間は、意図的に目に見えない様にするというよりも、正確には普段働かせている想像力を超えたものであるので、認識の構造上、視界に映りようが無いのだ。その事を責める事など出来ない。だがそうした不可能性を意識している事は大切だ。

 我々は経験によって自分自身と類似した世界の在り様について認識の解像度が上がり、それが共感と呼ばれる感情が生まれる為に必要な条件なのだと僕は思う。高い解像度の世界の中には楽しさや平安がある。それが如何に耐え難い人生であっても、その内部に豊穣な宇宙を見出す事が出来る。苦しみの中にさえ居場所を見つける事が出来る。人間にその様な能力が備わっている事は恩恵と言って構わないと思う。それは他者の見ている世界と比較出来る様なものではない。解像度の高い世界は実在感が増して見えるので、人間はそこに何らかの客観的優位性を与えてみたくなる。しかしこれは誤謬である。そうした階層性の持ち込みはすぐにルサンチマンへ転化する。我々は共感可能なものに共感するだけなのだ。外部の他者との共感可能性を見つけ出し、共感の輪を広げていく努力はその都度行われなければならないのであって、階層性の持ち込みが持たざる者から持てる者への逆差別の形を取る事は多々あるが、害悪な思考停止であるだろう。

詩の出現

 個人的な意見だが、嘆きを嘆きとして表現するだけでは優れた詩にはならないと思う。矛盾を抱え込みながら対立を乗り越えるか、対立そのものを美として提示しなければ(それを乗り越えと言うのかも知れない)ならないという気持ちがある。嘆き悲しむ者は許しや報いを欲する事なく、美によって現実を受容し、美の質感によって許しが現れる様でなければならない。矛盾を誤魔化す事なく見据えれば見据えるほど、美は困難になるが、その輝きも増すのである。自己と世界の対立が激しければ激しいほど、必然的に外的な状況に依存した解答を与える事は難しくなる。しかし対立が強いほどに、それが詩として表現された際の救いの力は普遍的になる。

 僕が考える良くない詩とは、たとえば孤独を嘆く精神の解決策として友人や家族や恋人を出現させる様な詩である。この様な詩は状況を改善させる事で問題を飛び抜けてしまう。しかしどれだけの芸術がこの様に状況に依存した形で解決策を提示した気になっている事か。我々は心構えを変えなければならないが、心構えを変えれば必ず現実が改善される保障などない。現実はどこまでもコントロール不能であり、不条理に満ちている。だから人は自由や努力を完全に信頼してはならないし、そこから派生される自己責任のロジックを用いてはならない。孤独の経験の後で、結果として他者との新たな接触があるのは勿論構わない。しかし他者との接触が彼の救いであってはならない。他者の出現が即ちハッピーエンドの証明であってはならない。彼はただ孤独を潜り抜ける事によって一つの詩を獲得したのでなければならないのだ。

 なるほど意志的な活動意欲を刺激する詩があっても良かろう。或いは現実とは違うもう一つの甘美な幻想世界へ誘う詩が。しかし僕がこの文章に於いて言う所の美の概念に則るならば、そうした詩は、詩として美しくないとはっきり言おこう。こうでしかない現実を真っ直ぐに見抜き、この世界がただこの様にある事の衝撃を感じる事の中に美は存在するのだ。我々は優れた絵画を自分のものにしたいなどと思うだろうか。絵画を自室の壁に飾る事までは出来る。だが優れた絵画はいつでも「そこにあるだけで良い」ものなのだ。自己から離れて、ただそのままである事に満足する様な対象。如何なる干渉を及ぼそうとも思わない様な対象。手を触れる事が罪悪であるかの様に思われる対象。それこそが美なのである。一体、誰に絵画を「所有」する事など出来るのだろうか?いや、絵画を「所有」する事は何者にも出来ないのだ。詩は世界その物を一枚の絵画にしなければならない。

 綺麗に咲いた花しか美しいと思えない人は、虫の存在を隠蔽するだろう。詩が生まれるのは、花が決定的に奪われた時なのだ。この残酷な世界に於いて、花は損なわれ得るものなのである。愛の対象の欠損こそが、あるがままの現実を開く唯一の扉なのだ。もし花以外の物に美を与える詩が生まれなかったならば、その時は美の敗北だ。そうなれば我々は幸福を手にする為に、再び花を咲かせようとする事しか出来ないだろう。しかし現実は取り返しの付く事ばかりではない事を、詩を持つ者は知っている。我々が他者を妬まずにいられるとすれば、それを単なる態度の問題として片付けるべきではない。新たな詩の誕生が、虫を美しいと思える精神の誕生が、現実を受け入れされるのだ。妬みを醜い心だと責める必要はない。態度を変えようとする必要もない。救いはその様な強引さによってもたらされるのではない。妬むな、恨むな、受け入れろと幾ら自分に言い聞かせた所で、心が捻じ曲がるのみで効果はない。詩は極めて繊細かつ全体的な知性の働きによってもたらされるのだ。人の心の変化はこの様に起こるのである。かくして、花を枯らしてしまった者にとって 、詩の出現こそが救いとなるのである。

 新たなる現実が開かれたならば、詩は生み出されなければならないのだ。だから美の創出は、現実との絶えざる(敗北から始まる新たな)闘いなのだ。しかしどちらが幸福と言えるだろうか。死ぬまで花に囲まれて生きるのと、理想が破られ、思い通りにならない現実に触れるのとでは。残酷さだけが、傷付けられる事だけが、生々しい実在感に触れる術だとしたら。僕はここで一つの解答を提示しようというのではない。花を愛し続ける事もよかろう。どちらがより良い人生かなどという結論を出す事は手に余る。美を推奨する事は、時に残酷な行いでもあるのだ。ただし花は決定的に朽ち果ててしまうかも知れない。我々は、自らの認識に亀裂を入れる様な新たなる詩の閃光を導き入れる覚悟を持っておいて損はないだろう。美とは、我々をうっとりさせるものでは無いのだ。うっとりさせるものは、所属、承認、慣習、愛情などによる相対的な居心地の良さである(ここで僕はそれを美と相対化するが否定はしない)。美とは我々の理想を木っ端微塵に吹き飛ばし、我々の肉体を焼き尽くさずにはあり得ないものなのだ。

依存

 依存という言葉はしばしば範囲が制限されずに、他者の振る舞いに対する批判に使われる。だが依存する事が悪いという事はない。日常、依存という言葉は大方、健康に害を為すとか、単純に鬱陶しいとか、ある振る舞いに対する嫌悪感の表明といった文脈で扱われる。依存という言葉に負のイメージはあらかじめ付随していてるので、殆ど単なる罵倒である。語に付随している不純物とでも呼べばいいのか、そうした余計なイメージが思考に与える影響を僕は何かと厄介に感じている。例えばある人は毎日空を見て綺麗だと思うのだから、それは空に依存していると言えるじゃないか。その対象が空でなくて、なんであっても同じだ。依存など要するにバランスの問題に過ぎないのだから、殆ど語として有意義な意味を担っていない様に感じる。

 僕は他者を精神的な支柱にする事(或はされる事)を極端に拒否してしまうのだが、その理由はなんだろう。物質的には仕方がない。食べ物を作る人がいて、それを僕は口にする。全てが恩恵であり、文明の中で生活する以上、それを享受しないという選択肢は殆どあり得ない。だが物質と精神の境界なんて本当はあってないようなものだ。何故料理を食べる事や、空を見上げる事が許される様に感じるのに、僕は他者と共に生きる事は許されないと感じるのか。それは僕が他者に受け入れられるという事を極めて例外的で特権的な逃げ道であると勝手に考えているからなのかも知れない。ごく自然に親しい他者が周囲にいるならともかく、一人でいる事に耐えられずに他者を求めるとなるともう駄目なのだ(僕は自然な人間関係を失ってしまったのだ)。孤独という問題があり、その解決方法として、心が通う他者の存在を持ち出す事、それは問題を解決せずに跳び越えてしまっているような気分になる。状況に依存して何かから目を背けている罪悪感に似た居心地の悪さを感じる。状況に依存すると(人間はこうしたものに支えられているお陰で生きているのだと認めると)、そうではない人、他者と出会わなかった人を否定する事になる。そして一度でも他者が存在しない世界を知ってしまったなら、もう他者が当然の様に存在する生活を望む事は、まるで妄想が作り上げたユートピアの様に御都合主義の気味の悪さを感じてしまうのだ。

 それでも僕は悲しい時に当然の様に空を見上げ、音楽を聴き、書物を紐解く。一人で出来る事だからだろうか。奇妙だ。空はともかくとして、音楽にも書物にも製作者がいる。どこか遠くに実際に存在する人物で、彼らは目に見えぬ誰かに届く事を祈って大海に瓶を流すような賭けを、全く気が遠くなる様な賭けをしているのだ。食べ物にしたって同じだ。食物の供給は、生存に必要な栄養源の補給という役割だけを担っているのではない。精神的な満足を与えるサービスと物質的な必要性の区別を付けられないのは、もどかしい。僕が本を読むのは、生身の他者を求めるのと何が違うのだろう。本の作者の方が少し遠くにいる様な気がするからだろうか。そんな程度の距離感にまんまと僕は騙されているというのだろうか。余りにも都合が良すぎる。何故僕はそんな事にもどかしさを感じているのか。僕は純粋に精神的なものの実在を認めていないのだから、人間から物質性と精神性をはっきりと区別しようがない事くらい、とっくに分かりきっているじゃないか。それは僕が生身の他者の存在を必要とせずに生きる事に執着している事ででっち上げた問題ではないのか。そしてそんな執着心を持つ事は、幼稚ではないのか。僕は他者に拒絶される事を無意識に恐れているだけだ。いや、そうではない。それを言えば僕は書物が読めなくなる事も恐れているし、音楽を聴けなくなる事も恐れている。もしかしたら空が落ちてくる事だって恐れているかも知れない。それらのコントロールの不能である事を僕は了解している。もしそうした事が起きたなら、甘んじて受け入れる他にないだろう。だから単純にこう言うべきだ。僕は生身の人間が「嫌い」なのだと。それがトラウマによって生じたものなのかどうかは分からない。知ろうとする価値もないだろうと思う。

 僕は人に裏切られようが、決して自我を揺さぶられる所までは傷付かないと感じている。僕は冷血な人間でも共感能力が乏しい人間でもない。ただ自分自身を孤独に適応する様に仕向けてきた。そうせざるを得なかったからだ。現状、僕はその試みに成功していると思う。どんな場合でも、存在の肯定は自分自身の力で行わなければならない。あるいは形而上学を捕まえて、それによって絶対的に肯定されなければならない。存在は決して、どの様な運命によっても、否定されてはならない。対人関係を自らの存在価値の尺度にしてはいけない。尺度の持ち込みは悪しき依存だ。

 だとすれば、僕は取り立てて他者を特別視する必然性はないという事になる。何故なら僕は他者を精神的な支柱にする事など始めからしていなかったのだから。他者を必要だと感じていなかったからだ。問題はカタルシスを迎える事もなく、既に終わっていた事を告げた。ただ空を見上げて綺麗だと思う様に、他者がいればその人の持っている色を感じる。自分の近くから他者がもしいなくなったら哀しめば良いし、好意的な友人がいつか現れたならば喜べばよい。決して自分の人間性が肯定されたと感じるから喜ぶのではなく、風に吹かれる様に気持ちで、なのだ。何ものも僕の自我に亀裂を入れる事は不可能だ。僕の心の中枢は限りなく透明な液体に満たされていて、それは真空と見紛う程なのだ。

 なんて事を自信満々に言ってみたけれど、人間の心なんて分からないものなのだ。ほんの些細な外的な出来事で、致命的にバランスを崩したりする。それこそ天気が悪いとかいう程度の事で。全てが偶然的だと気付く事は、無敵になる事ではない。実際のところ、何が自分自身を支えているのかなんて知りようがない。僕はずっと一人で、誰とも喋らなくても生きていける人間にはなったと思う。だからと言って、人より何かに依存していないと、自信を持って言う事など出来ない。僕は自身の自我の崩壊を食い止めているものを、気にも止めていないだけかも知れないからだ。それなしでは生きていけないと思われる程に重要なものを、意識さえしていないかも知れないのだ。さらに言えば、苦難にあって自分の存在を肯定出来る事それ自体が、外的な要因に左右されているに違いない。僕が今まで気が狂わずに済んでいるのは何故か。僕を僕たらしめている究極の一点は何なのか。誰にそんな事が分かるだろう。僕は全てが相互依存的であると考える者だ。依存しない事さえもまた。だから何も言えないのだ。

 もしそれが無かったならばと想像してみる事、そして現状を当然であるなどと思い違いしない事。だから僕は他者がいれば他者に感謝し、同時に他者抜きでは生きていけないなどと弱音は吐きたくない。だが依存と思われるものを一つ一つ取り払っていけば、最後には何も残るまい。他者は勿論、食べ物も、空も、命さえも。命を絶つ事さえも残るまい。恩恵は当然の様に周囲に満ちており、意識的に対象化する事を怠っているので、失われるまで気が付かない。気が付いてしまえば依存していると思わない訳にはいかないのだ。それがあればより良いという積極性と、それが無ければ耐えられないという消極性はこうして溶けていく。全てが相互依存によって成り立つ世界に僕は投げ込まれているのだから。僕の精神が崩壊するその時、僕は自分の精神の崩壊を食い止める術を知らないだろう。

 自分はもはや依存なんかしていないと叫ぶ者は愚かだろう。何故なら彼は失ってみたらどうなってしまうか予測も付かないという事を知らないのだから。彼は自我がどれ程の奇跡的なバランスの上に成り立っているか知らないのだ。彼は今と同じ人間でいる事は出来ないだろうという事以外に、確かな事は何もないという事を理解していないのだ。僕に出来る事はどうか惨事が起きないようにと祈る事のみだ。

ある雨の日の天啓

プロローグ

 その日の僕は雨の日の誰もいないビーチで膨れ上がった溺死体が引き揚げられるのを一人眺めていた。性別不明の水人間の口、かつて口であったと思われるボソボソとした穴の中から鮮やかなオレンジ色の魚、カクレクマノミが一匹這い出てきた。きっとその縺れた舌をイソギンチャクと勘違いしたのだろう。恐ろしい鮫に追われて慌てて逃げ込んだのかも知れない。きっと何か滑稽な失策を犯して鮫を怒らせれてしまったのだ。まるでアニメみたいに。そう、ファインディング…なんだったっけか。まぁいい、とにかく海は危険がいっぱいだ。死体処理業の人達はまだ、その可愛い小さな命に気付いていない様子だ。ドジな可愛いやつ、イソギンチャクとこんなブヨブヨに変形した醜い脂肪を間違えるなんて。その時僕の頭は突然閃いた。なかなか使い物にならない僕のポンコツの頭脳だが、こうした時に限っては役に立つ。思い付いたんだ、この可愛い奴に名前を付けるなら「ニモ」しかないって。素晴らしいネーミングセンスだろう。ぴったりだ。さっそく皆に知らせてやりたくなって来た。何故かは分からないが、こいつの名前は「ニモ」以外にはありえないって思ったんだ。まるで天啓のようにその二文字が降ってきたんだ。きっと誰もが気に入ってくれるだろう、「ニモ」!ああ、可哀想な「ニモ」!しかし君を助けてやる事は僕には出来そうもない…さようなら「ニモ」!君がこれからどこに向かおうというのか知らないが、幸運を祈る。君の冒険がありありと目に浮かぶよ!この残酷な世界を無事生き延びろ「ニモ」!