読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

他者性とフィクション

 物語世界の中の他者は、もうその時点である同一の世界観に所属させられる事で歪められた他者であり、恐らく物語というのは他者を都合良く解釈する装置であり、他者と真に隔たっているという事を表現する形式ではないのだろうという事を良く感じる。しかしこれには恐らく僕の偏見が含まれており、現実でも共同体が成立するとその内部では一つのドラマが演じられるのだろう。そこでは物語でそうある様に他者が仮構され、物語は全体としてその模倣の対象として機能しているのかも知れない。物語という形式自体が、理解不能な他者が適度に都合の良い他者へと変換されるマジックが現実に起こり得る事から生まれた筈であり、物語とは人と人との出会いを前提として創作されるものである。だから現実に成立する二人以上の共同体のフィクション性は、物語作品で見られる他者のフィクション性と構造的に一致している筈である。物語世界内での意思疎通の齟齬や軋轢は、現実の(共同体の異なる)他者との間で起こるそれと比較すると、隔たりの質が異なる様に思う。齟齬や軋轢の起きている次元が違って感じられる。

 物語作品の鑑賞に於いては、気兼ねなくキャラクターに感情移入する事が出来るが、それは物語世界が作者に創られた世界だからであると思う。作者の現実認識に共感するかどうかは別の話として(少なくとも鑑賞中は)切り離して置く事が出来る。現実ではこの二つの地平が重なり合っていて、感情を行使して良いものか分からない。恐らく現実に於いては感情的な判断は保留されるべきなのだろうと思う事案が多い。こうした差異は優れたフィクション程の説得力を与える事が、現実では難しいからなどという理由で起こっているのではないと思う。現実で相手の感情に寄り添うためには、相手の世界観に寄り添う事がまず前提として必要なのだ。恐らく物語はその重なりを切断してくれる。まずキャラに感情移入して、その後に作者の思想について批評するという具合に。共感にはこの順序が必要なので、初めからキャラを作者の観念に役付けられた存在として見ては共感は発生しないだろう。

 恐らく現実で感情移入を滞りなく発生させる為にその都度作られるフィクション性がある。異なる人物が一つの世界観に焦点を合わせなければ感情移入を成立させる事は出来ない。その目的は何らかのカタルシスの欲望に向けられる事もある。感情移入というのは物語的に現実を見るという事を前提にするのだが、ここには世界観の押し付けという暴力がある様に思われる。たとえばスカイクロラで草薙が、墜落した仲間の死に対して可哀想と涙を流した一般市民に「同情なんかするな!」と叫ぶシーンがあるが、そこで表現されている問題だ。スカイクロラの世界に於いて、一般市民にとってキルドレ達の戦争は一つのフィクションである。フィクションは他者の内面を自己中心的に解釈する装置であり、本当に起こっている事をありありと認識するのを妨げる。しかしフィクションを現実に重ね合わせなければ、他者に向けて感情の表現する事は凡そ不可能となるだろう。

  良く目にする言説に「他者と出会え」というものがあるが、その実質的な意味は、物語的に他者を解釈する事で自己を規定し直せ、という事でしかないのだ。それはある種マターナルな幻想や虚構と対(現実を見ろ)という意味だけでなく、むしろ全く逆の、他者が同じ人間であるとさえ思えない世界と対(幻想を仮構しろ)でもある筈なのだという実感がある。幻想が破れてる人間に向かって幻想に没入してる人間が、フィクションを捨てろという逆のアプローチを取る悲劇が起きている様に思える。「他者と出会っていない」と一般に表現される関係には実際、他者がいない(内輪ノリ)と、他者しかいない(例外者)という両極があり、「他者と出会え」というのは、その点で「適度に都合が良く、適度に都合が悪い他者の間を揺れろ」程度の意味でしかない。それは他者と決して同一化する事が出来ない現実と、フィクションを仮構する事で意思疎通が可能となる事の間で成立する関係性のバランスの問題である。余りにも内輪で安寧とし過ぎるのも、余りにも誰とも交流しないも何かしら心身に不具合を齎す、と思う。一般論から言って、健全なバランスというのは経験的に言って確かにある様だ。しかし「他者と出会え」(それから「現実に帰れ」とか)などと言うと、何か実在の様なものに接触する事が可能であるかの様に聞こえがちだが、そんな事は原理的にあり得ない。フィクションは世界の至る所に浸透しており、「よりリアルな」世界の実在など(体感としてどう思うかは個人の問題だが)そもそも考える事すら出来ないのだ。

機能とか説得とか

 傷付いた人に対して合理的に、物質的な手当てをするだけで良いのに、人間はそうなってはいない。物質的な手当てとは勿論、傷口を塞ぎ生存率を高める為の行為なのだが、その場合の合理性とは生存を目的として逆算された合理性である。それとは別に傷口を塞ぐ行為が痛みを止める為の行為でもあると仮定すると、痛みの言語ゲームと内面の言語ゲーム(例えば慰めてあげる事など)の価値は並列である事が分かる。問われるのは合理性という言葉の意味の方になる。そして勿論、生存さえ目的ではなくなると(全くもって生存欲求というのは普遍でも自明でもないのだから)合理性の観念は失墜する。我々は合理性の言語ゲームを行なっていただけだ。「人には内面もあるのだ」と訴える場合、それは何を意味しているのか。人間に内面が実在する事を示しているのではない。内面の言語ゲームの機能を指し示しているのだ。我々の振る舞いには機能だけがあるのだが、一体何の為の機能なのか?何かを機能と呼ぶ為には必要な条件があり、実は僕はもう答えを出しているのだが、単純に感情(欲望)である。言語ゲームは価値の一切を創造しない。価値が創造的なものである事を指摘するだけである。(最低でも生命くらいは愛していたいものだ。)どうやら人間の生活には価値の創造が必要なのだ。ところでウィトゲンシュタインは個別の倫理観に対しては決して俯瞰的な判断を行わない。彼が俯瞰するのは倫理一般であり、だから彼は宗教的人間である。彼の哲学から彼の人間性は読み取れない。

 他者との共感が不可能だとして、他人の意識は言語ゲームであり、それを仮構する意義は機能としてのみ存在するとしたら、僕は目的を(その実在を問うているのではなく)どこに置けば良いのか。超越論的な限界に線引きをした後であっても、我々が現実を把握する構造が変わる事は勿論ないので、生活を素直に戯れている人々の中に、今度は意図的に入っていかなければならない。しかし意図的である事がそうでない事よりも優位であるなどという話には全然ならない。全然ならないという事を学んだのだ。何だか人間がよそよそしく視界に映る。しかし忘れてはいけないのだが、昔だってそうだったのだ。

 意識的である事もまた一つの可能なゲームであるに過ぎない。やや居心地の悪いゲームであると感じてしまっている。僕は意識的である。「とても意識的」なのではなく、単に「僕的に意識的」なのである。こんな風にして意識的であろうがなかろうが、何もかもが相対的にどうでも良くなる。ここに来て僕の内部の奥の方から、生命という観念が湧出しているのを感じる。振り出しに戻ったのか?実際問題、僕は神秘主義を身に纏う事が必要であると感じている。ここでいう神秘というのは「普通の事」の新しい名前である。扱う言葉が変わったのだ。つまり振り出しには戻らない。振り出しなど始めからない。

 

 言葉とは何かに役立たせる(役立つという概念は僕には謎なのだが)ものではなく、創造行為であり、それ自体として目的である。スポーツや楽器の演奏がそれ自体として(観客に向けてではなく)目的であるのと同じ様に。言葉にゴールは存在しない。他者に何らかの変化を与えるという事は、何を意味するのか?説得する事は虚しい。僕は個人的に他者を説得しない。説得しない方が良いとさえ説得しない。言葉というのは放たれた瞬間、一個の完遂である。言葉は常に記述された内容以上のものなのだ。だから僕は批評的、研究者的な言語表現を不十分だと感じる。しかしこんな風に「だから」などと言う訳にはいかない。何故なら批評的、研究者的な文体でゲームをしている人間がいるだけだからだ。それと同じ理由で説得する事を否定する事も出来ない。(そもそも僕にそんな能力はないけれど…という話ではなく、文体の話だ。)文体の機能をそれぞれ比較してみる事は可能だが、その時点で有効性を比較するというゲームが行われてしまう。つまり他者の振る舞いに影響を与えるならば、全ては常に一個の完遂された表現(飛躍であり賭け)であるという事になる。我々は何かを表現する時、否応なくゲームに参加する。だから包括的な意味で、表現は他者を説得するのではなく、誘惑するダンスである。ここには形式と内容の結び付きに関するとても微妙な関係がある、と僕は思う。

シモーヌ・ヴェイユの悲劇と詩

シモーヌヴェイユの著作を読んで個人的に考えた事です。正統な解釈などではないです(ヴェイユに関してそんなものがあるとしたらですが)。

 

 ヴェイユにとって、詩、即ち美の発見には恥辱、悪による実存の引き裂きが必要である。美とは我々をうっとりさせるだけではなく、現実の不条理と命の恐ろしさを見せ付けるものでもあるのだ。古代ギリシャでは悲劇が最も美しい表現とされた。何故ならばそれが「本当の事」を語っている様に見えるからだ。悲劇は世界に不条理な苦しみがどうしようもなく存在してしまう事を伝え、それによって傷を負った人間を慰める事なく肯定するのだ。リスクの無い世界では、人は人格の何たるかを理解する事が出来なくなる。悲劇はそうした安住に亀裂を入れるのである。我々は信仰心や、愛する恋人や美味しい料理など、好ましいものが目の前にある時には、それを柱として価値観の中心とし、諸々の事物を関連付けて生活を意味付ける。好ましいものに囲まれている時、我々は自らの執着やエゴイズムに気付かない。悲劇が体験させるのはそうした意味関連の連鎖の破れである。ヴェイユが用いる「キリストの磔刑」の比喩に代表される「なぜ私が」という嘆きは、自らの所有物への執着やエゴイズムの自覚であり、それを消し去る為に必要な儀礼である。その瞬間、世界は剥き出しの無関心を持って致命的な牙を剥くだろう。しかし皮肉な事に、世界が思い通りにならないという不条理の現れこそが、世界の実在感を我々に伝える唯一の方法なのである。予定調和の世界に我々はリアリティを感じる事が出来ない。であるから、目を背けたくなる残酷な悲劇こそ、我々に真実を伝える表現である。しかし同時に真実は我々を焼き尽くす程に危険なものだ。

 取り返しの付かない悪が現実に存在する。もしそこに美が存在しないならば、悪を被った我々の心は耐えられず、他者に向けて攻撃性を発露させるか、それが無理と分かると自らの世界の表象の方を傷付けてしまうだろう(この場合、本来なら素晴らしい筈のものが自分を侮辱している様に感じられる様になる)。それでも持ち堪える事が出来なければ、気が狂うか、すっかり堕落してしまうかするだろう。しかし幸運にも、まったくもってそれは幸運なのだが、美はやって来る。我々は不幸を被った人間の生を真近に垣間見る時、虫ケラを見るようにして嘲笑う事などしない。また、可哀想だと思って同情するのとも違う。我々はそこに生の全的な輝きを認める。何故その様になっているのか決して分からないが、一切の起こり得る事を誤魔化さずに直視する時、極限的な苦難の最中、これ以上なく低い地点まで魂が落ちる時、神秘的な誘いの風に乗って美は立ち現れる。「なぜ私が」と問うその時、一切の賞賛や同情などの現実的な慰めはあってはならない。報いられる事のない悲劇。そしてそれを必然として受け入れるのだから、当然復讐など考えてはならない。すると運命に引き裂かれた実存の内部に、世界がただそこにあるという事実を受け入れる事の、新たな美が現れる。その為には、我々はただひたすらに自分自身の無力を噛み締め、恥辱の中で待つ事だけが必要なのである。

 僕はここで疑問を感じる。それはリスクの問題だ。こうした美の捉えた方は、人々を安逸の中に守るものである一般に考えられている善とは相入れない様に思われる。我々は普通、自らが思い抱いている安寧の日々を成り立たせるものを善と定義し、そこから逸脱する要素を悪と定義して切り離している。つまり普通、悪とは幻想を破るものである。しかしヴェイユが「悪が成されたという事によって善を愛する事」と語る様に、彼女にとって善とは悪の対となる概念ではなく、悪を包括する事で現れる上位の概念である。それは決して不幸の体験が役に立つから愛せなどという意味ではなく、不幸があるという事を愛せという要求なのだ。この様にしてヴェイユに於ける真善美の概念は、不幸の体験によって分かち難く結び付いているのだが、同時にここにヴェイユの過剰なまでの厳しさがある、と思う。不条理による苦しみが避けがたい必然であり、そこから逃れようとする事さえ禁じる事が、それらを感じる為に必要な条件である様なのだ。つまりここではゲーテが「涙と共にパンを齧った事がないものは…」と語る様な意味で(それを極限まで激しくした様な意味で)、悪に善が浸透するのだ。この様にして善悪の観念が解体されたとしたら、その後で我々は如何なる方角を向く事が出来るだろうか。

 ヴェイユにとって美の出現には一つの意図されざる不条理が必要である。不条理を被った人間の表現として、美が存在しているのだ。これは一見して矛盾である。悪は常に意図の外部から生じて来る不条理としてあるので、悪を自ら求める訳にはいかないからだ。もしユートピアを想定してみると、そこに美は存在しないだろう(恐らく真も善も存在しないだろう)。しかし美の感情がユートピアの人間の感情と比して、或いは多かれ少なかれ悪を被る事のない人生は可能であるが、そうした人生を歩む人間の感情と比して、優れているなどと言う事は出来ないのだ。そうした考えもまた一つのエゴイズムとして退けられる。つまりとにかくこの現実に不条理はあるのだから、「その限りに於いて」美を感じ取る事が出来る態度や能力に価値はあるのだと、そう考えなければならない。

 しかし不条理の中でこそ現れる美を信じる事が出来るならば、(ぱっと思い付くのがこの人しかいないのだが)岡本太郎の様に意図的に自らを苦境に落とす選択をし続ける事さえもあり得ない行為ではないのだ。しかし彼の行動を論証によって暴く事は出来ないだろう。平穏さの欺瞞に対する嫌悪によって引き裂かれ、不幸の他に居場所を失った彼の矛盾に満ちた実存を朧げに想像してみる事だけが可能である。彼に於いては自らの主体性こそが、まず何よりも「外部」からの不条理であったのだ。あるいは芸術家とはその様な人種なのかも知れないし、その様な人達にこそ美は相応しい様にも思えて来る。しかしいずれにしても現在の自己を許容するという絶対的な自己肯定によってのみ、美は可能となる。この世界には善も悪もなく、ただ必然があるのだと考える事によって。

 ヴェイユは飢えた人々にパンを施さずにはいられなかったが、それは彼女が施しを普遍的な観念としての善なる行為であると考えての事ではなかった。彼女は自らの内なる声に従って、そうせざるを得ないと判断したから、そうしただけである。それは極めて個人的な善性なのだ。しかし所有や執着の願望を離れ、自己と世界の関係を注視した結果、施しをしない訳にはいかないという確かな気持ちが芽生え、その行為が可能になるならば、それは一つの善であり、また一つの必然である。その様な純粋に内発的な行為には確かに美があるのだろう。一体そうした自然な感情以前に遡る、抽象的な論理などあるだろうか。一つの論理を採用する事さえも、その根拠は彼の主体性に還元される行為であると言うのに。そして自分が自分である事さえ、自ら意図した事ではない。全て起こり得る様に起こっているのであり、それらは全て究極的に許されている。行為を抽象から決定する事はどうしても出来ない。言葉は単なる道具でしかないのだから。

 ヴェイユは我々がどれ程の不条理に晒されようとも、自らの不幸を凝視するならば、一人一人の心に何らか神秘的な仕方で良き変化が起きる事を「信じて」いるのであり、我々に指標を与えこそすれども、個人の生と行動を方向付ける内なるエネルギーを、論証によって定義付けようなどと意図してはいないのだ。ヴェイユの言葉は他の全ての価値の創造行為と同じく、一つの飛躍であり賭けである。その意味でヴェイユは哲学者である以上に詩人であるのだと僕は思う。(僕は全ての表現は詩であると思っている人間だけれど。)

 

 こっちもどうぞ。

http://bussitsu.hatenadiary.jp/entry/2017/04/04/211810

意思疎通

 僕は自分の思考や感情を少なくとも理解可能な言語によって順序立てて説明しようと思っている。しかし他者に於いてそれがどの様に受容され、どの様な考え方に落ち着くかは、僕の知る所ではない。異なる人間の意識との間に同一性を求める事は諦めるしかないのだと思う。結局の所、ある一人の人間の思考や感情は、生まれてから現在までに於ける凡ゆる経験が混じり合うように関係し無意識レベルで構築されているのであり、他者に説明する時のように論理的な整合性を持った姿で形成されているのではない。我々は結果的に何故だかその様になっている思想を、人間の理解力に即しているという意味で論理的な、それなりに単純な形式に乗せて事後的に説明する。その説明はどこまで行っても十全と言う事は出来ない。しかし気が付くと我々は順序を逆転させて、意識によって把捉し、言語によって仮構した世界が現実に即しているのだと錯覚してしまう。それは人間にとって都合の良い解釈でしかなく、現実の正確なコピーではない。しかし人間にとってはその様に形式化された表現によってしか物事を理解し、また他者に向けて表現する手立てはないのだ。だから個人の思考や感情を、その成り立ちや動機まで含めて正確に伝えようとするのは不可能である。こちらが「もっともらしく」口にした説明が、他者に正しく(つまりこちらが意図した様に)伝わったかどうかを確認する手立てはない。他者には他者の中で経験によって築き上げられた思考や感情があるのであり、そこにどの様に新しい情報が組み込まれ、彼ないし彼女がそれをどの様に役立てるかは、表現者のコントロールの埒外だ。だから純粋な内面の一致というのは、それを正確に表現する時点で躓き、次に表現された情報が他者に伝達される事が極めて困難であり、さらに伝わったという事を確かめる術がないという点で不可能なのだ。我々はどこまでも個人として存在しているのであり、他者との心的な合一はコミュニケーションの目的にはなり得ない。仮にそんな事が出来てしまったら、もうその相手は他者ではなく自分自身と変わらないのだ。こうした原理的な不可能性による諦念は、自意識を表現し、それを理解させようとする事に拘る事の虚しさの理由なのではないだろうか、と思う。他人の内面なんて、知った事じゃないのだから。他者は無限に不可知のままで他者であり、内面性の記述によってその隔たりに橋を掛ける事は出来そうもない。自意識による他者への接近は試みる程にむしろ隔たりが露わになるのみだ。コミュニケーションの目的を内面性の伝達に据えるのは適切ではなく、それは子供が遊戯を通して、お互いを理解する事なく理解する様な交流、一つの戯れとして捉えられるべきなのかも知れない、と思う。

共同体の所作

 特売セールスや福袋などに絶叫しならがら集る人々とか、アイドルのライブでみんなで手を挙げてリズムに合わせてジャンプするノリ(正式になんて言うのか知らない)などを、新興宗教と並列で見せる様な演出を映画などで時々見る事があるのだが、以前の僕にはこの感性への強い共感があった。集団心理というものを全体的にどうしようもなく気持ち悪いと思っていたからだ。最近になってさらにハッキリと、近代大衆文化の諸現象を、新興宗教の奇妙や所作を見る時と同じ位に、心理的に離れた距離から観測している自分を発見した。しかしもう僕はそこに何らグロテスクさを感じはしなかった。自分がそこに参加するのは無理だろうなという気持ちは変わる事なくある。しかし何かしら巨大なスケールからそれらを眺めてしまえば、様々な共同体と振る舞いは、時と場所によって偶然的に発生し、近代文明が宗教的な物語の枠組みとして語る事が出来る現象なのだという視点は、批判的な眼差しとして必要とはいえ、そこに感覚的な気味の悪さを認めるかどうかは個人の感性の問題でしかない。自己の外部の文化圏の風習が奇怪に思われるのは余りにも当然だ。だからやっぱり、僕は自分と親和性の低い共同体の所作を気持ち悪いと感じてはいるのだが、それが単に認識の構造上の問題として気持ち悪いと感じてしまうだけである事を僕は知っている。他者から見て気持ち悪くない所作など、どこにも存在しないという事を知っている。気持ち悪さは多様性の中に還元され、当たり前の事になってしまい、わざわざ言及する価値がなくなった。そうと知りつつも僕が特定の文化圏に所属し、そこに愛着を持つのは、それが人間の生活にとって必要な事だからに過ぎない。早い話が全ての共同体は宗教的なフィクションによって成り立つので、宗教自体はグロテスクではない。或いは全てはグロテスクなのだが、他者の眼差しから逃れ出る様なより合理的な世界観などはないのだ。分析に嫌悪感を混入してしまうのは、十分に対象から遠ざかる事が出来ていないからだと思う。僕はそこに何かしら歪んだ自意識の様なものを感じる。共同体の規模や強度がどれ程のものであれ、それが内輪ノリ的な認識である事には変わりなく、どの様な論理を持ち出してもそこから逃れる事は出来ない。こんな感じに主観的世界の限界を認める事には少しも面白みがない。様々な愛着と偏見を切り離して無力化してしまう世界観を表す事もまた主観的な拘りを記述しているだけなのであり、実感としてこんな風に感じるのは僕が世界に馴染む事が出来ていないからなのだろうな、という風にも思える。既に認識は主体に折り返されている。僕は他者の価値を否定する事に虚しさを感じているのだ。僕は言葉の機能を説得というよりも誘惑として捉えているのだが、その辺についてはまたいつか。

疑う事

「あなた達は思い込みで現実を決め付けている」なんていう台詞を丸でキャッチフレーズみたいに使う輩がいる。しかし全ては思い込みなのだから、我々はどちらがより機能するかという水準で決定するしかないのではないか。そもそもそれはプラグマティックな主張をする為の言説にはなり得ない。俯瞰する事は人間の認識の原理的な拘束から抜け出る事では無い。それを言う事に「お前の考えは間違ってる」以上の意味がないなら口を慎んで貰いたいと切に願う。「思い込みかどうか」とかいう超越論なんて実質的に無用なのである。この世界に於いては「この考えか、あっちの考え、どっちが有用か」だけなのだ。具体的な提案を出来ないなら黙っているしかない。超越論については一人で勝手に考え、一人で勝手に納得して欲しい。さも客観的実在なるものが存在するかの様に思い込み、あろう事かそれを所有していると考える傲岸無知を晒して、他者を混乱させるのは辞めて欲しい。客観的実在など無い。

 こと教育に於いて、別の考え方やもう一つの物の見方を指し示し信じさせる事もせず「疑う」もなにもないだろうと思う。繰り返し言うが、客観的な考え方などなく、有用な別の考え方しかない。考え方には機能があるだけであって、自分自身も物語の内部に安らいでいる事を都合良く忘れ、他者に向かって「疑え」と命じるのは犯罪行為だと思う。もう一つの考え方があるのならば、それが現実世界に対応する為に有効なリアクションである様なもう一つの物の見方があるのならば、それを指し示し、信じさせれば良いのだ。こういう考え方がある、こういう事実もある、と「新しく信じさせれば」良いのだ。懐疑の果てにあるのは錯乱であって、客観的実在なるものでは断じて無い。疑う事からは何一つ始まらない。疑うというのは実質的には手持ちの「信じている思考法」の中から適宜選択を行うという意味でしかない。それは殆ど「注意する」という意味でしかないのだ。知らないものは知らない。疑いようがない。疑っても猜疑心が募るだけだ。信じさせる力が無い人間に、人に何かを教える権利などない。信じる前に疑う事は出来ない。知識を獲得する前に知識を否定する事は出来ない。「疑え」なんて命令文は、言葉の誤用でしかない。何かを信じる以外に選択肢が無いというのが、世界が人間を縛る、最も強くて太い鎖なのだという事を意識していなければならない。

 ちょっとした義憤でした。

愚者

 愚者は愚者の言う事にしか耳を貸さないし、愚者の言葉に共感し賛成する。その事に不満を言う訳にはいかない。人々は正しさを求めているのではなく、快い生活を求めているだけかも知れないのであり、基本的にその態度は否定されない。愚者が愚者の共感を求めるならばそれで良い。彼は社会性を獲得するためのエチケットを持っているのであって、それを批判する事は、正しいことを言っている自分を見ろという醜さに直結しているので不毛だ。そもそも(如何に幼児的なルールであれ)適応されているルールが異なるのであって、その事に不条理を感じるのは視野狭窄だ。条理とは世界の混沌の中から反復、即ち類似性を発見する事によって個々人が独自に生み出したパターン認識に過ぎず、本質的には全てが不条理である事を知る必要がある。そして自らの認識を普遍化しようとする執着を捨てる必要がある。ルールの幼児性を俯瞰する事は、幼児的なゲームのプレイヤーよりも高次な認識を行なっているという事にはならない。部外者である事は偉くない。俯瞰したならば、その上で上手く立ち回るか、或いはルールの改変を施す様な(たとえば他者の心に響く様な)表現を生み出すかしなければならない。正論などの力技では土俵にすら上がれないのだ。もちろん自分が適応出来ないコミュニティに無理に参加する必要など微塵も無いし、他者の心を上手く捉える事(空気を作り出す能力など)は技術的な問題であり態度一つで変えられる話ではない。一つ言える事は、ある特定の集団に於ける振る舞いを軽蔑してはいけないという事だ。それは自らが課した価値基盤への執心だからだ。賢さや愚かしさがあるのでは無く、多様な人々と多様な生活が存在しているのだと思う事。正しさなどという価値の主張は、一つの階層性の持ち込み、即ちイデオロギーであり、それ自体として狭隘さを孕んでいる。何よりもまず生活があるのだ。