未詳まで

Es malt.

風車

 雑文。

 

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 他人には出来て自分には出来ない、或いは著しく困難であると僕が感じることと、少なくとも同量は、他人の馬鹿げた盲目さに僕は失望を覚えている。だからそれは資質の偏りでしかない。

 才能は、もしかしたら全く有用性を持つことなく消えてしまう不毛な才能かも知れない。だけど僕はそこに途方もないリソースを注ぐつもりだ。僕はそれなりに高度なことをしようとしている。

 例えば社会性はゲームが上手いか下手かといった程度の問題と同等であり、その評価は人格にさえ届きはしない。テトリスが下手だからと言って、自分はクズだと思う必要はない。それなのに人は勉強や社交や恋愛の話になると血相を変えてしまいがちだ。仕方ないだろう。誰もピカソを理解しなくて死ぬことはないが、身に付けなければ上手に生存出来ないこともある。だけど繰り返しそれは大した問題ではないのだと言い続けなければならない。(僕は社会適応出来てしまっているけれど。)

 諸能力から総合的な判断を下してはいけない。この世には数知れないほどの領域があるのだ。いつもゼロから操作方法を覚えればいい。才能はないかも知れないが。大切なのはいつも真剣になることであり、にも関わらず、それが上手く出来ないということで何一つとして卑屈になる必要はないということだ。この一見矛盾した性格を乗りこなすこと。

 内発性がなければ他人に隷属することしか出来ない。それは端的に面白くない。退屈になると自殺したくなる。

 

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 概念はリアルではなく、概念化は生きた対象に死を与える行為であるのかも知れない。しかし概念は円環する知覚プロセスの一つの終局的な段階に過ぎず、それなしでは、この世はまさに地獄そのものと化してしまうだろう。世界全てが一挙に砕け散ることなど断じてない。我々の中に概念は残り続けることだろう。概念はこの世界を虚偽で満たしているのではなく、世界に形を与える作用として実在しているであり、それ自体として善悪や真偽とは関わりを持たない。というのも、世界はただ得体の知れない他者、膿んだ傷痕、不気味な怪物だけで構成されているのではないし、それらにリアリティを求めることもまた二元論から離れられないならば不毛なのだ。ある概念はいずれ打ち捨てられ鉄屑になるもよい。不安、切断の悲しみ、意味の不毛さに苛まれる時には、まさに鉄屑こそが新たなる与件となって、再び概念ならざるものが動き出すだろう。そして和解が生じ、退屈な日々が訪れる時が来るだろう。生活が安定した充足で彩られる時、表象が意味に繋がれて、対話可能な存在であることを示す確固とした顔と感情を伴い、まるで杭で打ち付けられたチラシの様な明るさをもって語りかける時が来るだろう。その余りにも有触れた空間が、しかし奇跡のような凡庸さであって欲しいと願う者のビジョンがあり、その輝かしくも穏やかな色彩は、またもや概念の名で呼ばれていることだろう。喪失に終わりはなく、名前を付ける行為が終わることも決してないだろう。

 

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 自分が間違っているかも知れないと疑い続けることは非常に消耗する。自己への疑いは確かに理性的な振る舞いではあるのだが、同時に迷信じみた世界にまで足を踏み入れることでもある。

 複数の立場を想像することによる葛藤とは別に、自己不信というものがある。自分の思考によって問題のある点を把握出来るが、しかしそれが自分の思考の枠組みでしかないことをメタ認知しているということ。人間は自らの思考の枠組みの外側を覗くことが出来ない。ただ外側が存在するということを、当然、経験によって知っているだけだ。このことを意識していることは、実際的な知の有効性とは何の関係もない。それは不安を呼び、人を慎ましくする。

 権力の獲得と共に内省が失われていくのは肯ける。本来コミュニケーションにおいて人間は誰しも平等である。もし一切の集団性を当てにせず、互いに異なる己の体系の正当性を主張するとなれば、どのように自分こそが正しいのだと証明することが出来るだろう。仮に一方に正当性を与えられるとすれば、それこそがまさに何らかの権力が作動したことを示している。


 たとえ悪を為すことになろうが、ただ一つの信念に従って行動する者が英雄となる。もっとも、ドン・キホーテになる危険は冒さなければならない。

 自我という問題に突き当たった人間が英雄性を取り戻すために戦後になって「賭け」という概念が取り沙汰される必要があったのだとも考えられる。

 そして、こうした逡巡の全てを承知した上で、なお何も考えていない者の純真さで決断しているかの様に振る舞わなければならないのだ、と感じている。

 

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 あたかもフォーマルな身振りが解除されるように現れる、先天的で自然な振る舞いであるかのコミュニケーションの作法は、その実、ある特異な関係によって形成された超自然的な構成物だ。

 肩の力を抜き、鎧を脱ぎ捨てるかのような印象を与える親密圏への移行は、より古く、より暖かく感じられる世界を切り拓く点で、芸術的創造に等しい。確かに我々はそこに「帰っていく」ように感じられる。だが帰郷とは常に逆説を孕むのだ。それは創発されると同時に、既に昔からそこにあったことになるのである。

 異質なものとの遭遇がなければ、世界に如何なる親密さも生じ得なかっただろう。それなのに我々は、一度それを認めるや否や、恐怖も知らず、苦労もせずに、それを知ることが出来た筈なのだと感じている。始原に向けた創発というこの矛盾を、我々は回復として受容するのだ。

 

砕け散った、青色の

あちらからはどんな意味の断片さえ

持ち帰ることは出来ないという

呼び声に応じることはなく

そして轟音が去り、雨音が戻ってくる

言葉を使って呼吸をする

それは偶然だと

分かってくれるだろう

導かれることはない

たとえ見覚えがあるにしても、この景色

真っ逆さまだ僕らは

大きな手のひらが底にあると

子供みたいに信じている

さらにこれからも

分かたれたまま

輝き渡る球面で

少しずつ影を薄くしていく家々の

音もなく飛び立つ鳥の

青空

どんな退嬰が許されているのか

眩いばかりだ

透き通っていけたらいい

いつも地に撒かれたガラス片だった

彼らは反映となって

 

線描

塞ぎ込まれたものを、暴力の核心を、変質されたイメージによって晒し首にすること。

それは凡ゆる文化の形成に関わってきた技能らしい。芸術は不気味なものとして生まれる。

それは平和の役に立つ?人々が涙を流す?それとも熱狂する?

色彩とリズムは断末魔を上げて、砕け散った。

内臓の迷路へ、自らを降霊する。

北極星に向かって、ひとり地平線を渡る。

危機を乗り越えるために?世界が狂っているから?神様は人間の叫びなんて聞こうとしないから?

自分自身もまた狂った世界の一部である。それどころか、狂気そのものなのだ。

僕が知っていることの総体、それは単なる知識を超えて、あたかも僕が食物を探して彷徨った道筋の、捩くれた足跡のようであって欲しいものだ。

恐らく永遠に、渦を巻く淀みの塊だ。僕としても果てしなく、そこに何らかの形を見出し続けるだろう。

かたち、それは一つの結末なのか?それとも再び一つの暗示なのか?

いつも同じ考えに至る。僕は孤立して、惨めに死んでいくだけじゃないのか?

根こそぎにされた土地を漂う、細く白い糸がある。それはもっとも深い溝にまで届き、もっとも弱くしか感じ取れないから、もっとも強い光なのだと分かるという。

 

赤と黄色

 比較的古いものではないけれど、過去に書いた文章。具象的に、毒性を高めて書こうと意図していたとは思う。露悪的な直接性と、言葉を目に見えるものに向けていこうとする不慣れな試みと。

 

***

 

 色々あったけど……みたいな語り口が健康の指標なのかも知れない、なんてことを思う。僕には何があったのかさっぱり分からなくなっている。そういう記憶や言語の機能が上手く働いてないから、実質として何もなかったに等しい荒廃した風景だけが見えている。

 

 たぶん健康に見える思考回路とか、爽やかに見える性格とか、適応的で、人の気持ちが分かるような表情で、世界を恐ろしい場所とは考えない自信とかは、経験値じゃなくて資質なのだ。彼らと接しているうちに、彼らがゲロを吐くような気分と常に闘いながら平気な面をしている訳ではないことが分かってしまうと苦渋だった。出来れば全員ゲロを吐いていて欲しいといつも願っていた。僕が持ってる感情を彼らの方でも持ってなくて、悪人は一人もいなくて、数の勝利で終わっていた。俯瞰してみると、色んなことを思ったりしてる人間ってみんな可愛い、みたいな気持ちがあって、こっちはこっちで終わっていた。

 

 何割くらいの人間が僕がクソだと思う連中のことをクソだと思ってくれれば世の中は変わるのだろう。クソなやつをクソだと思うのは一人でやればいい筈なのに、結局は数が物を言うようになってしまうらしい。

 

 僕の皮膚が腐ってるのはどんな因果とも関係がなくて、純粋に天罰なのだ。全身が焼けるようだった。数の力で物事の価値が決まってしまうのも純粋な天罰なような気がしている。社会の不正は許せないけど、世界の不正なら許せる気がするから、ある人はずっと闘争をしているけど、ある人は宗教をしているのだった。真実なんてどこにもなくて、解釈次第なのだ。僕はそこで何も解釈せずに立ち止まっているから、何も思うことはない。

 

 これから先、さらにグループは細分化されて、相対化されて、気の合う奴だけで集まって、それまでのことは全部なかったことになって内輪ノリで終わっていくのだろう。原罪の観念が胸をよぎったけど、深く考えなかった。

 

 頭の中から人間たるものが消え失せてしまっていた。誰かと会話をしているのは僕ではなくて棒人間のように平板なキャラクターになってしまった。頑張って自分自身に形を作り変えようとすると、気味の悪いもごもごとしたスポンジ性のマネキンのようなものが出来上がった。相手が何かを言うと、マネキンの表面がぶちっと割れて中から赤と黄色のドロドロしたものが吹き出して地面に垂れた。相手は喋り続けていた。マネキンからもう一度人間になろうとすると、今度は目の前にいる相手が突然テレビ画面の映像になって、僕は灰色の地平線にただ一人で立ち竦んでいた。僕は誰とも向かい合うことが出来ず、誰にも声が届かなかった。相手は僕にではなく空気に向かって口を動かしていた。僕が人間の前に存在しようとすると、やはり気持ち悪いもごもごしたマネキンになって相手と向かい合っていた。

 

 人と話していたら粘土だった。ぐちゃぐちゃ動いてるのを眺めていたら、実は粘土なのは僕で、相手は人間だった。ぼーっとしていたから、そういう白昼夢だった。皮膚病でアレルギーで怠かったし、面倒臭いし頭が回らなかったから全部が嘘だった。どこかで台詞を間違えたらしく後でお前は失礼だと指摘された。何を間違えたのか理解できかったし、何もかもを間違えているのだろうと決め付けて考えるのをやめた。

 

 感じなきゃいけない感情のフリをしようとしていたけど、病気で挙動が変だから失敗していた。演技力がなかったから人間的な生活は終わっていて、演技するのは諦めてしまった。花粉症で怠かった。鼻水が酷かった。床まで垂れるような鼻炎が常態で、常に眠かった。目に見えて病気だから、こいつはさぞ下らない人生を送ってきた人間なのだろうということを隠すことも出来なくて、精神汚染されたアスカ・ラングレーみたいに頽廃していた。体が生きることを拒否していた。対人用の仮面が壊れているので、精神の底の底まで人に見透かされてる気がして、統合が失調気味だった。

 

 みんながそんなに苦労しているのならば、ここまで言語が衰弱している筈がないと思う。だからそれは恐怖ではないし、苦痛ではないのだろうと思う。恐怖や苦痛が引き算された苦労というものもあるのだ。そんな「ただの苦労」なら、たかが知れている。言葉の綾を使って、見え透いた嘘で騙して慰めるのは汚いと思う。「ただの苦労」なんかを語って、共感ごっこをして、誤魔化すのはやめて欲しい。みんなが本当に苦痛に苛まれているならば、ここまで言語が衰弱してる筈がない。

 

 自殺したかったし、そうでなければ放火するとか、家具を叩き壊すとか、体内の死を放出する何事かをしなければならないのに、僕は我慢の天才だから黙って震えているだけだったので脳が壊死していた。「何があった?」という直近の原因だけを訪ねる知能の低い大人しか世界に存在しなくて終わっていた。

 

 テレビで老人が最近の若者は突然キレるから怖いだのなんだのほざいていた。僕としては、他者と文脈を共有出来ていると怒りを表出することが出来て、他者に文脈を歪められ続けるとキレるしかなくなるんだと思っていた。怒りは共同体に於けるコミュニケーションとして肯定的に評価すべき表現だけど、キレるのはそもそも社会との断絶が基底にあって、構造が違うから、最近であることも若者であることも関係がない。怒りは特定の対象に対して向けられるけれど、キレるのは脈絡がなく無差別的に見えるのは当然のことだ。怒ることが出来る人は順調に社会をやっていて、幸運だから場を支配する力を持っていて、「話せば分かる教」の信者としてカルト的に完結してることがあるから手に負えないと思った。

 

 本当に何でも話せる友達は滅多にいないとか、本当の居場所なんてないだとか、みんな愛想良くしてるだけだからとか、みんなそれなりに寂しいだとか、そんな話を聞かされて共感する雰囲気になっていて、俺も共感しなきゃいけなくて、ここが現場だと思った。寂しいだか辛いだか知らないけれど、断絶ではないから、何かとお喋りの種にはなるものだ。

 

 ギャグ漫画だと思おうとしたけどホラーだった。一日中頭が働かなくて同じ呪いの言葉をずっと脳内で繰り返していた。第一朝から夢が最悪だった。悪夢というよりも、脳の処理機能がバグってるのだとはっきりと分かるようなネバネバした体感覚的な夢で、金縛りと幽体離脱で目が覚めるシーンを何十回もループして肥溜めみたいに疲れた。

 

歪な部分は個性的だから、観念的にまとめ上げられていく認知の外に少しずつ追いやられていって、飢えた犬みたいに死にそうになっている。そうして顔はポスターみたいになっていく。

 

 それなりに読書などをしているのに僕は殺すとかそういう過剰な言葉を使うのが癖になっていて悲惨そのものだ。「健常者死ね」よりも力強い言葉を、未だに知らない。

 

 犯罪者の書いた本を読んだら、結構普通の不幸な人で、自意識の構造とかも普通だと思った。僕の精神が終わってるから出てきた感想なのだろうか。少なくとも犯罪者に関する便乗本を書いて儲けてる女の方が遥かにイカれていて最悪だった。

 

 ニュースで親が子供を殺していた。健常者っぽい女が、「そんなことは信じられない」だの「考えられない」だのコメントしていた。「考えられない」というのは自分自身の想像力の至らなさへの絶望であるべきなのに、自分が考えられないものは世界に存在してはいけないみたいなノリで、善意を涙ながらに訴えていて、気持ち悪かった。こいつが少数者側だったら、世界は「考えられないこと」だらけな訳だから、そのまま気が狂ってしまうんじゃないかと思った。恵まれてる奴が思考停止すると自由意志の力を過大評価するのはお決まりだった。

 

 人の感情が伝わってこなかったが、本物の虚無だから危機感はなかった。笑い方を忘れた。喋り方がおかしくなって、声が震えていた。言葉が喉に突っかかって出てこなかった。たぶん少し前に僕は自殺していて、今の僕は霊魂だけで彷徨っている。

 

俺は自殺はしないよ

  自分自身を振り返ると、漠然と高校時代が一番苛烈だったように度々思うので、謎だが供養も兼ねてその頃の文章を残しておこうと思う。全く文章を書く人間ではなかったので、さして面白みもない気紛れな断片しかないけれど。

 以下抜粋。

 

*****

 

 幸福にはゴミの価値しかないので、そんなものに煩わされるのは愚かな事だ。

 

 一度も自殺を考えた事のない人間の言葉は犬の喚き声の様なものだ。

 

 自分が苦しんでいる様子を伝えようとなんてしていないのだから、絵だけを見れば良い。人生をほじくり返す癖を持つな。

 

 蟻の行列を見て、一匹一匹の思考の差異について考えを巡らせる事が出来るだろうか。次に同じ目で人間を見ること。

 

 自殺に失敗した位で人間が変わる筈がない。

 

 本当の所では自分が凄い奴なのだと思っていなければ、何も出来ない。これはナルシシズムなんかではない。心の底から謙虚になった人はもう終わりなのだ。

 

 生物としての欲求と俺の欲求が繋がっているとしたら、本当は欲求を満たして仕舞えば、全てが済む話なのではないか。俺が人間だからなのだろうか。これは回り道なのだろうか。さめざめとして来る。

 

 苦痛に耐えるほど他人との距離が大きくなる。退屈になると死ぬよりも孤独になる。

 

 どうやっても人に好かれない星に生まれたとしか思えない。

 

 人を殺したい人間がいるとしたら。殺された側は大した問題じゃない。それは単なる運命として考えられる。だが殺す側に視点を当てると、これは一体何なのか。殺す人になりたくない。殺す人になるのは嫌だ。そう願う事は一体何を意味しているのか。

 

 人間の命は誰にでもある。素描は才能でも、命は誰にでも等しくある。だから本当は才能というものはない。

 

 私は歌が上手いと思いながら歌う人間。お前の歌はお前ではないのだ。お前の声はお前ではないのだ。お前は声を使ってお前を伝えたいのか。お前はお前を殺さなければならない。

 

 偽善者になる事は難しくないと思っているが、彼らが普段振り撒いている愛嬌に比べたら、半分も成功していないという事実に絶望している。

 

 人とある程度の時間、一緒にいると駄目になる。テレビの笑い声も、生活を感じさせる雑音も。全てをシャットアウトしている訳じゃないけれど、耐え難くなる。それが他の人にとっては何でもない事らしいと気付いてはいる。だから何を苦しんでいるのか理解して貰えそうにない。

 

 音楽というのは素晴らしいな。それに比べて絵というものはゴミだと思う。本当、ゴミだと思う。

 

 思考停止したら楽だというのは分かるが、一歩の距離を置いて振り返った時、それは思ったより怖いものだから。

 

 何故彼は自殺してしまい、もう一方は生きているのか。何をしたのか。何に生かされているのか。何を乗り越えたのか。何故、乗り越えられない人間もいるのか。何が降りかかったのか。何が降りかからなかったのか。何をしたから今生きているのか。

 

 どれだけ科学が進歩しても全ては神のお陰である事には変わらないだろう。その土台を退かす事は何者にも出来ないだろう。

 

 人間は最悪な時には、綺麗なものも、面白いものも、お洒落なものも、励ましも、美味しい料理も、何も目に映らない。目に映るのは糞だけだ。糞の中に煌めきを感じる。だけども、それは美では無い。汚れや傷や吐き気の様なものだ。それが初めて外界との繋がりになる。それが必要だ。

 

 赤ん坊が無垢だから、汚れていないから、無邪気だから、癒されるとか力を貰うなどと感じることは、褒められた態度なのだろうか。

 

 精神科医になりたいと思う。自分が自殺志願者になっている時、絵に価値なんて何も感じなのだから。心の底から絵に価値なんて何も見出せないから、誰も救えやしないだろう。

 

 欲しい物の事を考えるといつもどうしようもなくて、そうして欲しい物はなくなってしまった。欲しいという感情が分からない。何も見当たらないのだ。脳が完成してしまった。

 

 気分が良くても会う人はいない。気分が悪くても誰とも話さない。俺の気分は、俺自身に何の影響も与えない。俺の感情は、俺とは無関係な代物になっている。

 

 これを知らないと人生損しているよと押し付けて来る中学生の様に、友情や愛が押し付けられる。

 

 笑っている人間は病んでいる。笑っているのに病んでいないという事は有り得るのか。

 

 何も感じる必要はないのだという防御をする。孤独からの、苦痛からの、欲求からの逃避。現実を見ない為の防御だ。絶望したくないから期待はしないし、希望を持たない。それ自体が閉鎖的な絶望となって、価値や意味が消えてしまう。痛みを感じない為に心を空にし、人間を拒絶して、信用と信頼を潰してしまう。しかし苦しみは消えない。俺が一人で心を閉ざしているように見えても、そんな単純な話ではない。人を理解しようとする感情も、人に理解して欲しいと思う感情も既に抑圧されていて、何処かに見失った。人を理解しようとする術を失った。人の事を考えようとするが、何も考えられない。頭の中に誰もいないのだ。必死に苦悩すればもしかして、と希望を予感する時がある。押さえ込んだ苦痛の、途轍もない噴出と共に、希望はやって来るのだ。しかし希望が芽生えるとそれは簡単に殺意に取って変わる。本物の殺意なのだ。何も感じない状態を保っていなければ、殺してしまいそうになるのだ。完全に違う人間になってしまった。

 

 俺だって人と仲良くなりたいという幻想を抱く事はある。だが実際に特定の人間を目の前にすると、関わり合いを持とうとは絶対に思う事が出来ない。

 

 人と仲良くなりたくないけれど、人と仲良くなりたいと思う人になりたいので、人と話す努力をする。自然じゃない。面白くない。だんだんボロが目立って来る。「何が楽しいのか教えてくれ」と今笑いながら話している相手に問いただしたいのを我慢している。経験で分かるのだ。この人がいなくなったとしても悲しくも辛くもないという事が。それを確かめてみたくなる。今度こそ本当に悲しくならないのか。

 

 デッサンでコンクールを獲ってから、スランプの様なものが始まっている。県内一の予備校だから、極端に言えば日本で最も石膏が描ける高2の一人という訳だ。ストレスや不安の原因はただ絵が下手な所為なのだと思い込もうとしていたのが、暴露された気分なのだ。ここで辞める事なんて、今更出来ない。

 

 これから先、分からないという言葉だらけの文章になるだろう。本当に何も分からないのだ。

 

 何故みんな笑えるのだろう。理解出来ない。人と仲良くなりたいと思わない。人の笑顔が嫌だ。何が面白くて笑っているのだろう。

 

 良い事がない。それは正確な表現ではないのだ。良い事のイメージがないのだ。だからその言葉の意味が分からないのだ。親密さという感覚を思い出せない。楽しさや嬉しさを思い出せない。無感動で無気力で無欲だ。面倒だ。他の人もそうなのかも知れない。ただ俺よりも愛想笑いを身に付けるのが上手いだけなのかも知れない。もしそうだとしたらここは地獄だ。

 

 本を読んだが、記憶がない。喋り方を忘れた。音程が可笑しく、発音の強弱がない。声に抑揚がない。疑問文で語尾を上げる事を忘れる。自分の言ってる事が分からなくなる。何かを勘違いしているので絵を描いている。バランスが取れていない。賞状が三枚あるから余計に意味が分からなくなる。現実逃避を現実にしている。自分の絵を引き裂いて捨てる。水張りが何回も連続で皺になって、そのまま辞めて帰ってしまう。今まで一度も失敗した事なんてなかったのに。ああ、受験生になってしまう。人の笑顔が纏わり付くようだ。俺は自殺はしないよ。

 

 自殺未遂をする人間が一番苦しいとは思わない。気持ちは分かるけれど。しかし詳しく書く事はしない。幾ら書いても何の慰めにもならない。何も楽しくない。少しだけ人と話したりしている。暗い気持ちを伝染させる様にして人と話したりしている。俺と話をして何になるのだろう。人の顔と名前が一致しない。この人とはいつ出会ったんだ。一年も前だ。周りの人がみんな同じ顔に見える。事実ほとんど同じ顔だ。感心する程よく似ている顔だ。絵は何だったのか。絵を描きたいと思う人間になりたい。

 

 過去の自分が今と連続している気配が無い。人生の三分の一が空白に感じる。昨日まで小学生じゃなかったか。俺より救いのない人間が沢山いるのだ。でもそれも、どうでも良いという気分になる。

 

 自分自身の暗さや気持ち悪さを表現してそれを人に見せ付けて、一体何になるんだ。何故こんなに気色悪い絵になるんだ。ルノワールになりたい。幸せな人になって幸せな人に幸せを与えたい。幸せは卑怯だ。周囲の人達も幸せだから卑怯だ。正当な価値が生まれるから卑怯だ。そういう人が天国に相応しいのだ。そういう人には死後にだって悪い事はないのだ。幸せになりたい。

 

 殆ど何の記憶もないが、過ぎ去った時間がとてつもなく重い。

 

 他人に暗い自分を見せたくないから明るく振る舞うのは、虚偽ではないと思う。確固とした意志だと思う。こんなことで皮肉を言っても何にもならない。でもそれがどうしても出来ない。理屈の問題じゃない。

 

 友達がいないのは気持ち悪い人間なのだろう。気持ち悪くて不可解で哀れな人間なのだろう。俺は友達が欲しいと思った事はなかった様に思う。友達になりたいと思う人もいなかった気がする。出会いがなかったのだ。あるいは出会っていても、それと認識することが出来ないのだ。友達というものがあったら俺はどうなっていただろうと思う。よく話す相手との関係に名称を与えるなら友達の筈なのだと思っているだけなのだ。俺は自分の情動を認識していないから、友達は俺の中で、無関心の上に成り立つ自覚でしかないのだ。心の中では他人と変わらない。一歩も近寄ってはいない。近寄る事が出来ない。近寄ったとしても俺にはそれが識別できないので同じことなのだ。本当に友達がいた時もあった筈なのだが、今では何も分からないのだ。もし友達がいれば、それは俺の人生ではなく、誰か他の人間の人生という事になってしまうだろう。そういう人間として生きたい。この俺は別にいなくて構わないから。無価値で吐き気を催す、俗物の、汚らしい連中を、仲間として当たり前に見做す事が出来る感覚を持って生まれて来たならば、どれほど楽な人生だろうか。別に俺が他の人よりも俗物ではないように見える訳でもないし、実際にそんなことはないのだけど。俺が俺でなければ、人と関わる度に背徳心を感じる事もないのだろうと思う。そしてこの様な隔たりが生み出す孤独感は誰にも伝わりはしないのだ。

 

*****

 

 という訳で、惨憺たる吐瀉物なのだけど、教養がないので素朴さと気色悪さが強く出ていて、生々しくて痛いだけだ。今でも似た様なものかも。どう思いますか。

 わざわざ言語化して文章に残そうとする思考に関して傾向が偏っているだけで、存外気楽に生活をやっていた部分もある気がしないでもない。未熟な思考というのは硬直しがちなので、人間としてはもう少しふんわりした性質も備えていたはず。たぶん、若者なんだし……いや、これだって今の僕にも当てはまることだ。実際どうなんだろう。当然のことだけど、自分が思っているより悲惨な部分と、より良い部分は、混同して現実に含まれている。

 友人についての言及が多いのは、頻繁に到来する特殊な無感動を指し示そうとする為だ。当時は混乱していて単に実存的な問題として処理しようとしていたが、今考えると病的な状態の一歩手前まで来ていたのだと思う。もっとも、それは大学に入ってからピークに達するのだけど。

 絵を描いていた。実は僕は都内の某美大出身なのだ……。せっかく有名美大に入学したというのに、卒業間際になるまで殆ど何も描けない状態が続いていた。線や色を見ても丸で感受性が作動しないのだ。宗教や哲学に目を向けると、僕が陥っているのと類似した無感動を追求している先人がいるようだったので、もっぱらそちらの方面を掘り下げることに集中した。僕の脳は勉強には不慣れだから、これは途方もなく骨だった。そんな訳で、僕の画力は予備校生のレベルから殆ど進歩していない。一生絵を描くことはないだろうとまで思っていたが、最近またダラっと描き始めている。

 そろそろ自己開示した方が、文章を書くにしても気楽になりそうなので、そうしておいた。それと当時僕は重度の皮膚炎に苛まれていたことを添えておかなければならない。体調や外見について、彼は一言も言及していないのだ。多分そうしたことについて考えたり苦悩したりする発想さえ持っていなかったのだろう。彼にとっては意識が全てだったのだ。そんな記憶がある。

 

停泊地

 最近書いた雑文の適当な羅列。

 

 

 たとえば美しい景色を見る時、時々僕の魂はいなくなった友人と手をつないでいる。それは言うまでもなく本当の彼女ではないし、僕の思い出の中にある追憶の姿でさえない。生ぬるい倦怠や哀しみに僕を繋ぎとめようとするだけで、強く生きる力を与えてくれる訳ですらない。もはやそいつは死者や亡霊に属する存在へと成り果てている。だから彼女の面影と共に、生きることの否定へと僕の意志は流れて行ってしまうのだ。彼女がいなければこの世界は美しくないとでも、どこかで僕は思っているのだろうか。出会いや思い出の価値を貶すつもりはない。でもこういうのは違う。こういうのは良くない。

 別に感傷に浸っている訳ではなく、漠然と意識の流れが疎外されている感覚があるだけなのだ。結局、望みは象徴として具体的な人の姿を取って結実するのだろう。たとえば美術史を紐解けば分かる話で、人物の姿は感情移入するのに余りにも手っ取り早く強力なので、一度深く内面化されてしまえば、そこから切り離されることは生命そのものを否定するような、何か根本的な違和感を起こすのだ。もちろんその違和感は克服されなければならない。そうでなければ、生きることを放棄しているみたいじゃないか。

 

 

 むかし、「もう遊んであげない」という言葉で人を傷付けようとする子供がいた。その言葉が発せられるまで、おそらく両者の関係は真に対等で純粋だった。突如、煩わしく嫌らしい政治性というものが顔を出したのだ。僕は電撃を受けた様に硬直してしまった。そしてショックはすぐに次の疑問に変わった。「何故この人は自分の存在に人を傷付けるだけの力があると思い上がっているのか?僕と君はお互いに好きで付き合っているのではないのか?」 しかしそうした感情を適切に表現するには僕は幼過ぎた。だから僕の政治性への抵抗は、恐らく先天的な性格の助けもあって、自己効力感の否定という形を取ったのだと思う。僕は友達に向かってこう口にする。「僕は君にとって、いてもいなくてもいい。」 僕なんか必要な訳がないのだから。こんな風に安直な反対意見をぶつけること位しか出来ないのだった。言葉にした途端、全か無かという思考の窮屈さを感じた。本当はこんなことが言いたいのではないのに。こうした言葉は、余計に人を困惑させ、傷付けるだけだった。この態度は責任の放棄以外のなんでもないから、僕は実際に多くの子供以上に残虐なことを仕出かしていたと思う。そして政治性を自覚した言動が人を惹きつける力は凄まじく、自惚れや傲慢は脅威的な権力であると同時に、純粋な魅惑なのだった。時を経ても誰一人その力から逃れられはしない。

 バランスを取らなければならない。所詮バランスというものが多数者の声によって構築される都合の良い虚構だとしても。自分は価値のある存在なのだと言い聞かせなければならない。恐らく、きっと、本当はあってもなくても構わないのだろうけど。僕は君と無関係じゃない。僕は世界と無関係じゃない。僕は君を愛し、傷付ける。僕は人々の自由の前に立ちはだかる。僕は有用な人間だから、ここにいてもいい。他人の目。他人の目。吐き気がする。

 

 

 身体を包み込む空虚感が、僕が出会ったもの、僕が見てきたことの価値は、僕にとって本質的ではないのだとその都度証明してみせる。その時は本当に楽しいと思い、その時は本当に感動したもの、そうした全てを飲み込む暗点……それは深淵に開いた穴で、凡ゆる表象を吸い込み、一筋の光すらその中心へ届くことはない。というのも、僕は変化し続けるのだから、当然それに伴って僕が求めるものも変化するに違いなく、だから僕は腹を空かせるようにして、絶えず充実の鮮やかさを枯らし続けてしまうのだ。たぶん存在する者全てに課せられたこの貪欲……色彩を喰らう者、彼らは本源的に満足することを知らない。僕の責任に見えるものは、実は全て彼らに負っているのだ。表面的なものを幾ら引き裂こうと、この穴は「全て思うことの出来ること」を「見かけ」として再生する……ただこの空虚だけが永遠なのだ。それは停止とか変化とかいう概念を超えるものであり、だから永遠とは、ただ言語を絶していることだけを意味している。

 ただ言語を絶していること。本質はない。意識に到来するもの全てが青空を装飾する。

 創造の瞬間は一種の和解であるに違いない。インスピレーション以前、イメージ以前には、世界は敵であり、異質な物体として、立ちはだかっている。創造は愛であり、それは他なる者と手を繋ぐことに違いない。しかし我々は和解の可能性であると同時に、孤立への可能性でもあるのだ。何故ならば我々は動き続け、世界は静止していない……均衡は崩れ、離別は訪れる。これは世界観ではなく、平静が破られるあの瞬間、地盤の喪失を感知するたびごとに、確実に生じる経験なのだ。我々は世界と共にある。しかし同時に我々は、世界を手にしているのではなく、他なる者に委ねられ、突然ここに、異物として、意味も目的もなく、投げ出されている自己を自覚する存在でもある。一方は一方の中に可能性として含まれ、常にもう一方に向けて始まり続ける。終点はない。

 親しみの失せた世界。屹立し、罅も隙間もない白い壁。もはや誰も現れないだろう。誰もいないのだから。僕はしかし、期待することを知っている。未知への、すべての知られざる場所に向けての期待。既に終わっていることを理解しながらにして。あらかじめ感じてしまう失望を実際の失望以上に強く味わいながらにして。期待すること。全身は矢の様になる。やがて重力に屈して、後には力なく撓む弦だけが残される。

 

 

 時間が余っていても、不安に苛まれずとも、記憶がうず高く積もっているというだけで身体が重くなる。特に生きたという実感のない人生だから、あまり思い出すことなんてないのだけど(或いはむしろ、そのせいなのかも知れない)、思考は膨大な欠如と隙間を縫い合わせようと必死になる。

 何もなかった。それで子供のようでなければ日々を生きられない。幽霊のようでなければ古い土地にしがみ付いてしまう。

 

 

幼児の素朴さで「人を何故殺してはいけないか?」と問うているのではなく、人とゴキブリの差が感性的な次元で、もはや分からなくなる、最悪の、凍り付いた瞬間がある。

 宗教性とは心穏やかに獲得されるものではない。無意識に抱いてしまっている事物への愛着を暴力的にもぎ離す過程が必要なのだ。全く綺麗事ではない。剥き出しの、何の意味もない、ただの暴力である。その後で人間やゴキブリなどといった枠組みから外れた純粋な表象が現れる。或いは現れないかも知れない。それはただ詩であり、恩寵であるから、誰にも予期できない。

『恩寵を招くものもまた恩寵である。』(シモーヌ・ヴェイユ

 この言葉の意味するところは、暴力が神の恩恵であるということだ。無感動と麻痺への失墜。しかしそれが神の意志であるなどと信じることなく、完全に惨めになって落ちていく必要がある。宗教的共同体の歴史は失墜を人為的に為そうとする試みの結晶である。しかしそれが本当に純粋さへと届くことはない。あったとしても非常に稀である。何故なら共同体はその成員への世俗的な愛情を基底に持つものだから。偉大な聖人は宗教的共同体に名目上は属していながら、全実存を賭けて完全に社会から断ち切られて孤立していたのだ。そしてそれは自ら意図した孤立ではなく、外から与えられた使命として余儀なくされた断絶だったのだ。それは後から物語られるのとは異なり、実際には微塵の崇高さもない、単なる馬鹿げた事故の有様だったのだ。

 

 

 死ぬのは怖くない。分かり切った話だ。どうなるかは分からない。だけどどうなるか分かっている。この間に矛盾はない。今こうして生きているのと変わらず、僕は外部に晒されていくだけなのだ。知る事のできない何かが僕を浸していて、それは永遠に僕を、僕が僕でなくなっても、浸し続ける……僕をして僕を動かしている誰かがいる。そいつは感じ得るものさえ彼方から来て、また無へと帰っていく。だけど僕は「何かを感じる」ということが出来ているか自信がないんだ。それが問題なんだよ。馬鹿げたことがしたくても、何も思いつかない。抑鬱的な性質が骨の髄まで染み込んでいるからね。ちっとも愉快になれない。きっと、本当はどんなことだって楽しめるはずなんだ。誰でも思いつくような下らないことでも、それは最高だ、と言って笑いあえるはずなんだ。僕は最後まで笑えそうにない。結局何も楽しめないのかも知れない。自分は面白いことをやっているのだという惨めな自覚に、喜びを感じるフリをすることしか出来ないのかも知れない。それでも僕らはこんな冷たい感情だけを媒介にして知り合った訳じゃないはずだ。僕らの共通点は、何も感じられないということに対する意識だけではないはずだ。それが何なのかは分からない。或いはもうとっくに分かっていて、言葉にされないだけなんだろう。思うんだが、きっと全部が良くなった後でも……そうじゃなくて、始めから全部が良かったのだとしても、やっぱり僕らは出逢うことが出来たに違いないんだ。いつか、どこか遠く、未来で、或いはすぐそこで、明日か明後日かも知れないけれど、君はまた僕に声をかけるだろう。水溜りの波紋のようになって、柔らかく降り積もる影のようになって。別の存在となって。別の存在となって。そして僕は君の声、君の姿を認めるよりも早く、もう君を知っているのだ。君が君だということを、最初から知っているのだ。そのとき僕には分かるんだ、君が「それ」だということが。僕は信じる。怖いことなんてない。僕には確信があるんだ。

 

 

 三月に大学を卒業していました。まぁ、このブログに大学生だと書いた記憶はないけど……。体調が優れず、一年留年しましたが、今は問題なく働いています。

 

形式と内容

「怒鳴ったり哀願したりするのはよせ、言語的コミュニケーションをしろだって?しかし僕はまさに怒鳴り声のような非言語的な表現の意味しか理解できないのだから、君のいう《言語的コミュニケーション》の定義など、僕を前にしては機能しないのだということを君は知る必要があるね。僕のこの発言がまさに言語的だって?馬鹿言っちゃいけない。これは長く多様な発音を持った呻き声だよ。」

 

 

 

 怒鳴ることが感情的ないし暴力的だから許されるべきでないというならば、友好的態度による団結の感情的で暴力的な様をも非難するのがフェアというものだ。こんなのは折々の政治的妥当性に過ぎない。感情的になってはならないのではなく、ある環境で適切ではない振る舞いがあるだけだ。それならば、例えば「自分は市民社会のルールを内面化しているだけの人間です」と言えば良かろう。ある規範を内面化する際に常に付き纏う問題だが、内面化それ自体を自覚していないことは既に欺瞞の始まりである。そうした自己弁護の非誠実さを非難することが出来る人間は社会には存在しないのだから、この言い分の陳腐さを忌避する必要はないし、陳腐さに耐え忍ぶべきなのだ。むしろその程度の退屈な(ある共同体におけるルールの適応といった)問題に起因する感情の単純な表明を、その動機が陳腐であることを理由に嫌うことで生じる問題があるのだと言いたい。それは既に消え失せた正当性への誤った執着が生み出す問題である。政治的妥当性に過ぎないと言ったが、政治的であることには積極的な価値も存在するのだ。それは自分の行動が潜在的に他者を排除する能動的な選択であることに自覚的であるべしという規範である。

 断っておくが、頭脳の上辺だけを用いて思考する者が言うような「凡ゆる規範の消滅」などあり得ない。たとえ「規範の規範=神」が存在せずとも、ある規範の否定は直ちに別の規範を指し示すことであり、人間が規範そのものから逃れ出て行動することは不可能なのだ。では確たる正当性を与えることなく如何に行為するべきかを問題にしなくてはならないだろう。言うまでもなく僕は怒鳴る人間を擁護するつもりはない。(僕は感覚過敏だ…どうでもいいが。)僕はこの件について、何者も擁護しない。

 

 こんな風に前置きをしたが、僕は道徳についてではなく詩について語りたい。

 

 感情的になってはならないとか、身振りや語気は不純であり《言語的コミュニケーション》が通じない場合にのみ止むを得ず使用されるべきであるなどと言うならば、特定の性質だけを批判の対象として限定してはならない。形式と内容の区別はデカルト由来の肉体と精神の短絡的な二元論に値する。そうした二元論に於ける限界を、対立を極限まで推し進めることで検討してみれば良かろう。結論を言えば、肉体なき精神も、形式なき内容も共に(妄想の中でさえ)存在することは出来ない。ある身振りや語気を示し、それを否定するとき、透明な伝達の可能性を幻想してはならない。(例えばカミュが『異邦人』に用いた「白い文体」は、あくまで白であり無色ではない。)沈黙さえも例外ではない。黙っていることが意味作用を持たないとでも言うのか。ある表現の機能は他者に向けて賭けられている。その適切さは両者間でその都度形成される合意であり、それ以上の普遍性を含まない。

 ある場所では怒鳴ることは機能するが、ある場所では機械的な理屈が機能する。そしてまたある別の場所では暴力が機能するのだ。それらは等しく「言語的な意味において」機能するのである。道徳に普遍性が認められない以上、階層など存在しない。例えば「人間的/動物的」という区分は無効である。ある表現が動物的だと言って非難することはもはや出来ない。そうした振る舞いが「動物にも行い得る」ことを示しているだけなのだから。その様な尤もらしい二元論は形を変えて絶えず姿を現わす。しかし構造的な眼差しによる説明も、端的に政治の問題として感情を煽っているだけである。それは観念的な正しさを偽装しているので余計にタチが悪い。僕は感情を煽ることを否定しているのではない。それしかやりようがないことを意識した上で方法を選択すべきだと言いたいのだ。父なき時代とはこうした価値の乱立を意味する。だが価値そのものが消え去る訳ではない。

 中途半端な抽象は対立の構造的な欠陥を隠蔽するためだけに当の対立を持ち出す。形式の持つ威力を免れる可能性など誰にもあり得ず、沈黙や穏当を選ぶにしてもそれは権力の発露と無縁ではないどころの話ではない。多くの場合、人は政治的により機能する方を好んで選んでいるだけである。誰かの微笑みは、他の誰かの拳よりも強大な力を持つかも知れない。方法それ自体は単独で裁くことが出来ない。習慣的な印象に目を眩まされることなく、既に何かが排除され、何かしらの排他が完了された空間内でのみ中立を気取っている自己というものを反省しなければならない。

 何かを暴力的だと見做し、集団的に排除する動きもまた暴力的である。彼らによって糾弾される暴力性といえども、当の対象に固有の性質に由来しているのではない。それは指示されて始めて暴力となる。何故なら暴力とはそれを認識する者の心情的な堪え難さを意味するのだから。残念ながら「殺人の暴力性はそれ自体の性質に由来するのではないか?」という問いは無力である。確かに殺人は生の根元からして堪え難さを引き起こす、何か例外的な脅威を孕んでいるかも知れない。その特異性は十分に考慮されるべきだろう。しかし「そうあるべきだ」という叫びは、どこまでも叫びに過ぎない。特定の殺人が見過ごされ、次第に認可され、最後には賞賛されるまでに至ったある時代を思い浮かべることは、余りにも容易いのだから。無論、糾弾することは正しい。それは常に正しいのだ。正しさもまた暴力的である(それがたとえ自明であるかのような悪の糾弾であったとしても)ということを忘れさえしなければ。

 一般論はこうした価値の変容が、かつて闘争によってもたらされ、まさに今も闘争によって塗り替えられているという、その血生臭さを中和する。それは無責任な日和見主義者の自己正当化に過ぎない。その戦法は不徹底に表現を形式/内容へと二元化することで成り立っており、構造的な欠陥を抱えている。自分自身の名に於いて語ること。それは積極的な意志(=別の形式)の創造であり、そこには具体的な力の動きだけがあり、如何なる正しさの保障もない。意味内容は形式の効果なのだ。さて、僕の文章に僅かばかりの説得力が生じているとしたら、それは一体何によって生じているのだろう。