スクリーンの空

パロディ

芸術の話

 一定の情緒に凡ゆるモチーフが包まれ、首尾一貫した論理で正当化された世界には我慢ならない。まるで「私は妄想と現実の区別が付いておらず、その点について指摘すると癇癪を起こしますよ」と開き直って、自分で看板を背負っているようなものだ。

 ポール・セザンヌが感覚に対して行うことで達成した、剥き出しの対象とでも呼ぶべき造形を、僕は言葉が形態や形態同士の関係にもたらす安定作用に対して行いたいと考えているのである。しかしことはそんなに単純ではあるまい。

 単に形而上的な観点による意味の不在を自覚する程度では足りない。意味を破綻させる何らかの固有のトリガーが見出されなければならない。それは一見して個人的なものに由来するようなのだが、普遍的なものを貫くトリガーである筈だ。

 例えばそれは皮膚感覚であり、対象に触れようとすればするほど、逆説的に対象を失っていく様な、対象の連関が切り離される瞬間の感覚を解き明かさなければならない。

 


 或いは世界が糞であるという感覚のことだろうか。幻想を失った世界は凍り付いてしまった。世界は乾き切って、痙攣しながら死に絶えている。幻想の中にあって、世界はその動きに意味を与えることが出来る。運動にはリズムがあり、我々はそれを楽しんでいた。しかし今や我々は予期せぬ揺動に常に身構えていなければならない。

 幻想を否定した所で真実に触れることなど出来ない。真実は幻想を成り立たせる為の柱に過ぎなかった。柱そのものにいかなる人間的な意味もありはしない。それならば幻想が切り替わる様を俯瞰しつつ、幻想に身を投じることの開き直りを肯定するしかないのだろうか。そうだとすれば、新たなもう一つの幻想の創出以上に意義ある仕事はなくなってしまうだろう。また、一つの幻想が外的な力によって破壊されるまで、出来るだけ長くそこに留まろうという(それを幻想だと知りつつ行うが故にことさら見苦しさが際立つ)、保守的な態度の称賛にしか繋がらないだろう。ここからは、運動性を肯定する倫理が導き出せないのである。運動性の目的は同一性の獲得ではないのだ。

 確かに世界はたびたび、最悪の瞬間を開示する。しかしその最悪の開示は神々による露悪的振る舞いなどではなく、それ自体を深く肯定しなければならない性質のものでもある筈だ。従ってそれを醜いものとして認識することは、何か重要なことを取り逃がすこときなりはしないだろうか。

 恐らく、幻想の美しさなどは退屈なのだ。そして退屈であるということなど大したことではないと言って、通り過ぎることは出来ない。退屈という問題は究極的に、人間の生の根源に関わる問題なのだ。幻想に醒めた者が幻想に再び入っていくのは、今自らがその中にいる幻想性を、運動を肯定する為の痕跡として見做しているからである。

 

 

 我々は物を表面的にしか捉えることが出来ない。決して存在を定礎することが出来ない。我々は根拠も必然性も不可視のままで意味の系列を信じ込み、自分が言っている意味も分からない呪文を唱え続けている。物の表面は時に、形容し難い一種の落ち着きのなさとでもいうような奇妙な外観を見せる。しかし、それはそのままに肯定され、流れ、忘れ去られる。この忘却の絶え間ない流れこそが、我々の神であるだろう。存在を見出そうとする者にとって、流れが形作る波紋の襞は、急速に凝り固まり、出口なき迷宮となる。居心地の悪い表面、そこに何かしら纏まった意味を与えることが出来ない表面の前で、立ち竦む他にない。表面は常に、内破される予感に満ちている。これがこのまま静止したままである筈がないという、恐怖の予感だ。それは暗闇の奥深くから這い出ようとするものの恐怖ではない。白昼に照らし出されたものの恐怖である。しかし、常にこれではない何かに変貌しようとする身振りにも関わらず、この表面が意味するものは根源的に明らかにされない。それは表面であり続ける動く表面であり、法則を超えた地点なき地点から到来する表面なのだ。

 この落ち着きのない表面。それは我々の存在の底が抜けたということであり、我々が故郷喪失者となった証である。我々の自己と、自己を取り囲む世界との信頼関係の底が抜けたのである。

 ここに来て表象は、もはや一つの美観や一つの気分を写し取り、そこに安穏とすることが出来ない。また、世界に奥行きは失われたのであり、形の奥にある何事かを示そうとすることも出来ない。我々は新しい故郷を生み出すのではない。我々は目醒めたままでいる。我々の目眩は、表象が表面でしかないこと、そして表象が決して静止していないことに由来する。表象は、凶暴で、不安定である。だがそれは、凶暴さや不安定さの表象なのではない。それは表象それ自体の凶暴さであり、表象それ自体の不安定さなのである。表象の意味は我々から切り離されており、故に我々を侵襲しようとする。しかし我々はこの幻惑を凝視し、逃げ出すことはない。何故なら表面にこそ、全て深淵なるものの痕跡が刻まれているからだ。しかしまた、これは垂直性、すなわち聖性の放棄ではない。垂直性は、表象され得ぬものであり、表象されることによって虚偽へと陥るからだ。

 我々は見ているものを知ることが出来ない。故に手は、絶えずイメージを不安定化させながら産出する。それは呪術師の糾う組紐の様に、外界を造形的に悪魔祓いする。造形的悪魔祓いは、イメージの奥に統一的な意味や、隠された神秘を指し示すことによって成されるのではなく、終わりなく変容する表面の暴力的不気味さを、美的に肯定することによって、そのままに達成されるのである。偶然現れた表象に、それが常に動揺していると知りつつも、憩いを見出すこともあろうが、そこに定住しようとする心性は跳ね除けられなければならない。絶えずどこかへ行こうとする運動を肯定しなければならない。

 肯定されなければならないのは、この運動それ自体であり、してみれば、現れる表象は運動をその都度垣間見させる痕跡に過ぎない。運動それ自体は不可視であるのだが、運動は、それによって表象の意義を二次的なものに貶めるような、背後に存在する真理めいた何物かではない。運動は、表象それ自体の表面に刻まれた一種の効果であると言うことが出来る。

 

 

 音楽との出会いのように、人との出会いのように、法との出会いもまたある。

 

 

 細切れになれば細切れになるほど救いようもなく沸き立つ悪夢が、離れ離れになった君の手足の呪い師によって、組紐に象られる。背景=痕跡の集積する時空間の中から思考を浮かび上がらせよ。思考は線である。決断は、もし背景=痕跡を消し去るならば、指一歩動かすに至るまで、狂気の沙汰となるだろう。しかしそうなってはおらず、線は、回帰する者の差し出す発光する糸のようだ。恩寵は彼方から飛来するのではなく、君の立つ地面に刻み込まれ、君の呼吸する空気の中に瀰漫している。何事も君自身から始まりはせず、何事も彼方に立つ者が定めた秩序によって動くのでさえない。

 


 問題となるのは、狂っているのは自分か、それとも彼かという、不安と焦慮を生む弁証法的な対決ではなく、ある形が別の形の描写の可能性を呼び込む一種の造形思考である。恐らく外傷的経験は、この造形思考の欠如ないし抑圧によって、もはや不可能となった統一的な意味への回帰へと、思考を強制的に揺り戻そうとすることによって、抜け道を失っていく。

 

 

 人間にとって意味とは、その言語以上の速度によって、「顔」なのだ。

 変顔は、社会的な意味を担った表情を持たない「零度の顔」を、顔のパーツの過剰な動きによって逆説的に示すことで笑いを起こす。そこにあるのは単に顔の筋肉の運動であり、その運動が本来意味するはずの表情がかけており、そこに「無」が生じる。いわゆる「無表情」は、社会的な意味が刻み込まれているので、「無」を提示することにはならない。

 同様に、付置の絵画(ピカソのように絵画の構成要素を造形言語として自然的対象から分解して再構成する方法)は、表象の造形的な偶然性を明らかにし、表象と意味作用の関連が恣意的であることを暴く。その過剰性は瞬間的にではあるが、剥き出しの虚無を露呈させる。その虚無の耐え難さから身を引く時に、笑いが起こるに過ぎない。瞬間的な虚無は、別の存在の予感を与える隙を生じさせる。ここにフォルム=現実という開示が起こる。

 顔の消去の果て、意味の不在がそれ故に空虚と名付ける、掻き消された面影の果てに、歩みを向かわせる指標、それは太古の……底にある筈のもの、人ではないものへの信仰である。破壊は意思的に行われもするが、その果て……そこに向かわせるものは、人ではない。

 

賭けについてなど

 共同性が自明ではないということは、存在に有限な意味を与え、その意味の根拠が不安定であるということが(それを常に不安定であると考えることは出来るのだが)、乗り越えなければならない試練として立ちはだかってくる状況なのである。しかしその試練は決して乗り越えることが出来ない。意味を与えるのは共同性であり、意味の否定でさえも、共同性に基づくコードからの脱線を意味するに過ぎない。何かを語ることはそれ自体で共同性への信仰告白である。我々はそこに帰っていくことを強いられる。賭けは強要されている。我々は主体の華々しい決断によってではなく、諦めによって、賭けに戻っていく。意味それ自体を賭け事であると認識することは、ニヒリズムの最果てに生じるのだ。いかにそれが意味を欠いていたとしても、我々はどこか遠くへと飛躍するのではなく、我々が生まれてきた地点へと、帰郷するのだ。我々の語る言葉は、故郷の言葉でしか有り得ない。我々の言葉が通じる他者とは、同じ故郷を持つ存在者であるが故に、そこに飛躍などない。賭けとは彼自身の唯一の故郷へと帰り着くことであって、だからそれは決断ではなく諦めなのだ。故郷とは身体である。そこには別種の可能性がある。

 

 

 真理への挫折は、彼をオリジナルなきパロディの空間へと開く。そして金輪際この空間だけが存在する。つまるところ、彼は真理に対して挫折したのではなく、まさにそれ故に、世界に対して挫折することになるのだ。パロディの空間において、自明に共有可能な意味というものは、思考が許す限りにおいてまで細分化され、根底から懐疑に晒される。そして考え得る全ての表現は、共有可能性の保証の欠如によって水平に並列させられる。もはやある言葉が別の言葉に取って変わろうが、それが伝達されることによって人々の脳裡に再現されるであろう、想定されるべき現実などというものは等しく偶然である。賭けが始まるのだと言っても、蓋然性のない無限大に増殖する選択肢の中での賭けとは、一体何なのか?賭けを行うにあたって必要な、賭ける意志を駆動させる外的要因は消失しているとすれば?

 賭けることを可能にする何か、それは予め書き込まれているものでなければならない。人は予め書き込まれているものに対して賭けを行うのであり、自発的意志によって賭けるのではないのだ。パロディの空間において、人は何か自由な選択をすることがどのような結果を引き起こすか分からないような賭けを行うのではなく、それ以外に賭けようのない何かに賭けるということに賭けるのである。それに賭ける他にないものに賭けることを決断すること。それが彼の意識を存在の妙有へと開かせる。完全に決定されていることと、偶然に開かれたままであることの一致という恩寵。完全に決定されており、それに賭けざるを得ないにも関わらず、決してそれがオリジナルではあり得ないということの恩寵。真理への飛翔という試みからの帰還は完了する。

 

 

 流れだとか光だとか命だとか言って、安易なスピリチュアルな感動に寄りかかってはならない。彼らには崩壊の危機感覚が欠けている。日常的空間がひび割れる時に現れるものは、緊張を孕んだ物体の痙攣であり、紛れもなく不愉快なものであるだろう。馴染みのない世界との対峙によって出現する新たな空間、意味、隠喩は、我々を包み込むのではない……それらは予兆されるに止まる。

 

 

 昔行った悪いことを悪びれていないかの様に口にするのは、成人してから身に付けた公正な価値観と照らし合わせ、過ちを正面から反省することを避けている為に緩やかに続いている罪悪感や、薄々気付いている自らの無能力やみっともなさ、それら自堕落な性質が、現に招いている不満な境遇の数々といった、理想との不和を緩和する為の神経症的な行動であり、しかしその正当化は、無意識を説得する訳ではないので、強迫的に反復されることになるだろう。

 

 

 恐らくピカソは本当に物を壊すのが好きなのだ。人はそこに目を向けないけれど、芸術として昇華される以前の、幼稚で本源的で、恐らく社会的に許されない、単純に邪悪な衝動、そういうものが作品には隠されている。仮にそれが目に見えたとしても、目の前にあるのが芸術作品であるならば尚更、人は何かと小綺麗な説明を用いて隠蔽してしまう。

 目を背けずにいられないものは、そもそも目に映らない。とはいえ目を背けずに見られるものにまで作品として高められた「外部性」は多くの場合、人の意識から排除されてしまう。暴力性そのものが芸術に値するのではない。現実を更地に戻し、別のリズムを捕まえるためにそれは利用されるのだが、利用されたものは隠匿される。これは美術史的な鑑賞とは関係がない。

 

 

 思考が言語であり、言語をパズルの様に組み替えることが、世界の捉え方を実際に変えてしまうことのメタ認識。現実と言語の癒着を一度切り離していること。遊びであることが即ち真剣であり、その一致を楽しめること。

 

 

 現実の矛盾に耐えられない未熟な精神は垂直的関係に於ける、論理的に平等な断罪を望んでいる。子供が抱いている、大人への素朴な信頼のような。それは信仰に発展する。しかし宗教的な土台が欠けているからこそ、無宗教を気取っているからこそ、たかが世俗の論理に雁字搦めにされてしまうのだろう。日本人は立場的に上の人物を神だと思って信仰してしまいがちだ。過言ではない。実際に信仰における思考回路が発動しているのだから、上っ面の、いわゆる「宗教的イメージ」など本質的ではなかろう。

 ダブルバインドも学習性無力感も、垂直的な規範意識への信仰とセットで成立しているのではないか。何故矛盾が発生するのか。垂直的関係が実際は権力による偽装だからである。本来、そもそもが一人の人間の欲望を相手にしていたのである。そうであるならば欲望の分析が必要となる。さらに言表行為はその性質上、一般性や普遍性を装ってしまう(これは発言者自身にとっても悩みの種となり得るだろう)。もっとも、認識が構造的な分析に移った時点で、支配からの脱出は殆ど完了しているだろうが。

 権力の構造を暴くことは単に社会批判なのではない。傷を負った人生から立ち上がる為にも、自立する為にも必要な認識上の訓練の一つだ。

 

 

 マジョリティは無意識的な差別構造に身を浸して生きる。マイノリティは、意識的に差別を行うための胆力がいる。意識的に差別主義者になることの罪悪感に耐える力がいる。或いは罪悪感など感じずに差別するようになる必要がある。差別しない人間になる能力が必要なのではない。そんなことは出来るはずがない。そこを間違えたマイノリティは病む。

 

 

 合気道などの技は、その技を良く知っている相手には掛けやすい。これと同じで、同じ性質の人には話が通りやすい。自分の乗り越えてきた道の重みが伝わるかどうかも、性質の近さに影響する。極端な話をすれば、理性のない怪物にとって、人間的な価値や、尊厳の重みなど全く通用しない。怪物はお前のことをクズ以下の存在と見做す。性質の異なる他者も、程度の差はあれこの様なものだ。ところで、性質の異なる他者に対して、異なる技術体系を持った他者に対して、最も効果的な手を打てなければ、積み上げてきた技術など独りよがりであり、無意味だ。陳腐なことを言っている馬鹿だと思われるだけだ。相手の重心を見極めて、有効な技をかけなければならない。人間的な大きさを見せつけたり、権威に寄りかかったりするのは最終手段であり、あなたと信頼関係を結んだり、手懐けたりすることは出来ないと降参した合図だ。

 自分が優れているか劣っているかを棚上げして、技の次元において考える。あらゆる事柄を「技化」する。その対象についての好きや嫌いは、「技化」における快楽とは、あまり関係がない。車に全く興味がなくても、運転することは出来る。運転できてしまえば、なんとなく楽しかったりもする。

 

 

 果てのない旅には

 影のように儚いものしか

 連れて行くことが出来ない

 部屋にかかる闇……

 右半分が唐突に外にまで広がる黒

 そこから雲が入ってくる

 

暗がりで震えるもの

 暗がり、また暗がりだ。目覚めさせてくれ。僕を目覚めさせてくれ。ここから出してくれ。僕は深く沈み込んでしまった。黒く重たい泥濘に。光は途絶えた。一筋の光も通さない深みに沈み込んでしまった。浮上することは出来ない。どちらが上なのかも分からないのだ。いまだに僕は落ち続けているのだろうか。光も方向もない。僕は目を開けているのだろうか。暗闇が深過ぎて、それすら分からない。おそらく闇の中に浮かんでいるのだろう。だって僕の体にはどんな微かな流れも触れてこないのだから。風の音一つ聞こえない。僕は重力が失われる地の底まで落ちてしまい、宙に浮いたまま停止してしまったに違いない。ここにはどんな声もない。どんな兆しもない。押し潰されて、空気さえも息の根を止めたようだ。どんな印も現れることはない。感覚は失われた。四方全てが壁となって僕を押し潰そうとしている。そうだ、僕は押し潰されるだろう。だからといって何も変わらない、僕はずっと押し潰されてきたのだから。

 ここにはどんな声も光も届かない。僕は潰れて泥の一欠片となるだろう。だからといって、それが何だというのか。僕は最初から生きていない。僕などは泥の塊だったのだ。僕は生きたことなどなかった。そうだ、僕は生きたことなどなかった。それなのに、僕のこの形はなんだろう。この輪郭は、この言葉はなんだろう。僕は生きていなかったというのに。僕などは埃かすや、もっと微細な、存在と呼ぶにも値しない、粉塵の集まりに過ぎなかったのに。それなのにこの体、この感覚は、何によってこの体、この感覚なのだろうか。この思考は、何によってこの思考なのか。これらは僕のものではない、これらは僕に由来していない。僕がどんな仕事をすればこれらを生み出せるというのだろう。これらを組成する粒子の百分の一だって決して生み出せやしない。僕は何も生み出せないのだから。僕の体さえも、それどころか僕の思いさえも、僕を押し潰そうとする壁、断固として表情を読み取らせようとはしない、禍々しいほどに物質的なこの壁と同じもので作られているのだ。

 僕は生きていなかった。僕は生きたことなどなかった。かつて僕は自己というものを放棄したのだった。かつて僕は自由を打ち壊し、粉々にして辺りにばら撒いたのだった。僕は決して動くことはなく、他人に動かされていた。僕は何物も形成しなかった。僕は何事も選び得なかった。どんな力も僕の内側からは湧いてこなかった。僕に意志なんてなかった。僕は堕落していた。落ちぶれて堕落していた。現実に屈して立ち上がろうとしなかった。粘土のように捏ね上げられるに任せていた。僕は風に舞い上がるビニール片のように無力だった。吹き飛ばされて、吹き飛ばされ続けて、吹き溜まりで出口を失い、ひたすらに淀み、薄汚れて沈着していた。この無力は失意だった。この無力は絶望だった。

 僕にとってはもはや内部は存在しなかった。内部にあった筈のもの、それは思い違いだった。僕にとってはもはや全てが異物だった。全てが傷一つない白い壁で、そそり立って僕を見下ろしていた。こいつらを僕が所有していたなどと、どうして信じることが出来るだろう。そうして僕はもう存在しない筈だった。かつても存在せず、そして今も存在しない筈だった。存在するのはただこの壁、この余所者だけである筈だった。僕は埃のようにただ風に従ってどこかへ吹き飛ばされるがままでいる筈だった。僕にはどんな抵抗力もなく、どんな些細な意志の痕跡も消し去られ、何も感じず、何も考えず、ただ恐るべし客観性の海の中を漂っていれば良い筈だった。それなのに、暗闇は変わることなく暗闇であって、もはや何も感じず、どこにも進むことの出来ないこの僕は、結局は暗闇と向き合っており、そして窒息寸前なのだった。僕はもう選ぶ必要がなく、どこかへ向かおうとする気力を必要としない筈だった。そもそもそんなことは不可能なのだった。僕に出来ることは気まぐれな風がどこかから吹いてくるのを待つことだけだった。それなのに全ては止まったままであり、何の兆しも見えないままだった。僕は解体されていなかった。僕は自然の諸力と混じり合っておらず、諸力によって運動する物質の数々へと分解されてはいなかった。僕は僕ならざるものによって僕であって、大いなる力の流れの中に紛れ込んでおり、それにも関わらず果てしない幽閉の内に苦しめられていた。

 僕が自己を放棄した以上、この現前は僕の手によるものではあり得なかった。この現前は僕の預かり知らぬ統一の要なのだった。どんなにちっぽけな要だとしても、その意味や目的が永遠に隠されているにしても、それは世界をしてこの僕をあらしめる必然性の証なのだった。それなのに、今や現前しているものは苦しみだけだった。この苦しみこそがサインなのであった。これは不可解なことではないだろうか。承諾しかねることではないだろうか。苦しみこそが兆しであり、僕ならざるものが僕の意識を使って、他でもないこの僕をどこかへ連れ去ろうと命じているというのは。僕を打ち砕き、僕から意志を放棄させた当のもの、僕の自由を根こそぎにしたこの不可避の運命、僕が心を開かざるを得なかった、僕が身を委ねることを強要する他なかった外圧が、今度は同じ力でもって僕の自由意思に頼むというのは。僕から方向感覚を奪い取り、足を踏み止める地盤を奪い去ったその力が、苦しみによって僕に、僕が持つべき自己に、行動をけしかけているというのは、承諾しかねることではないだろうか。しかし、それがこの依然として続く無風状態が意味することに他ならなかった。

 この苦しみ、この痛みは決定することの不可能性から生じていた。決定することの不可能性、それは決定しないことの決断ではなかった。全ては停止していた。だけどそれは目に見えないほどに微かな震えによって、てんでばらばらに飛び行こうとする力の数々がもたらす痙攣によって、停止を装っているに過ぎなかった。苦痛、それはこの痙攣のことなのだ。凡ゆる決断は挫かれていた。ここでは停止することは許されていなかったのだ。それら数多くの力は決して連帯することがなかった。これら諸力は束ねられ、運動を齎さなければならない筈だった。諸力の痙攣が偶然一致し、その反動を巻き込みながら振り子のように次第に大きくなり、一つの意志へと成長しなければならない筈だった。意志、それは身も蓋もない偶然の作用の結果として生まれたのであり、それは何事かの原因ではあり得ず、何事かの動力ではなく、何事かによる慣性なのだ。そして我々が頼りにする信念、慣性を持続させ、永遠と見紛うほどにまでする信念というものがあった。しかし僕は信念に縋ってなどいなかった。信念は船のように僕を乗せて揺蕩っており、何か異様な危機を察知した時には、既に縋る価値を見出していたことが不思議に思われるほどの無残な木片と化していたのだった。信念が崩れる時、いつもそれは壊れるのではなく、始めから壊れていたことが判明する形で、その故障を僕に伝えるのであった。してみれば信念は所詮、慣性にビラを打ち付ける杭であって、打ち付けておく支持体そのものがなくなって仕舞えば、宙に置き去りにされて消え果ててしまうものに過ぎなかった。そして意志を失った僕の目には、この痙攣するゴツゴツとした苦しみ喘ぐ物体の数々が映っているのみだった。まだ光さえも存在しないにも関わらず。何故なら光は既にして一つの力の所在を証明しているのだから。始めにあったのは、実はそれは始まってもおらず、ありもしないのかも知れないのだが、暗闇の中で痙攣する物体だった。こうして僕は痙攣する物体を見出した。しかし未だ光なく、方向も失ったままであった。つまり僕は浮上したのではなかった。僕は帰還したのではなかった。

 物体は形なく、輪郭を滲ませながら、ゴムのように膨らみ、内側から力を加えられて止むことなく変形し、しかし岩石のように確固として宙に浮かんでいた。それはどんな感情も呼び覚ますこともなく、記号を持たず、何かの象徴であることもあり得なかった。またそれは表情を変え続ける顔のようであり、奇声のような不快な音を発しながら、休むことなく喘ぐように捻くれて、そして震えていた。それはどのような観点からも馴染み深いものではなく、見るに耐えないものであった。それはそれと名指すことが出来ず、つまり対象でさえなかった。それは見られることを拒んでおり、見られることの可能性の否定そのものであった。そいつを前にしていると僕は吐き気を催すのだった。僕の苦痛、それは今、急激に吐き気へと変わっていた。それは人々に気付かれることなく、大地の底で忘れ去られていたのだが、しかしそれは未だかつて決して眠りに就いたことのない、邪悪の本源なのであった。

(2022.1.7)

浮く

 春、暖かくなると胸をよぎるこの気分には見覚えがあるけれど、どこから来たものなのか分からない。僕には、思い出があまりない。言葉も回想もなく気分に浸ること、それが行き止まり。川面を反射する光、風の音、そこで立ち止まるだけ。悲しい気分。長閑な気分。

 朝から女の子と長話をする。話すたびに、あなたは魅力的で好きだと伝えられる。話が尽きることはない。なんでも良いけれど、僕らは恋人なんだろう。短期間で人はこんなに仲良くなるものなのかと、いつも驚く。軽くて甘いノリに慣れた。冗談を言うのが上手くなった。

 絵を描こうとしている。基礎的な練習を少し。それ以上はまだ出来ない。近々仕事を辞めようかと思っている。読書をしていない。下らない動画を見ている。恋人に教えてもらった音楽を聴く。食事をする。シーチキンとほうれん草、納豆、ナッツ。これは料理ではない。昼になると眠くなる。散髪に出かける。買い物をする。

 欲望には惨めさが付き物なのだろうか。喉が渇けば水を飲めば良いことを知っているように、心を満たす術を知ることが出来る筈だ。良いことが起こると、単純に幸運だと思うこと。欠乏を埋めようなんて卑しさもなく。野心もなければ、嫉妬も、復讐心も。そんなものはとっくに一人で克服したつもりになっているから、何もなくても景色は輝かしくて、その上僕は浮かれているのだ。それは驕りかも知れない。僕は助けられている。健康になった。友人が出来て、人に好かれた。恵まれているだけ。僥倖、恩寵。感謝して謙遜ぶる奴が嫌いだった。口にすることは容易い。

 別れがあったら、たぶん少し涼しくなったと感じることだろう。僕は薄情なのかも知れない。昔も同じことを書いた。不可解な現実に、どんな種類の神話を与えることも許さないこと。苦痛に塗れていて、単純に引き裂かれること。その痛みたるや。一貫した他力本願の、そういう修養。気分が良い時は単純に夢心地になれるだろう。そういう交換。僕は一方を憎まない。僕はもう一方を感謝しない。ついこの間まで星や夜景の仲間だったものが、不意に僕たちの手を引く。完結しない輪の広がり。

演劇

 人間の個人の情報量に対する言葉の無力さ。人間はそれぞれに病んでいる。人間は例外なくオリジナルに厄介だ。個々の性質を切り離し分析にかけるのは他者の経験の事後に過ぎないため、諸性質の積として最初から他者を理解しようとすることは知性の衰退である。

 彼一人を説明することで納得し、他者からそのトラウマ性を除去するために、様々な解釈が弄ばれる。しかしその解釈は彼一人を、あるいは彼によって生じたただ一度の状況を、辛うじて理解した気にさせるに過ぎない。

 他者一般に近付く方法は、思考する者の個人的な防衛の技術へと成り果てている。普遍に接近する手応えは金輪際なく、体系によって防壁を築きあげることも出来ない、その度ごとの果てしない労苦、雑念の虚しい後片付けという印象が残る。

 他者を了解する私の状態と、私の前に現れる他者を巡る「非因果的」な同時性を記述することが出来るのは、理屈ではなく、共時的なイマジネーションの戯れによってだ。

 完了を諦めること、それだけのことならば多くの者が理解している。しかし完了の不在は、世界全体が(解釈をいつも裏切るからというよりも、解釈が戯れであることを既に知っているが故に)、出来事の一回性を絶えず呼び覚ましながら流動する、主観と経験の狭間へと折り畳まれることを意味する。

 悲観する必要はない。解釈の落とし所が変わっただけだ。単純に生きていることに驚きたまえ。

 

 *

 

 お久しぶりです。以下自分語り。

 

 僕は発達系であり、発達系特有の執着的努力の末に、定型者の演劇を続けている可能性を時々疑ってしまい疲れる。世の中で起こることが茶番に思える理由。演劇のクオリティが低かった時期(およそ思春期頃から七〜八年間ほど)共同体からかなり完膚なきまでに追放され続けたこと、年を追い徐々に役をこなせるようになっている感覚があることで、個人的には一定の信憑性があるように思える。

 

 僕は情が浅く、他人に同質性を期待していないので一般的な意味での怒りも殆どない(もっと発作的で無差別的な怒りはある)。しかしそれを確証することも出来ないため、「普通の人間」の白々しさに苛立たせられる。何故苛立つのかと言えば、僕はこんなにも苦労して演劇をやっていると主張したとして、「みんなそうだよ」と言われそうな予感が大いにあること、そして僕がその言葉を否定する理屈を持ち合わせていないからだ。「みんなそうだよ」という応答が人を途方もない気持ちにさせるのは、他人事のように響くからではなく、それが判断停止の宙吊り状態に人を強制的に落ち込ませるからだと思う。「そんな訳ない」と発作的に叫ぼうと、その叫びは果てしない判断停止という名の虚空に吸い込まれていくだけなのだ。人々の断絶は妄想なのか、それとも実体なのか……。(しかしどうやって他人の考えを信じたり信じなかったりすることが出来るのだろう。どうやって半信半疑を抜け出せるのだろうか。)


 僕が違和感に包まれながら平然と生きていられるのは、その違和感が工夫と訓練によって克服される程度のもの(事実克服されている)である証拠なのだ。結果がそれであることが言葉に偏重を与えるが故に、強者は強者の論理しか語り得ず、それは弱者から常に糾弾される余地を残す。つまり僕は自分が人並みの健康を手にするのに、人並外れた苦行をしたのだと言い切る自信がなく(いや、それは確かに並外れた苦行だったのだが!)、根底に単なる偶然の作用を認めざるを得ないのだ。

 

 ((ところで人はすぐに「耐えられない」だの「我慢できない」だのと口にする。僕はそれを言わない。軽口は叩いても本気では言わない。耐えられないなら、たとえば感情を消した方が有利だと身体が判断して、感情を失ったまま動くことが出来るようになる。どんなに狂った環境にも適応してしまうかも分からない。耐えられないかどうかを決めるのは「主体の意思」ではない。

 考えてみれば気合や根性という言葉が嫌いなのは僕がいわゆる内向的な人間だからではなく、そんなものは空気のようにあって当然だからなのだ。それは口にされた瞬間に強者の論理として人を圧迫する。気合や根性と名付けられることさえなく、それが労苦であるという判定さえ覚束ないままで、混濁の中を泳ぎ回ることこそが気合や根性という語の指し示さんとする本来の意味だった筈だ。

(ところで僕の人格的な壊れ方はこういう極論を言うところに集中しているのだろうな……)

 その上で根性論が嫌いな理由は、往々にしてそれを唱える彼らは、体力や同調性が優れているだけに見えるからだ。その種の人間の人生に「気力」の出る幕などない気がする。彼らの厳しい(と体力のない人間には錯覚させられる)トレーニングの後の、有り余る力の発散による充実した表情を見てくれ。))


 断絶が事実であれ妄想であれ、僕は僕以外の人間が「自然」であり、僕は「不自然」だが何かしら気狂いじみた修練によって社会参加している存在であるという解釈に寄りかかっていることには、確からしさがある。


 とはいえ茶番に思われるのは社会に対してだけで、僕の情動が総体として薄っぺらい訳ではないのです。本当です。社会参加の面で僕が演劇的であるのは間違いないが、それは「たまたま」僕が自分とかけ離れた種族の人間の輪に入ってしまったからに過ぎないだろう(あるいは社会という構造が必然的に抱え込むあれこれによって)。

 言っておくけれど僕は社会で関わる人間の誰一人として個人的に嫌いではないと思う。けれども彼らの内の誰がいなくなろうとも二日足らずで僕の「記憶」から「思い出らしき印象」は抹消されるだろう。社会から離れた時、彼らの言葉が僕の胸に残ることはないだろう。彼らは僕に成長や成熟を望んでいるかも知れないので、僕が彼らの言っていたことはどこか微妙だが総体として釈然としないと訴えたとしても(訴えることはないですが)、彼らからしてみれば「いつかきっと分かる日が来るよ」と言うような、端的に言えば未熟者に対する上から目線の美談に回収されるかも知れず、そうなれば僕は自分が単純に素朴な未熟者である可能性を望みもするのだが、そして彼らの信じている説得可能性に賭けて、成長や成熟という観念が意味を持つ世界を望みもするのだが(僕は何も否定出来ないのだ)、それにしても彼らの存在が僕の胸に残ることはないだろう。そして僕は依然として何も分からず、実際的には共同体に所属しているにも関わらず、根無草や引きこもりと大差のない心性を当て所なく彷徨わせていることだろう。

 

 僕がこんなにも心動かされず釈然としない言語を用いる共同体で、文句一つ言わずに形だけで(それなりに上手くやれていることを楽しんでもいるのだが)同調しているのは、仮に僕が「みんなと同じような人」であったとしても、僕の演劇性に対するある種の執念を示しているとは言えるだろう。

 「ここに勤められる人は感情がない」と罵詈雑言を吐き捨てて職場を辞めていった者がいた。言うまでもなく職場の人間が皆無感情なのではなく、端的にその者の不適応から来る訴えである。その者は自己愛が強く周囲の人間から白い目で見られていたし、僕としてもその者の刺々しく権威的な人格に辟易していたのは事実だが、僕にはその者と周囲の者とのどちらが真っ当とも言うことが出来ないのだ。と言うのも、僕にしても長い間ほとんどの人を泥人形のようなものだと思って生きてきたのだし(朝起きるたび今日も人間どもの中で生きなければならないことに気付くことの、這い回る虫の巣に叩き落とされるような絶望)、僕の場合はそれをもはや所与の条件として受け入れてしまっているに過ぎないように感じられるからだ。故に断絶を殊更に周囲に主張するのは甘えなのだと言ってしまいたくなる。僕は他者に何の思い入れもないまま、無味乾燥な演劇に「執着」する(もしかしたら乗り物に乗れるようになるにも似た喜びがそこにあるかも知れないけれど)。これはもう「執着」以外の何でもないように思える。それがその者と僕のスタンスの違いというところだろう。

 

 

 総括すると僕は「結果的に正常に適応した普通の人」なのだろうな、という話ですよね、これは。最近はインターネットで知り合った人たちとdiscordでよく話してますが、かなり居心地が良いです。本当はこんなことを問題とせずに居心地のいい環境にいられたらそれで良いに決まっている。居心地のいい場所を探すという発想が、ないわけではないにせよ、何らかの形で酷く抑圧された結果なのだろうか。現実は原則としてこうなっているのだと諦めるのが早過ぎたように思う。

 世界に対する曰く言い難い座りの悪さはどちらかと言えばトラウマ的なものが後を引いているだけだったりするかも知れない。とにかく24歳くらいまではこの世の糞をかき集めて塗りたくったような人生だったと評価せざるを得ないので……。座りの悪さを解釈するために自信過剰になったりサディスティックになったりしてしまう訳です。アイデンティティの揺らぎは怖い。あまり自意識を働かせても仕方がないけれど。

 人生ですが、日に日に健康を更新しています。つまりそういうこと。めでたし。

消し去る者

 全て共有可能な文脈を剥ぎ取られた共感不可能な他者はグロテスクに映り、嫌悪感を与えずにはおかない。であるから、他者への好意とは都合の良い思考停止が生み出す柔らかい幻想への隠遁でしかない。企てられた逃避。最も容易い幸福の方法。無償の愛であっても、その幼稚さに変わりはない。(無償である事が償いになるとでもいうのか。)好意とは脳内で生み出した形象のリアリティを伴う再現だ。ナルシシズムの危険を犯さない好意は無い。それに対して、他者性への敵意は自分にとって都合の悪い、適切さを欠いた思考に思われる。敵対する他者の中にも全ての人と同様に彼のユニークな意識がある筈だ。それにも関わらず人は、自らの認め得る一貫性を他者の内面にまで投影しようとして取るべき態度を誤ってしまう。このどちらも理性的とは言い難い。だがその中間には、機械的な分析と、無感動な異化作用しかない。この中のどれとも僕の感性は適応しない。人間的なものは現実にあって存在しないのだ。人間など少しも人間的ではない。偶然に支配された世界は拒絶的であり、自然な親密さはいつも欠如している。幾つもの矛盾に満ちた感性を背負っている僕には、感覚の中に居場所がない。

 個別的な対象への偏愛は、個人のどの様な内在的な欲求に接続されているか。我々の精神には、何か方向を持ったエネルギーが確かに存在している様なのだが、それが具体的対象を求め出した時、その対象は虚偽なのだ。我々が創造する偶像や物語の効用は、ある価値体系に没入することで自己肯定感を満たすことである。満たすものとしての偶像は、ただ信仰される事によって立ち現れる。立ち現れた偶像(友人とか愛とか平和)は、彼の自我の支えや拠り所だけではない。そうではなくて、自我の統一原理そのものでもあるのだ。愛が偶像からもぎ離される事によって生じる真空は、自分を支えてくれていた何かの死ではなく、紛れもなく自己そのものである所のものの解体だ。人は自己肯定感を糧にして生きているのではなく、自己肯定感そのものを生きている。自己肯定感は偶像への信仰によって生まれるのであり、信仰は習慣付けられているものの、信仰心そのものが独立して潜在意識に根を張っている訳ではない。であるから、偶像と信仰心、そして自己肯定感はそれぞれ互いに不可分の関係にあって、うち一つに生じた亀裂は残り二つを瓦解させる。

 慣習によってのみ自己肯定感の確かさが受肉される訳ではない。例えば幼少期に親に愛されて育ったという「事実」が彼の自己肯定感を生涯に渡って保証する訳ではなく、親に愛されていたと知っており、今なおそれを信じていることが必要なのだ。愛されたという経験だけが、彼に永続的な自己肯定感を約束するのではない。愛されているという現在進行形の確信さえもが必要なのだ。であるから信念に疑惑が生まれ、亀裂が生じたのならば、事後的であれ実存は宙吊りにされる。言葉によって過去の出来事の解釈は変わり、世界には解釈しか存在しない為、実際の経験が変化を被ることなく、トラウマは生成され得る。

 もし物心のついた時から刷り込まれた愛情や信頼を根刮ぎにする程に徹底的な自己否定に、自らを晒す事が出来るのであれば、彼は想像力によって世界の極限に触れるのだ。全ての具体的対象への愛は、満たすものとしての虚偽であるという極限に。偶像を退却させる事によって、己をその実質である虚無にまで剥き出しにし、無限に横滑りする価値体系の錯乱を目撃するのだ。

 自己肯定感を満たすことで生きる者は、都合の良い幻想によって現実を自らのスケールに合わせて歪め、その中に安住しているので、世界の実在に出会うことがない。何か対象を保有することによって自らの存在を許容する、これが「満たす者」の深層で起こっている企てである。「満たす者」は自分自身と自分の着ている服の区別が付かない。それが理解されるのは、実際に彼が偶像から引き剥がされた時のみだ。例外は想像力のあらん限りの酷使によって懐疑を試みる場合だけだ。だが「満たす者」のうち、誰がその恐ろしい結論を受け入れるだろうか。価値体系が崩壊するほどの異物は人間にとって存在しないに等しい。

 疑ってみることは誰にでも出来る。自分が不具であったかも知れないことも、自分の大切な人が存在していなかったかも知れないことも。「〜があるから生きることが出来る」などと言うのであれば、それが欠損した場合に於ける世界の可能性は当然、彼の想像の範疇でなければならない。だが欠落を負った可能世界の自分の実存の全てを(それは自分であっても他者なのだから)知ることは出来ず、現存しているこの自分の視点から、評価を下すことも不可能だ。可能な自己の人生全体を、現存している自己の持っている一貫性によって測り、優劣を定めることは出来ない。僕には「満たす者」の想像力は、常に優劣を測定するナルシシズムによって規定されている様に思える。であるから、同情や嫉妬が容易に引き起こされるのだ。そこには他者の他者性の欠除がある。

 親に愛されているから自己を肯定する事が出来るというのはおかしな話だ。或いは友人に恵まれているから、経済力があるから、地位や名誉があるから。このどれか一つ、或いは二つが戒められるべきエゴである訳ではない。全てなのだ。お金が無くても、愛情があれば良い、などと真理めいた口調で言う者は、実際のところ、ただ現世で程々の甘い汁を吸う為にはそれで十分だと宣っているに過ぎないのだ。彼が保有するものへの否定が、彼自身の否定となるような論理を全的に廃さなければならない。誰もが「そうでなかったかも知れない可能性」を持っているからだ。何もかもが奪われるという悲劇が現実に起こっていることを我々は知っている。始めから損なわれている者がいることを知っている。であれば何故、自らの所有物に自己の存在理由を仮託するのか。そして何故、そこにある種の一般性や普遍性を与える事によって、偶然的な所有物に寄りかかっているに過ぎない態度を正当化するのか。結局は自己そのものである事を恐れ、現実の悲惨から目を背けているのだ。我々は世界の中に余す所なく浸かっており、世界の一部なのであって、全て起こり得ることは等しく肯定されなければならない。

 自己の保有物を自らの想像力で消去すること。たかだか保有物でしかないものを基礎として体系を作り上げることで、矛盾を引き受ける事を放棄してはならない。体系への依存は無意識的であるから、最もタチが悪いのだ。自らの体系を破壊すること。自分は存在してはならない者であると思うまで、自らが寄って立つものを否定すること。自己肯定は信念への依存に他ならず、内発的な根源を持っているのではないから虚偽なのだ。

 もし全知の存在者がいたとしても、自分の見ている世界が何故その通りに存在するかについて答えられようか。この問いこそが真に深みを持つ。何かを良しとして何かを悪いとする一つの価値体系から、異なる何かを良しとして別の何かを悪いとするもう一つの価値体系へと移行する繰り返しから抜け出さなければならない。或いは不都合な出来事が起こるたび毎に上手く折り合いを付けて、価値観の改築を試みる事をやめなければならない。世界に正当性などそもそもありはしない。どの様な正当性もない無数の価値観の間を無限に横滑りしているだけで、我々は始めから一歩も高められてなどいない。どれも言い訳がましい保身なのだ。様々な価値観を持った人がいるのだと知性で納得するのでは足りないのだ。無数の価値観がまさに眼前に乱立して現れて来る浮遊状態まで、懐疑を続ける必要がある。「満たす者」ではなく、「消し去る者」になること。

(2016/12/23)

 通り行く群衆の一人を見定めて、彼だって本を読んだり音楽を聴いたり、自殺を思うほどの悩みを持っていたり、誰かを愛したりしている人物であるなどと考える必要性は、本当のところ見出せない。彼らが僕と似たり寄ったりの実存を持っていると、仮定する意味すらない。彼らと関わり合う可能性は限りなくゼロなのだ。始めから接近する道は封鎖されている。僕の意識によって規格化された傾向性の束としてのみ、僕は彼らの存在を知っている。意識さえしなければ彼らは形も定まらぬ影に過ぎない。視野の外で既に消えかけている彼らが何を行おうとしているのか想像しようにも、それは所詮、意識による身勝手な妄想なのだ。確かに僕は、僕の意識の限界を超えて他者達の生きている事を知っている。しかしそれは経験的に、知識として、つまるところ永遠の憶測としてのみだ。恐らく僕らが見知らぬ他者に人間性を認めるのは、道徳的要請というよりもむしろ、社会的に合意されたルールに従うことで自らを守るためだ。自己を参照し、知っていると見做すことによって、僕らは何も知らない。僕は無知であることと知っていることの間に横たわっている無限を感じる。知るということは断じて外の世界を確立することでもなければ、対象に自意識の反映を見出すことでもない。そこには三人称の匿名性に包まれた灰色が、他でもない何者かとして生まれ変わる飛躍があるのだ。突如として知られること。脳内で発火する印象。もはや未知ではなく、それでいて概念の束でもなく、取り返しが付かない。誕生した何者かが、もしかしたら僕と良く似た存在であっても、それに気付くのは後のことだし、そのような類似性が問題ではないのだ。出会うことの非連続性に、如何なる論証も橋を架ける事は出来ないだろう。諸々の到来が僕に何を齎すのか、僕は知らない。

(2016/8/24)