未詳まで

Es malt.

形式と内容

「怒鳴ったり哀願したりするのはよせ、言語的コミュニケーションをしろだって?しかし僕はまさに怒鳴り声のような非言語的な表現の意味しか理解できないのだから、君のいう《言語的コミュニケーション》の定義など、僕を前にしては機能しないのだということを君は知る必要があるね。僕のこの発言がまさに言語的だって?馬鹿言っちゃいけない。これは長く多様な発音を持った呻き声だよ。」

 

 

 

 怒鳴ることが感情的ないし暴力的だから許されるべきでないというならば、友好的態度による団結の感情的で暴力的な様をも非難するのがフェアというものだ。こんなのは折々の政治的妥当性に過ぎない。感情的になってはならないのではなく、ある環境で適切ではない振る舞いがあるだけだ。それならば、例えば「自分は市民社会のルールを内面化しているだけの人間です」と言えば良かろう。ある規範を内面化する際に常に付き纏う問題だが、内面化それ自体を自覚していないことは既に欺瞞の始まりである。そうした自己弁護の非誠実さを非難することが出来る人間は社会には存在しないのだから、この言い分の陳腐さを忌避する必要はないし、陳腐さに耐え忍ぶべきなのだ。むしろその程度の退屈な(ある共同体におけるルールの適応といった)問題に起因する感情の単純な表明を、その動機が陳腐であることを理由に嫌うことで生じる問題があるのだと言いたい。それは既に消え失せた正当性への誤った執着が生み出す問題である。政治的妥当性に過ぎないと言ったが、政治的であることには積極的な価値も存在するのだ。それは自分の行動が潜在的に他者を排除する能動的な選択であることに自覚的であるべしという規範である。

 断っておくが、頭脳の上辺だけを用いて思考する者が言うような「凡ゆる規範の消滅」などあり得ない。たとえ「規範の規範=神」が存在せずとも、ある規範の否定は直ちに別の規範を指し示すことであり、人間が規範そのものから逃れ出て行動することは不可能なのだ。では確たる正当性を与えることなく如何に行為するべきかを問題にしなくてはならないだろう。言うまでもなく僕は怒鳴る人間を擁護するつもりはない。(僕は感覚過敏だ…どうでもいいが。)僕はこの件について、何者も擁護しない。

 

 こんな風に前置きをしたが、僕は道徳についてではなく詩について語りたい。

 

 感情的になってはならないとか、身振りや語気は不純であり《言語的コミュニケーション》が通じない場合にのみ止むを得ず使用されるべきであるなどと言うならば、特定の性質だけを批判の対象として限定してはならない。形式と内容の区別はデカルト由来の肉体と精神の短絡的な二元論に値する。そうした二元論に於ける限界を、対立を極限まで推し進めることで検討してみれば良かろう。結論を言えば、肉体なき精神も、形式なき内容も共に(妄想の中でさえ)存在することは出来ない。ある身振りや語気を示し、それを否定するとき、透明な伝達の可能性を幻想してはならない。(例えばカミュが『異邦人』に用いた「白い文体」は、あくまで白であり無色ではない。)沈黙さえも例外ではない。黙っていることが意味作用を持たないとでも言うのか。ある表現の機能は他者に向けて賭けられている。その適切さは両者間でその都度形成される合意であり、それ以上の普遍性を含まない。

 ある場所では怒鳴ることは機能するが、ある場所では機械的な理屈が機能する。そしてまたある別の場所では暴力が機能するのだ。それらは等しく「言語的な意味において」機能するのである。道徳に普遍性が認められない以上、階層など存在しない。例えば「人間的/動物的」という区分は無効である。ある表現が動物的だと言って非難することはもはや出来ない。そうした振る舞いが「動物にも行い得る」ことを示しているだけなのだから。その様な尤もらしい二元論は形を変えて絶えず姿を現わす。しかし構造的な眼差しによる説明も、端的に政治の問題として感情を煽っているだけである。それは観念的な正しさを偽装しているので余計にタチが悪い。僕は感情を煽ることを否定しているのではない。それしかやりようがないことを意識した上で方法を選択すべきだと言いたいのだ。父なき時代とはこうした価値の乱立を意味する。だが価値そのものが消え去る訳ではない。

 中途半端な抽象は対立の構造的な欠陥を隠蔽するためだけに当の対立を持ち出す。形式の持つ威力を免れる可能性など誰にもあり得ず、沈黙や穏当を選ぶにしてもそれは権力の発露と無縁ではないどころの話ではない。多くの場合、人は政治的により機能する方を好んで選んでいるだけである。誰かの微笑みは、他の誰かの拳よりも強大な力を持つかも知れない。方法それ自体は単独で裁くことが出来ない。習慣的な印象に目を眩まされることなく、既に何かが排除され、何かしらの排他が完了された空間内でのみ中立を気取っている自己というものを反省しなければならない。

 何かを暴力的だと見做し、集団的に排除する動きもまた暴力的である。彼らによって糾弾される暴力性といえども、当の対象に固有の性質に由来しているのではない。それは指示されて始めて暴力となる。何故なら暴力とはそれを認識する者の心情的な堪え難さを意味するのだから。残念ながら「殺人の暴力性はそれ自体の性質に由来するのではないか?」という問いは無力である。確かに殺人は生の根元からして堪え難さを引き起こす、何か例外的な脅威を孕んでいるかも知れない。その特異性は十分に考慮されるべきだろう。しかし「そうあるべきだ」という叫びは、どこまでも叫びに過ぎない。特定の殺人が見過ごされ、次第に認可され、最後には賞賛されるまでに至ったある時代を思い浮かべることは、余りにも容易いのだから。無論、糾弾することは正しい。それは常に正しいのだ。正しさもまた暴力的である(それがたとえ自明であるかのような悪の糾弾であったとしても)ということを忘れさえしなければ。

 一般論はこうした価値の変容が、かつて闘争によってもたらされ、まさに今も闘争によって塗り替えられているという、その血生臭さを中和する。それは無責任な日和見主義者の自己正当化に過ぎない。その戦法は不徹底に表現を形式/内容へと二元化することで成り立っており、構造的な欠陥を抱えている。自分自身の名に於いて語ること。それは積極的な意志(=別の形式)の創造であり、そこには具体的な力の動きだけがあり、如何なる正しさの保障もない。意味内容は形式の効果なのだ。さて、僕の文章に僅かばかりの説得力が生じているとしたら、それは一体何によって生じているのだろう。

賽を振る

 例えば「泣き喚けば人に気持ちが伝わる訳じゃない」という種類の戒めが、全く同様に、「今こうして書いている文章が誰かに理解されること」に対しても生じている。それくらい言葉が他者に伝達されることに飛躍を感じるときがある。

 言語能力の有効性は、赤子が泣き喚く様な一つの賭けから別のもう一つの賭けへと、ただ横滑りした結果として、事後的に与えられているように思う。自分がそう考えるところの言葉の正確さを心掛ければ意思伝達の可能性が上がる訳ではなく、言葉は鳴き声の派生であって、環境が適切さの水準を決定するのだ。

 

 (子供の頃、自分の見ている世界が全くのデタラメであるかも知れないという不安の一部は、自分は並外れた人間なのだと思い込むことで回避されていた気がする。)

 身の振る舞いを知ることで、不定形な実在は外的な規則に絡め取られる。自惚れと同じように、自分を凡人だと受け入れることも、劣等感に苛まれるのも、多数に対する少数を恐れるのも、実存的な不安を隠蔽するために拵えた嘘のバリエーションであることに違いはなかった。僕がまだ僕である以前に触れていたリアリティに相応しい場所は、嘘の内部では決して見つからない。


 孤独が世界を剥がすまで、知性が失墜する暗がりに向けて、真っ逆さまに落ちていけるようになること。他者への伝達可能性による意味の正当性に保証を求めることを辞めれば、正常も異常も、中心も周縁もない時空が出現する。それを受け入れさえすれば、不安は不安のままで、敵対すべきものではなくなる。

 

 本を開くと理解できる言葉が書かれている。挨拶をすると「こんにちは」と返ってくる。そうした契機によって、再び秩序の内側に立つ。個人的な推測が世界を固定する。目に見えないものは存在しないことになる。安心は訪れるだろうか。次に出会う本や人にだって、僕は同じように触れることが出来るのだと信じる。それは妄想ではなく客観的認識と呼ばれる。僕は根底さえもの彼方に生きているのだ。

  狂気の淵から生還すると言うのは、いつだって適切ではない。回復するべき正しさなんて存在する筈がない。いつもいつも繰り返し、これは偶然なのだと感じるべきなのだ。姿なきものを忘れないために。

 

 

 ☆  ☆  ★

 

 

 意味や目的など存在しないことも、到着した時に問われるのは「今までどうだった?」という質問であり、最初に見定めたゴールは幻想でしかないことも、知っていた。振り返って初めて現在を生きることの重大さに気が付く、陳腐な劇の主人公のような盲目さで生きてはいなかった。未来へ目標を先送りすることの中に実質はないということを、正しく理解しているつもりだった。

 それにも関わらず、僕は閉じ込められ、如何なる輝かしさにも手を伸ばすことが出来ず、どんな充溢も経験することは出来ないのだと感じていた。そして、それは決してあり得ない話ではないのだと思う。


 意味や有用性といった観念から自由になることは新たなスタート地点であり、それはどんな描線を引くことも可能な下地に立つことでしかない。イメージはいつも外から訪れ、偶然が新しいものを引き連れてくる。僕に出来ることは、より良い兆しが現れるのを待つことだけだ。

 何を体験することになろうと、僕は少しも世界を知ったことにはならないだろう。だけど僕は真理の不在なんて恐れていない。僕が恐れているのは、体験を体験足らしめる「何か」の不在だ。


 例えば外的な価値基準に取り憑かれ、勝敗にしか意義を見出せなくなっていた人が、ある日、身の回りに当然のように存在する物の美しさに胸を打たれることがあるとする。憑き物が落ちたという訳だ。しかしそんな風に「今ここ」を取り戻すことが出来たのは、彼に懐かしむべき生命の実感や、愛すべき故郷の記憶が備わっていたからに過ぎないかも知れない。別のある人はそうした外的な価値の虚構性を全て理解した上で、乾涸びた残骸だけを目にすることになるかも知れないのだ。


 他者と比較することから生じる惨めさを解除したところで救われないみすぼらしさは存在する。非言語的なものへ繋がる回路が焼き切れていることを発見してしまうという絶望がある。

 水を飲み、乾きが癒されるのを快く感じること。カーテンを開け、差し込む日差しを綺麗だと思うこと。そんなことさえ既に一つの恩恵であるかも知れない。


 自力が通用するのは価値を相対化する所までだ。そこから先は人間の意思を超えている。そのことを無視すると、身体性もまた一つの権威へ変貌してしまう。

 わざと物語に騙され続けている人もいるだろう。自分自身の体を痛めつけたり、命を危険に追いやったりすることでしか生きた感触を得られない人もいるだろう。ただ僕はそうした欺瞞を辞めることに決めたのだ。

 誰もが身体に豊かな生命を宿しているなどと、あらかじめ言うことは出来ない。それでも自分自身を他者として信頼し、サイコロを振り続ける。そうすることの内にだけ、僕の願う充足が舞い込んでくる希望がある。

 

捩れた方法で

 僕は物事を理解できる。僕は現象を解釈できる。だけど僕の理解や解釈が他者のお眼鏡に叶うかどうかに関して、つまり僕の理解したと思っていることが、第三者の価値にとって『理解に値するかどうか』に関して、一切の自信がない。僕の不安はこの様な形で、凡ゆる知的な努力を根源的に上回っている様だ。

 

 物事を理解したという感触は、直接的で無根拠な直感としてしか正当化しえず、その社会的な正当性は、つまりその直感が他者に伝達可能なものとしての地位を得るかどうかは、他者の表情や身振り手振りによって賭けられている。例えば、僕が子供の頃に、算数の九九を正しく諳んじることが出来た際の、大人達の「優しい反応」が、そうした「手応えの反復」が、自分の直感が実際的に有効であるという、客観性への信頼を形成するのに役立つ唯一の指標なのだ。要するに僕は「僕が理解したと信じること」を信じないことだって出来るのだ。自己自身と世界への信頼が発生する根拠を指し示すことは出来ない。暴力に耐え得る強度の言葉-世界認識など存在しない。この文章を恐れたまえ。

 

 他者達が犇めく世界をこの様な疑惑の観点から眺めると根源的な不安が生じるため、人は問題を単純化する。つまり「僕の直感に与えられた『理解の感触』が正しいのだから、彼がそれを認めないならば、彼の方が間違っているのだ」という具合に。この二者択一の思考が社会の前提となる。

 

 

 

 古典主義は世界の悲劇性を知っている。世界の悲劇性は本能心理学のそれとはまた違った源泉、即ち「客観的な」根源がある。マニエリストは、しかし、世界の「メランコリア」の内に立っている。それは彼が主観主義者だからだ。「不条理な」「エロティックな」狂気にすら陥る程に、「イデア」における、また「空想」裡における反対物の「狂気的」統一をすら成し遂げるほどに、主観主義者たり得るからだ。即ち、形象の世界と彼自身のエロティックな表象の形象とは、ーー自閉症的にーー交流する。彼を執拗に襲う非合理的な形象の数々ーーそれらは如何なる意味でも「自然」とは無関係だーーが、二重の意味で彼を満足させている。より適切な表現を用いれば、言うまでもなく自己満足と同様に繰り返し起こり得る、世界の「黒ミサ」の中で、この非合理な形象に満足を感じ、またこの形象を通じて満足を得るのである。「意志」と「表象」とは、怪物的な一致する不一致の内に一体となる。この過程に於いては、世界はただーーデフォルメされた形で現れる他はない。(ルネ・ホッケ)

 

 古典主義者にとっての「悲劇」とは、確固とした一つの事実であり、例えばそれは災害による死亡人数や、どの国が戦争をしているかなどの報告によって、客観的な基底を成した世界の上に与えられる感情だ。しかし主観主義者にとって現実の出来事や事実性は、まず差し当たって問題とはならない。彼らの「メランコリア」とは、自己と、その主観性が今まさに構築しようとする世界との中間で生起する、悪夢的でせん妄症的な荒廃だ。彼らは認識の枠組みそのものを始めから信用していない。彼らの目に映るのは、理路整然とした纏まりを失った無意味の形象が継起して出現する、錯乱の現場である。それら矛盾に満ちた(秩序を持たないという意味で原理的な混乱をきたしているのであって、合理主義的な枠組みに適わないという理由による「客観主義者にとっての矛盾」ではない)形象を結び付ける内奥の力の出現は、ただプラトン主義的な直感を指し示すことによってのみ語り得る、独我論的な(言語の極北の意味に於いて)自己満足に終始するより他にない、迷宮からの束の間の解放なのである。

 

 そのため新たに創造された表象は奇妙にデフォルメされている。しかし人間がデフォルメされていない表象を認識することなどない。もし「ありのままの現実」が在るように見えるならば、それは習慣と愛着が呼び起こした錯誤でしかないのだ。亜流形式主義者による表層的グロテスクを峻別するにしても、ことが生じる現場が一人の主観であるところの形象同士の結合は、「観念的」である他に成り立ち得ず、故に硬直した古典主義=自然主義の排他性は、こうしたプロセスの忘却によって起こるのである。他者への伝達を自明視した「自然」など、本来、創造なしには存在しなかったのだ。常に自分自身の主観性の中で、「プラトン主義的」に矛盾を乗り越え、決して自己満足以上の結果を偶然としてしか享受せず、ただ一人「イデア」の内に調和を試みるのが芸術家の目標であった。「メランコリア」の芸術家は、意味が砕け散り、イメージが奇妙に絡み合いながら湧出する、荒れ果てた更地にまで降りて行く。

 

 


 しかし表象されたものはすぐさま記号化への危険に晒される。ここである一つの深刻な逆説が生じる。完成されたものは何故それが完成を表徴出来るのかという疑問に対する根拠を持たないが故に、未完成よりも恐ろしいという逆説が。理性は表象を「既に在ったもの」として客体化する。客体化された対象はプラトン主義的な自己=恩寵という手触りを拭い去る。もはやそれは有象無象と同じ土台に並び立つ一つの意味に過ぎなくなる。即ち(常識的に考えられているのとは逆に)理性の健全さこそが主観主義的な感性を不安に陥らせるのだ。直接に感じられたもの以外の全てに疑惑の眼差しを向ける者にとって、充実した安心感は、記号体系を形作る理性の解除によってもたらされる。


 だが理性の眠りはまた狂気を呼ぶのである。だから主観主義者は平静な生を送る上で、作為的な仮面を脱ぎ捨ててしまうことは許されない。世界との和解は恩寵であり、残念ながら、それは持続しないのだ。彼らは自分の言葉を、自分が構築した世界の正しさなど信じてはいない。しかし他者の存在する空間で生きる上では、直接に感じられたものを、客観性へと堕落させ、その仮構された秩序を自明なものとして扱わなければならない。ただしこの主観性の客観性への置換こそが(どれだけの科学的論証も虚しく)どんな奔放な想像力にも増して、飛躍的なアクロバットなのだ。理性崩壊の兆しはそこかしこに広がっている。彼らにとって社会を生きることは緊迫した、息を継ぐ間もない、賭けの連続となる。

 

追悼

 幸運の意味を知っているから。不条理を知っているから。それが起きるということくらい分かっていた。だから君が自ら命を絶ったからといって、悲しむこともなかった。改めて驚くことはなかった。それは悲劇じゃなかった。僕は世界の残酷さを知っていたから。世界は僕の思う通りに運行しているわけじゃないことを知っていたから。それは不幸でもなかった。君のような人間にとって、人生に意味や希望があることは前提ではなかったから。僕らが大した仲でもなかったことだって関係しているのかも知れないけれど(僕たちはいわゆる友達を作れるような人種ではないから)、そんなわけで君の死は、ただ起きるだろうことの一つでしかなかった。僕に「どうして」と口にする気はない。僕には原因を説明するつもりも、価値を表明するつもりもないからだ。

 だからといって僕が何も感じなくなった訳ではない。むしろ以前よりはっきりと感じられるくらいだ。それは二度と再演されることのない音楽の停止の様なものだった。他に名前を付けてしまえば取り返しようもなく変質してしまう、比類なき終わりだ。ただ一回の出会いと、君と僕が存在した僅かばかりの中間と。そしてこれからも時間は、何も変わることなく茫漠としたままであることだろう。たぶん僕は純粋に物事を受け止めるようになったのだ。ただそれだけだ。不在の感触……さようなら。ほんの少し結び付いた言葉、僕が訪われた表象、さようなら。きっとそれだけだ。

 

日差し

 少し熱いくらいの日差し。時間がゆっくり進む気分。退屈を感じるのは良い兆しなのだと思う。(僕は生きているか死んでいるかの実感も湧かないまま消えて行くつもりだったのに。)空が綺麗だった。木々の色が深くなって、風が強くて、僕はさざめきが好きだった。

 どこか遠くで誰かが演奏した音楽を聴く。場所とか世紀とか人名が、かつて存在した事実なんて本当にどうでも良かった。そんなことがどうして分かるのだろう。確かなのは僕がいま聴いている音だけだ。微細なものが巨大なものと和解して、凡ゆる懐疑は意味を成さなくなった。必然とか運命とか。それはどこからか運ばれて僕にまで届く。馬鹿みたいだけど、それで十分だ。

 

 疑う余地もなく幸運の結果がばら撒かれている。大地とアスファルトは同じで、蟻の巣と高層ビルは同じだった。それは角膜に刻まれた描線で、手のひらで払われて消える模様だった。人工的で作為的なものは何処にも認められなかった。散り散りになったのは光。揺らめいているのは湖で、構築されるのは石だ。言葉と意味の連なりは、瞬きをする度に配列を変える星座だった。そして結局、全ては僕の眼差しに帰属していた。美しいことも残酷なことも、全て無償で現れるのだ。遠くから。それは途方もなく遠くから。

 

 相変わらず生活は面白くなく、創造性は欠落していて、僕は二十数年の間に捏ね上げられた自分の傾向性に辟易している。天才にだけ許された充足があるのだろうし、それは僕には手が届かない。こんな風に恩寵は静けさを与えるだけで、表面的な不協和音が消え去る瞬間なんて、この程度の気休めなのだろう。周囲を見渡す限り、死にたくなる程に重苦しい何かは見当たらない。それは有難いことだけど、それでも僕は基本的に死に惹かれている。何も変わりはしない。

 自殺に必要なのは苦悩でも、絶望でもなく、意識の軽さだ。勇気すら要らない。むしろそれは邪魔なのだ。こんな調子なら、死ぬのは余りにも簡単そうだ。と、ふんわり思った。

 

解除

 すぐダメになりそうだけど、出来るだけ毎日書く。そうすれば書かれた内容は自ずと、その日に偶然そう感じただけというニュアンスを含むようになる。これが数週間に一度となると、一回性の成長やら思想の変化やらといった趣になり、内容が煮詰まって重苦しくなる。一撃で現在の自己を説明しようとする様になり、ますます何も書けなくなる。そんなこと出来やしないと知っていても勝手にそうなっていく。さらに言葉を使わないと言語野が自省録(マルクス・アウレリウス)みたいになる。それはそれで笑えるかも知れないけど、僕はどちらかと言えば、表現の本質は多様な変奏をすることだと考えている側の人間なので、それは芳しくないという訳だ。別に書くべきこともないけど、好意的に見れば、主張しなきゃいけないことが何もない程度には自由なのだ。人と毎日会ってる人ほど無内容な話を口にするように見える。そっちの方が気楽そうだ。

 

 

 以前より生きていて苦痛に思うこともなくなったけれど、愉快になった訳でもない。幾つかの個人的な問題を解決したつもりになったら、退屈が勝るようになった気もする。生活は順調にならない。習慣の問題ではなく病気の所為かも知れない。出来ることなら食事なんて摂らずに、光合成か何かで済ませたいとか、そういう風に思ってしまっている。食事にさえ気合いを要するのは生まれもった性格な気もする。立て直した所で、体を壊す度にリセットされてしまうことから刷り込まれた無力感かも知れない。ハッキリしているのは、自然体で生きていると僕は着実に死に向かって沈んでいってしまうということ。何とかやっていかなくてはならない。

 

 

 友人や恋人を作ること。他人より良い結果を出して、誰かに勝利すること。世の中の役に立ち、有用性を知らしめること。ある種の人間はそれらを健常さや優秀さの証だと信じている。そうすれば自分に訪れた恵みを、有り難いと感じられるだろう。意味と基準さえ設ければ、もっと下の連中がいるという理由で、抽象的な存在に、例えば神に感謝することだって出来るだろう。これは良い場合であって、悪い時には彼らは弱者を排撃しようとするだろう。多分でかい事故や病気に遭遇するまでは、そんな風に死ぬまでの時間の大半をやり過ごすことも出来るのだ。

 意味も基準もなしに満足することは難しく、出来事に対して素直で透明な喜びを感じる為には、まず何より自分自身がユニークな存在でなければならない。自分の機嫌を自分で取らなければ他者と上手に関わることが出来ない、というのは正しい。目の前にあるものが退屈ならば、それは僕自身の陳腐さを反射しているのだ。どんなに素晴らしい光景を目にしても、どれだけ人間関係に恵まれても、そいつはずっと付き纏ってくるだろう。逆に自分で自分の機嫌さえ取れるなら、その他の凡ゆる報酬は、純粋にボーナスとして出現することになる。そういう人は稀にしかいない。たぶん本物のエンターテイナー。たぶん本物の詩人。

 

 上等な存在になろうとしてはいけない。可能な限り比較を絶すること。どこにも辿り着こうとせずに直感で道を曲がること。既視感の元に一般化せず、ゆっくりとページを捲ること。僕には大した知性も才能もないから、堕落していると、完成された作品は一日で既存のガラクタに成り下がってしまうし、生きることは退屈さからの逃避という側面ばかりを主張するようになる。

 理想的な幸福と見做している状態に永遠に近付けない絶望がどれだけ強くても、空が綺麗とかいう瞬間ごとに、意識そのものを解除して生きていける人間になること。そうなりたい。

 

オタクと海に行くなどした

 先日ツイッターで知り合ったオタクと海を見に行った。オフ会というやつ。

 

 普通のブログっぽいこと(?)を書きます。

 

 先週にもひょんなことから仲良くなった東大生のオタクと会ったばかりだと言うのに。注目すべきは、マジで人と遊ぶことが少ない僕に、一週間に二度も交友的なイベントが起こったという事実だ。ちなみにオフ会は人生初です。

 今回会ったのは早稲田のオタク。何の捻りもないが、二人とも頭が良い。巡り会いに感謝。おかあさんに自慢しよ。

 

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 どこに向かうのか知らされないまま、君に連れられ辿り着いた海は、しかし生憎の曇天の為、ハチャメチャにエモい訳ではなかった。そのことを冗談まじりに伝えると、君は少し哀しそうな顔をした。

「いや、こういう海も好きだよ。ほら、アンゲロプロスみたいでさ…」 

 僕はそう取り繕ってみたが、君は映画には疎いらしく、そっぽを向いてしまった。

 「私があげられるのは、これくらいで全部」

 少しの間があって、戦場ヶ原ひたぎの台詞が聞こえてきた。化物語のラストシーンだ。

 だが隣を見ると、そこにいたのは長髪ツンデレの女子高生ではなく、オタクだった。

 

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 ところでオタクは写真に撮られるのが嫌いな生き物だ。

 どの写真にも人間がいないから、実際にオフ会をしたのか怪しくなってくる。

「本当は一人だったんじゃないの?」

 そういう疑惑を僕にぶつけるのは止めて欲しい。僕も自信はない。

 

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 代わり映えのない灰色が続く。ある種の美しくない死に方の様なものを連想させられる。

 歩きながらVtuberやネタ・ツイッタラーやエロ漫画について話した。虚無だ。

 

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 この辺りには何もない。見捨てられた土地なのだ。

 彼は言う。「東京で最も"終わり"に近い場所だ。」

 (ちなみにこのセリフは6回くらい聞いた。)

 

「ここはギリギリで東京?」

「ギリギリで世界だ」

 なるほど?

 

 だけど終末の地にも美しいものはある。一筋の希望だって見えてくる。そう信じて俺たちはここまで来た。そうだろう?

(この先めちゃめちゃ歩いたけど行き止まりだった。)


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 何だかんだ言っても海は良い。

「人生初の海はポケモンだった。」

「おおー、我々の時代的感性を見事に表した言葉ですね。」

 それはそうとフナムシが大量にうじゃうじゃしてるのが見れて素晴らしかった。

 

 

 はい。

 

 

 帰りに食べたトンカツはトンカツの味がした。シモーヌ・ヴェイユの良き読者である我々は食に疎かった。

 

 

 こういうのって何を書けばいいんだろう。書き方を根底から間違えたっぽい。終わります。

 

 オタクと話すのも高学歴と話すのもインターネットの人間と話すのも全然経験がなくて、何が正解なのかさっぱり分からなかったが、この日を境に相互ブロックになった訳じゃないので成功ということにします。

 

 

 平成最後の夏は最高の夏になりました

 

 ありがとうございました。

 

 

 

 おまけ

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 一回目のオフ会が僕の誕生日だった為、オタクがプレゼントしてくれた花束です。花束を貰う機会なんて普通ないので、凄く嬉しくなったから見て欲しい。値札の部分とか。

 

 

 

 

 みんな夢でありました。