未詳まで

同じ人

収束

 これまでと違う言葉を使おうと思う。いや、そんな心構えは無意味で、だって同じ言葉を使おうとしたことなんて一度もなかった。線引きをするのは馬鹿馬鹿しい。これまでとこれから、それがずっと続いていくだけだ。ただ、もう少しだけ普通の文章を書こうと思う。余りにも漠然としているけれど、とにかくそう思う。単なる日記、日々のこと。哲学ではなく言葉遊び。深刻になったり、軽率になったり。偶然目に付いたニュースや、読んだ本のこと。今日あったことや、人と話したこと。失敗したことを語る時も、まるで笑って誤魔化せることであるかのように。愚痴を言いながらも誰も憎んでいない人のように。これからやりたいこと。気取らず、知的であろうとせず。病んだ人間の気負いを捨てて。かと思えば束の間もの思いに沈んだり、そんな人間的な、数々の、差し当たって目的もないあれこれ。こうして言語化すると、そんな凡庸さすらもイデアの様になってしまうので、意識は程々にして。

 

 ブログのタイトルを変えました。「中くらいの拡散」は自分自身の自我の拡散についての記述を旨にした、誰にも読まれないつもりで始めたブログだけれど、ごく少数ながらとても美しい文章を書く方々と相互読者になれたりして、絡んだりはしていないけれど、普通に嬉しかったです(なんでこんな改まった風なんだろう)。今は適当な対義語をタイトルにしているけれど、すぐに変えるつもり。別に文章を書くのが得意な訳でもないし、物書きになろうとしてる訳でも勿論ないから、気楽に呼吸出来ることが一番大切だ。そんなコンセプトでやっていきます。まぁ、精神の段落を一つ終えた様な気がしていて今はこんな文章を書いているけど、もしかしたらそれも嘘かも知れないから何とも言えない。

 

 僕は今では目の前にあるものを美しいと思うことが出来る。世界は色鮮やかに廻り続けていて、僕はそこから弾き出されてしまってはいないらしい。僕がまともな人間になったとか、幸せになったとか、そんなことはなくて、ただ目の前にあるものを普通に眺めていられるようになっただけ。達成と呼べるようなものじゃなくて、本当にそれだけのこと。

 僕の感情が死んでいる内に消えてしまった人がいて、消えてしまったことさえ思い出として心に刻まれてはいなかった。それ程に感情は死んでいて、時間は無機質に通り過ぎて行き、毎日行くべき場所に通っていたのに、自己認識は今まで一歩も外へ出たことがない子供そのものだった。手で触れられるものは影のようになって、即座に遠くへ消え失せてしまった。意味を与えられない記憶に対して忘却は容赦しないから、僕は霧の中で朦朧と死体をやっていた。

 無色透明な出来事の数々を、壊れた記憶を、繋がらない人生を、どうやって取り戻すことが出来るだろうか。そんな問い掛けが芽生えた時には、罪責感と虚無に潰されていた。自殺しようとしていた。けれど生きている。今では何事もなく語れる過去。

 

 解釈することを暴力だと感じていた。どんな内容も、表現されてしまった途端、物の側に属するようになってしまう。それは広告の様に各々の幻想へ意味を貸し出すだけだから、ナルシシスティックで、許されない行為だと思っていた。人はその人が引き出せる意味だけを引き出せば良いだなんて、そんなことを知らなかった。昔聴いていた曲を改めて聴いて、こんなに良い歌詞だったんだ、なんて始めて気付いて、涙を流すなどしている。かつては僕の感情が終わってることを知らしめただけの災害も、ニュースなどでふと目にして泣いてたり。一過性の感激症。

 

 僕の理性を破壊するものは世界に属するが故に無限、僕が考え得ることは人間的であるが故に有限だ。そんな訳だから解釈は行われた瞬間に崩壊の危険に晒される。人間は物語が壊れてからでなければ対応出来ず、予め用意出来る万能薬は存在しない。ずっと予兆に備えようとしていたのに、世界は盲目の意志に貫かれていて、悲劇は常に外部から、不意打ちで襲ってくる。

 けれど僕に出来ることは、僕が意味を感じ取ってしまうということだ。僕が選んだのではないそれ。僕がコントロールしたのではない感受性と理解力。僕は何も所有していない。僕は僕自身を他者として眺め、まるで贈り物の様に自分自身を受け取っている。僕はそこで初めて意識の過剰を止め、従順になれる。もう未来に身構える必要はないのだ。全てが無関係だと思うことも出来て、そう思わないことだって出来るそれ。何故自分がこいつなのか、なんて問いすら外から訪れて、ずっと変わることなく続いてきたそれは、たぶん悲劇と同じ無限の側からやって来た。何故そうなっているのか永遠に謎のまま、ただ見えてしまうというそれだけなのだ。僕たちは死に物狂いになってやっと歩けるのに、それだって簡単に壊れてしまうものなのだと自覚までしている。それでも眼差しが生き続けているのは、偶然によって、ただ幸運によってだ。そんな訳で、或いは語り得ない諸々の力の働きを借りて、僕は自分に、現在に出会うことを許した。

拡散まで

 どうして意味という意味が消し去られた世界に投げ込まれてしまったか。君はそう問うたね。勿論それは、世界に意味を与えてしまうと、たちまち自らの存在が悪や不要物といった観念に吸収されてしまう様な状況に、君が立たされていたからに他ならない。言うまでもなく未熟な意味ネットワークをしか構築出来ない知性にも原因はあったが(しかし中学生だった君に一体、何を要求できる?)、意味の喪失は始めから問題だったのではない。そもそもにして、君にとっては、意味とは対抗すべきものだったのだ。既存の解釈装置は役に立たないどころではなく、殆ど猛獣のように君を殺しにかかってきていた。君は追い詰められ、周囲に助け舟はなく、《物語》を殺さなければならなかった。その必要に駆られていたのだ。物語の粘り気ときたら、凄まじいものだった筈だ。それはそうだろう、僕たち人類は長い年月をかけて、君の様な人間を逃さない為に《これだけのもの》を作り上げたのだからね。君はたった一人で戦い抜き、いやに純度の高い独我論的主体の獲得と共に客観性の多くを瓦解させ、結果としては勝利を収めた。それなのに君に残された世界は、見るからにバランスを欠き、故障していたのだったね。君が行ったのがどれ程の放棄だったのか、その全体像を知ることは出来ないが、それは正視に耐えるものではない『存在の剥き出し』を出現させるには十分なものだったという訳だ。世界から意味が失われると共に、休む間もなく亡霊の侵入が始まっていた。残酷だが、それが次の戦いだった。だけど見誤ってはならない。どうやら思い違いをしているようだが、君は意味のない世界にただ受動的に放り込まれたのではない。君が望んだのだ。この殺伐とした、捩じくれた、吐き気を催す土地まで、君の足が歩いて来たのだ。結果を見れば不条理には違いないだろうが、これは紛れもなく主体的な選択なのだよ。だから『嘆き』なんて、らしくない真似はよせ。他でもない君が、何よりも増して、一切の価値が機能しなくなる、この無意味、この混濁を求めたのだ。だからもう、引き返すことなんてあり得なかったのだ。もし引き返せば、『意味』は今度こそ君を八つ裂きにしただろう。君は板挟みに遭い、差し迫った状況に立たされることになった。だから次に君が成し遂げなければならなかったのは、物語的思考と詩的思考の対立を乗り越えることだった。だけど、その話はまた別の機会に譲ろうか。いや、その必要はないかも知れないな。どうやらその話は既に済んでいるようだから。

変転

 土埃が舞うように、それとも楕円形の光が溶けていくように。十五階建てのビルの、右から六番目の窓を照らす太陽。一歩ごとに眩くなって行く光線。円盤から聴こえるアリアに呼びかけられたように、力ないビニルは幽霊のように吹き上げられ、二人の子供は水溜りに木の枝で模様を描いて遊ぶ。何もかもが穏やかで、最初は全てがこんな風だった。だけど五十七万回ほど変奏が繰り返された時点で、煙は漂うことを辞め、水面の揺らめきは固定された。きっと少しずつそれは始まっていたのだが、今となってはどう足掻いても手遅れだった。窓に映る景色は、一瞬間ごとに目まぐるしく、僕はそれを凝視するが、その変化を捉えることは出来ない。ポスターには、空の方を向き聡明そうな眼差しで宙を見やる、顔の良い青年が描かれている。それは確かに一人の人間の顔であるのだが、秘めたメッセージの単調さによって人々の視線は彼の顔を貫通し、暫く前に穴だらけになり、今では湯気のようになってしまっている。視線が移ろい、次の景色を見ると、そこにまたさっきと同じ男が写り込んでいる。昔の友人の中の一人のように見覚えのある顔。だけど懐かしくはない顔。記憶に定着することのない顔。父親のようであり、兄弟のようでもある顔。親しみを込めて僕たちを誘う顔。きっと二千年前から生きていた男に違いない。手触りのない顔だ。数秒も目を離すと、鼻は高さを変え、また長くなり、短くなる。目は眩しそうに細めたかと思えば、いっぱいに見開かれた目玉でこちらを睨みつける。口は閉じることがなく、両端は持ち上げられ、決して喋り続けることを辞めない。それぞれに特徴的な顔。覚えやすく、目に優しい顔。刺々しい顔。心温まる顔。尊敬を集める顔。ほんの些細な差異によって、世界を作り、一貫性を鍛え上げる顔。すみれ色、バーントアンバー、黄金色、チャイニーズレッド、立体派、遠くの方は少し白く、藤色、鈍色、水玉模様、花柄、めくらめく紋様。その先に、或いは交互に現れる顔。これら全てが果てしなく続いていく風景を、僕たちは猛烈な速度で走り抜けていく。ある臨界点を超えた時、太陽は凍りつき、全てのビルは狂ったように輝き、枯葉がアスファルトを転がることは二度となくなった。速度と轟音によって人々に時間の観念を伝えるが、もはや時間は前後のどちらに進行しているのか分からない。四方から広がる影は発進する列車、階段を降りる女、笛を吹いている少年を照射して、リアリティを奪い去り、一つの染みのようにしてしまう。顔はもう笑ってはいない。持ち上げられた口角は泥粘土の凹み以上の意味をもはや持たない。自動販売機に描かれた可愛らしい白熊が涼しさを、コカ・コーラが喉の渇きを誘発し、130という数字が金銭を思い起こさせる。しかし降り注ぐ光は視界を印象派の様に、すぐさまそれらを光景へと解体する。だが通り過ぎるたびに電柱、歩道沿いの樹木は回り込み、世界が三次元であることを告げ、光は斜めから差し込み、直線の数々は透視図法を示唆している。それも長くは続かず、眼鏡のフレームに反射した光が、或いは不自然に伸びた木の枝が視線を遮ると、遠くの屋根のザラつきは前面に押し出され、まるでバターナイフで塗り付けたようだ。消失点は定まることがない。車が通り過ぎるたびに、ヘッドライトとナンバープレートを繋ぐ三点は一つの顔貌を認識するよう脅迫し、色彩とパースペクティブは崩壊し、視点は運動を追って集中し、斜めに横切る。すると歩道橋のラインの滑らかな曲線が、僕に眼球の丸みと孤立を示し、空に浮かぶ雲が天蓋のように迫り来る。色彩は宙に浮き、世界中が斑点のようになる。しかし葬儀屋の看板に書かれた文字は死の概念を想起するよう促し、僕の意識は網膜であることを辞め、今度は言葉になる。燃えていく写真のように黒い穴が広がり、馬鹿みたいに巨大な主語によって画面は歪み、世界は皺くちゃになる。赤色の煉瓦はすぐ横の木の陰になっており、ピンク色と青紫色の微妙な揺れとなり幻惑的だ。しかしすぐ隣は光に晒され、直角によって立体感を強調している。裏側は明瞭な陰影によって地面と一体化し、くの字型のシルエットとなっている。部分はそれぞれに世界を持ち、爆発四散しながら感情であることを示している。数々の主義が脳裏を高速で過ぎ去って行き、瞬く間に諸世紀を通過して、互いに相反し、裏返る。景色は感情となり、観念となり、二十秒と持続することはない。見慣れた景色。懐かしい景色。どこかで見た景色。匂い立つ景色がある。それから悪魔のような景色。恐怖を覚える景色。恍惚とする景色。暗転し、空を切り裂く高音、そして鏡。一粒の粒子でさえ何かを叫んでいて、空気を震わせ、辺り全体と共鳴を企てる。木が揺れるならば風が揺れ、空は渦巻き、地面は隆起する。それは記憶のある一点を指し示し、その次の瞬間、調和は無残にも犯され、すると何かしら残虐な趣のあるまた一つの記憶が現れる。だが運動はそこで急停止し、再び目をやると蒼ざめた幾何学模様が浮遊しているだけだ。目を閉じれば色彩の残響はしっとりと、あるいはザラザラとして、幻想的であるか、それとも暴力的であるかするだろう。同じ言葉が何千回と繰り返され、しかし同じ対象を示す名前であることは二度となく、シールのように剥がれ、粉々に千切れて視界全体を紙吹雪のように覆っている。ぶ厚い雲が太陽を隠すと、唐突に不穏が訪れる。ガラス窓の炎のような光輝は消え、遠くのビルの青白い透明さは彩度を落とし、発色を殺された看板は広告的な素早さを失い、文字は目に届く寸前の所で地に堕ちてしまう。風が止んだ。何かがゆっくりになったように感じる。物は役目を終え、瓦礫か残骸へと変貌する。水平と垂直が入れ替わり、現実と虚構、夢と眠りが、電線の弛みに沿って、真っ逆さまに落下し始める。何者もこの力から逃れることは出来ない。大きな手のひらが底にあると信じている脳と身体だけが、点滅を繰り返しながらこの先ずっと、変わることなく落ち続けて行く。

愛していた訳でもなかった

 新幹線が加速して、サティのジムノペディを聴いていたから世界が遠かった。電子版を流れる文字を眺めていたら頭痛がしてきたから目を逸らした。僕には感じるべき感情や、考えなければいけない思考がある気がしていた。これではないもっと相応しい何か。音楽を聴きながら他の曲を脳内で再生しようとして、やめた。馬鹿げている。無意味に決まってる。瞬間、恐ろしいほど沢山の可能性が脳裏をよぎった。なのに僕は世界の遠さでしかなかった。そんなことが不思議だった。

 新幹線でサティだから世界は遠かった。速度は僕に突き刺さり、音は僕に突き刺さり、それは僕の隠された力だった。僕が意図していない、僕自身が狙い定めた訳でもない、僕に備わっていた偶然の感性だった。僕は世界の遠さになることが出来るのだと実証された。まぁ、実を言うとそんなことはとっくに知っていて、疑問なのは他の喧しい連中をどうやって眠らせたかだった。別に何だって構わなかったし、凡庸な気分だと思ったし、僕はそいつを愛していた訳でもなかったから。

 運動が、旋律が、色が、明るさが、柔らかさが、微笑みが、それらの在らん限りの組み合わせが、生成しては剥がれ落ちる意味が、砕け散ったものの中で束の間、平和のように訪れる。そんなありきたりな奇跡の時。僕は理由もなく消し去られていった全ての予感に手を振って、さよならをした。本当に何の理由もなかったから、悲しかった。どうしてそれで良しということにしたのか思い出せなかったけど、思い出せないままにすることにした。体が気体になったみたいに感じた。

自然な自明性の喪失について

 僕は映画を見ていて話の筋が分からなくなったりしない。YouTubeの下らない動画で笑ったりも出来る。音楽を聴けば、曲が自分の身体とどこかで共鳴していることが分かる。小説で作者の欺瞞や陳腐な図式性を批判することが出来る。文字の羅列を読み、それが理由もなく詩であることが分かる。このような可能な感受力の箇条書きが、あの心的状態を逆向きに照射することはないが、僕が言いたいのは、それらが出来るという知性の圧倒的な表面性は想像を超えて尊いということだ。この点はいくら強調してもしすぎることはない。僕にはそんなことさえ容易でない時期もあった。いつも人格の片隅で表面性を漂い続けることを留意するべきで、それが生活をするということなのだと感じている。

 

 『自然な自明性の喪失』はブランケンブルクが提唱し、木村敏によって輸入された精神分析の概念だが、この文章は特に勉強なんてしていない僕の個人的な経験による憶測の域を出ない。長く散らばってしまったし、別に何かが明晰になった訳でもない。

 

 失われた事物の表情、それがこれであるという感じの喪失はどのような事態なのか。認識された事物の表情の豊かさとは、円柱を真横から見れば長方形であるという様な誰にとっても既知である一つの視点のことではなく、百人の画家が百通りの円柱を描くような感じの多様性であり、さらにその中のある感じ自分自身と共にあるという感じだ。その欠落は、芸術やコミュニケーションの意味的な差異が認識出来るにも関わらず、全てが自分と等しく無縁である為に無意味になってしまう感覚となる。ニヒリズムのような絶望ではなく、為すこと全てが直ちにフェイクになってしまうような断絶。僕たちは感じの上で始めて判断を下すことが出来るらしい。

 それが与えられていることは多くの人にとって余りにも当たり前らしいので、誰も問題にすらしない。或いは多くの人は、そのように目まぐるしく事物を見ることが出来るという可能性を知らないのか、そうでなくても日常的にはそれをとても低く見積もっているように見える。人々の多くは芸術家ではないし、少なくともある程度は自明に従うべき意味が与えられる世界を生きているのだろう。

 そのような喪失とそれに伴う混乱はしかし、その始まりに於いて、表面性を秤にかけようとする試みによって生じてしまったのではないだろうか。僕たちが生活する世界では、事物は大した多様に開かれてはいない。意味の殆どをシームレスに運ぶ空間化された時間が、僕たちの思考を制限する。たがそこで行われる凡ゆる判定を、例えば芸術の様に開かれた無数の選択肢と平等に相対化して、感じの水準によって眺めてしまったならば。意味の違いであるべきものが、純粋に質の違いとして見做されてしまったならば。このような症状は事実、感じの差異を識別する感性にかけては鋭い人に多いようなのだ。

 僕なりにその内面的な状況を記述するならば、心からすっかり感じが消えてしまったのでは決してないように思う。むしろ数え切れない程の感じを俯瞰してしまい、そこに優劣が存在しないことを誰よりも知悉している頭脳から、評価を下す判定だけが消えたのだ。つまり心の中には余りにも沢山の感じが並列していて、選択を絞り込む無意識的な機構が欠如している。それは主観しか存在しない世界に於ける主観性の欠如と言っても良いと思う。それが日常生活の様に自明性に満ちた世界で特に危険となる、未知性の不気味さという事態ではないだろうか。

 或いは、これこそが己であるという一つの質に肉薄しようとするあの探求の意識的な眼差しが、この惑乱へと至る後押しをするのかも知れない。だがそのようにして沈み込もうとしている深みは、生活する人間が呼吸をする場所ではないのだろう。それなのにそこに留まることが出来る人がいる。そこが本当の自分の住処なのだと思ってしまう人がいる。だけどそれは芸術を生きようとした筈が、芸術を生活してしまったという誤ちだったのではないか。だとすれば、今度は自己消滅の恐怖に逆らってでも、捉えられないものを捉えようとする意図を低下させていかなければならないのではないか。感じは、身体の声は、本当の意味で死んでしまいはしないのではないか。

 感受性はその深みを失くしたのではない。その逆だ。表面性をこそ斬り裂いて細切れにしてしまったのだ。感じを失ったのではない。世界の全てを感じの水準で考えようとすることにして、痙攣してしまったのだ。そうして思い描く限り可能な世界全てに向けて注がれる眼差しの過剰が、自分自身の目を焼いてしまったのだ。僕は想像するのだが、自然な自明性を失うに至った彼らは、決して何者も断罪しようとはしなかったのではないか。彼らは不可知性を前にして、自らの倫理すら手放してしまわなかったか。そして彼らの境界を揺らす資質は、何らかの衝撃によって暴走してしまいはしなかったか。

 

 

 事物の表情。それは追い求めれば消える幻であり、影こそが実体であるような蜃気楼だ。立ち止まらなければならない。現れた形象は、直接に与えられたのであり、それ以外の何者でもない。僕に感じられることも、考えられることも、根拠なしの賜物だ。一歩でも近寄れば、それは奇妙に形を整えて擬態する。記憶のコレクションは骨抜きにされた素材でしかなく、そこで参照される質感は平板に均されている。決して意図するな。それが見える時、知性を働かせるな。「これが自己なのだ」と口にするな。それが世界へと成長することはない。一貫性へと進化することはない。自己意識とは、開けようとすれば閉ざされる扉なのだ。これは明白な経験であって、禅問答などではない。リアリティは形象にそのまま突き刺さっていて、それを見る時、僕たちは既に自己意識へと到達している。朝日が射したなら、朝は来たのだ。

野蛮なもの

 人が他者に何らかの説明を求める時に多くの場合、自動的にある一つの暗黙の主題を設定してしまい、その時点で関係性は硬直に陥っている。それは時に最も下品な、しばしば権力を握る者による、意図的な弱者への圧迫であることもあるが、他方では自由なやり取りが封殺されて行く息苦しさの中で、ある日突如としてバラバラの身体性となって噴出する強引な論理空間ということもある。後者の場合、彼らの意図とは裏腹に、そのように真面目な空間の中で、対話はすぐさま挫折してしまう。そこで行われるのは一つの岩ともう一つの岩の衝突のようなものになる。その時、両者は論理空間を共有してはいない。論理とは前提となる経験によって歪曲する特殊な空間であって、誰もが等しく参加できる一本の予め整備された道ではない。その時、分断された空間は、衝突によってのみ統合され得るかのように我々を急き立てるだろう。どうやら我々の理性は目の前の分断された状況を、立ち止まって眺めることに耐えられないようなのだ。

 言うまでもなく、もっとも野蛮な低い次元の統合性は暴力であり、それ故に暴力に於ける関係性の構造はもっとも明瞭だ。その次に低い次元が論理的説明の要求であるように見える(その差は歴然だが)。そしてより低い次元の統合性は、より高い次元の統合の可能性をなし崩しにして、相手を同じ土俵に容赦なく引き摺り込む力を持つ。仕掛けられた相手はそれを根底から拒否する権利がない。例えば暴力において一方が殴りかかったならば、もう一方は防衛をしなければならない。可能な選択は闘争か逃走に限定される。

 多くの人は論理的説明の破綻から暴力へと至る野蛮性ならば認識しているが、自由な対話から論理的説明へと至る野蛮性を正当な方法として見做している。それよりも高い次元の事となると下手をすれば感知さえされない有様だ。確かに、異なる次元でのコミュニケーション(暴力含め)は、それぞれ機能を、全く異質な機能を担わされた方法に見えるので、次元間の移行は何らかの問題を解決する上で必要な秩序のようにさえ見えてくる。もちろん論理(場合によっては暴力も)の有効性を貶める気など誰にもない。だが高い次元での対話の現実的な挫折が、我々に論理を要求し始めるという側面を忘れてはならない。そして高められた空間でしか、凡そ相手の人間性など理解出来ないのだ。

 好きな女性を必死に説得しようとする哀れな男は、ある特殊な高い次元でのみ生き生きとしていた、豊かな兆候を野蛮に消し去っていく。そうした場面の想像は容易い。兆候は説得のように単調な図式的コミュニケーションを生業とする男にとってはある種、神懸かりなものにさえ見えるだろう。それは確かに詩的だとか霊的だとか形容される。だがそうした兆候は、より豊かな対話を可能にする、我々に備わっている認識の形式の一つなのだ。もちろんそれは、余りにも豊富な可能性を含むために、誰にとっても困難な形式であるには違いない。

 

 低次な空間に感性を隅々まで塗り潰された人間が窒息感を免れ、それを成熟などと思い違いをして、ぶくぶくと自惚れているように(ときどき)見えるのだけど、さて、そうなってしまった人間に、芸術は薬になるのか?いや本当はそんな悲観的な事態なんて全然なくて、誰しもの心が他の者には想像も付かないような、決して穢され得ないユニークな豊かさに開かれているのかも。全か無かの思考が過ぎる気がしなくもないけど…。

 僕は筋金入りのポエマーなので(?)こういう主観から外れた文章をぼんやりと書くのはこれで最後にしたいと思います。多分。

色んな音に聞こえる長い溜息

サルトルは『存在と無』の中のもっとも見事な個所で、他人の実在という次元で、眼差しを機能させています。もし眼差しがなかったとしたら、他人というものは、サルトルの定義にしたがえば、客観的実在性という部分的にしか実現されえない条件にまさに依存することになってしまいます。サルトルの言う眼差しとは、私に不意打ちをくらわす眼差しです。つまり、私の世界のあらゆるパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序づけるという意味で、私に不意打ちをくらわす眼差しです。


 既に何度も繰り返された話だが、自らの理性の正しさを保証するものはこの世界のどこにもないのだ。何故ってこの世界を構築しているのが僕自身であり、正しさを与えようにも自己循環しているのだから。狂人との、面と向かっての対話を想定してみるが良い。自分の認識している世界について、君と違った仕方で確信している、そんな信念の狂人との対話を。もちろん狂人というのは説明の為の極端な代表に過ぎない。すべて他者の眼差しは僕の世界に不意打ちを食らわせる。むしろその限りにおいて他者は眼差しを持っていると言って良いだろう。この地点でサルトルの言う、眼差しの決闘が起こる。断っておくけれど、決闘と言ってもそれは単なる力比べではない。これはある主題に於いて己の優位性を証明する、そんな限定的な闘いではないのだ。狂人の例に戻ろうか?いや、聡明な君のことだ、その必要はないだろう。ここでいう他者とは、ある社会的ヒエラルキーの代表者などではないのだ。他者の眼差しの恐怖とは、「君のことなんて、君が思ってるほど誰も見てないよ」などという自意識過剰くんに対する言葉に慰められるような、あの惨めったらしさなどとは無縁なのだよ。そのような他者は、言うなれば自分自身の鏡でしかないのだ。アアッ!そんな程度の不安ならばどれだけ幸せなことか!自分自身の認識している世界の枠組みを乗り越えてくる、あの恐るべし眼差しよ…。そうそう、こんな文章を書いている僕も、確信を持った狂人かも知れないね。何せ疑惑すら、眼差しの前では平等に崩壊の危機に晒されるのだから。