すべて一つの生き物は

 誰もそれを言葉に出来ないし、言葉にした所で僅かばかりでも意味あることは伝えられないということならば、分かり切っている。僕たちはすぐ隣にいる人とさえ、感情を共有しているなどと言うことは出来ないのだ。だけど現にそれが起きているこの世界で、僕に確信出来ることだってある。例えば自己と他者のあいだで、触知することの叶わない無限の中間地点に、誰でもない者の声がいつも微かに谺していること。

 

 きっと始めは彼、一人の奏者の意図から外れた音色の、何か違和感のようなものだ。他の人もまた同じようにそれを感知しているのか、決して確かめることは出来ない。にも関わらず、あるかないかの気配が消えてしまわないように、全ての奏者が自らの呼吸を僅かに注意する。誰もが同じ一つの、たぶん外からやってきた声のトーンに耳を傾けていることを、このとき僕たちは既に感じ取ってしまっている。理由は分からないけれど、この予感にはそうした求心力があるのだ。そしてそれは起こる。何が契機となったのか、発火や沸騰のように突如として。僕たちに理解出来るのは性質が変化したという、ただその結果だけだ。はっきりと分かる、『あの瞬間』に何らかの閾値を超えたということは。それなのにすべてが終わった後で、一切の印が残ることはない。だってそれはただ一度しか起こり得ない現象なのだから。

 それは余りにも遠くから聞こえて来るので、あたかもあらかじめ僕の胸の中で響いていたかのようなのだ。兆候はそこにあり、しかし誰がそれを掴んだという訳でもなかった。気紛れな風が合図となるのを、たぶん皆が期待していたのだ。何故なら純然たる偶然がないとすれば、異なる意識が一致する瞬間を、誰に思い浮かべることなど出来るだろう。すべて一つの生き物は、こんな風にして息づき始める。心と世界の真ん中で。音楽が生まれたのだ。

夜を思い出す

 かつて手を伸ばせば届く距離に、暗闇は横たわっていた。記憶はゆっくりと薄くなっていく。はっきりとよく見えず理解しがたいものならば、あっという間に。定かならぬ恐怖と混乱の生々しい記憶は、良くも悪くも想像以上の速度で消え去っていく。僕たちには何か別の回路が必要だ。非知なるものを思い出すために。

 何故だったのだろうと考えるけれど、車窓から眺める風景のように遠ざかっていく感覚だけが……やっぱりそんな綺麗なものじゃなくて、ただ自分がそこにはいないという、断ち切られているという、孤独よりも具体的な手触りだけが記憶に、身体にこびり付いている。僕は誰とも出会えなかった。いや、それは嘘だ

 

 眼に浮かぶのはあり得たかも知れない可能性。たぶん掴むことは出来なかった機会。もっと大きな幸運。或いはさらに残酷な不条理。取り返しの付かない事故。自分が選んだように見えて、外から決められていた必然。こうであったならと想像してみることが出来ること。もはや夢見ることさえ不可能なこと。巡り会うはずだった人の、目に見えない顔。病気ではなかったかも知れない自分の、決して聞くことのない喋り方。体験することのなかった、あの人と気楽な時を過ごす気分。触れることはない。彼ら、すぐ隣にいたかも知れない何人もの僕の中の普通に、この僕の手が触れることはない。あるかないかの対象を意識することは決して出来ず、思い描く僕がいる限り、想像力は外部へと突き抜けることはない。こんな風に巨大に膨れ上がる憧れはたぶん風船とよく似ていて、中にはいつも空気が詰まっているだけだ。

 

 問題は、はっきりしていない。無限に遠い他者。理解することの叶わない自明性。演技と同化。何故笑うのか分からずとも笑えるように慣れてしまうこと。僕以外の者もまた同じなのかと問わないようにすること。表面を撫でるだけの娯楽だって、全く楽しくない訳じゃない。僕の本質が暗い奴だなんてことはない。分裂していたって良いんだ。その時その場所でだけ、優しくて礼儀正しい人ということになれば完璧だ。何を隠すためなのか。もしかしたら空虚さを。分からない。そんなことはどうだっていい。

ことの記憶

 僕は何かをしてきたし、誰かと出会ってきたけれど、経験の中で繋がりが断ち切られてしまっていて、喩えるなら何かの一貫性を保つために「何もない人生だった」と言わざるを得ないと強制されているかのようなのだ。実際に関わってきた人のことを思うと失礼だとは思うのだけど、記憶が意味から置いてきぼりにされてしまうのを、どうしても止められない。

 僕の人生が事実として、実質的に、取り立てて言うほど空虚ということでは多分ない。何かを探しているという感触だけが残っている。何かをなかったことにしている。そう思う。

 

 記憶の事象が「私はあなたにとって存在しないも同然だったのか」と問う。

 

 『始めの位置』に立った時、僕の手元にあるのは異常な熱量と執着心だけで、可能性すら信じてはいなかった。

 かちかちと脳の配線を切り替えてゆく、絶望的に気が遠くなる作業。言葉を糸にする。体の内を流れるものの幽かな気配だけを頼りに、存在するかどうかも分からない針穴に向けて。どこにも触れることの出来なかった物語はバラバラに砕け散って、他者の眼差しに貫かれて死んでしまった。何かを間違えた。頭では理解出来そうもない何かを。グロテスクな仮面が幾つも出来上がっては、付けてみることさえせずに割った。

 

 その仕事を僕はやり遂げたわけではないのだろう。それなのに自分がぼんやりとした平穏に落ち着いてしまいそうなのが怖い。平穏は自分の力で獲得したものでもなければ、苦痛の証明でもないかも知れない。

 考えもしなかったことだ。自殺を思うほどに強い感情は、ほんの僅かな間だけ許されている。ただーーーのことを、今でも僕はこの人生に起こった出来事として、確かに組み込めてはいないと感じるのだ。どんな納得があり得るのか未だに想像も付かない。まだ回収出来てはいないのだと意識し続けなければならない。それは実際に起こった事だ。自分の何割かを分断させて、どこかの地平に置き去りにしたことさえ忘れてしまわないように、えらく感傷的な言葉をここに残しておく。もう少しだけ答えを出すのを延期する。

 

 もし意識が変容し続けるものであるならば、答えのあり得ない問いかけは、すがたかたちを変えながら決して消え去ることはなく、何度でも。(これは祈りだ。)

青色だったと気付く

 僕たちがお互いにいてもいなくてもいい存在でしかないという事実は、当然のことだって受け入れている。そんな関係は、或いは少し淡白なのかも知れない。いつだって世界は僕抜きで旋回している。そんな風に感じてしまうのは、目の前のこの人も、この人を含む景色も、いつか世界の概念に溶けてしまうことを知っているから。ついこの間まで星や夜景の仲間だったものが、ふいに僕の手を引く。人々はそんな風に立ち現れては消えて行く。

 夕日が建物の隙間から細く差し込む。テーブルクロスや飲みかけのグラスに反射した光が、こんなにも鮮やかな橙色に見えるのは、補色の効果でもあるのだろう。僕は世界が青色だったと気付く。今この瞬間が時の時だと分かることは幸運で、いつも遅れて来る感情が、空っぽの間に通り過ぎていった時間をきっと、埋めてくれるだろうことを願っている。

或いは眠りながらのようにして

 表象から別の表象へ。有用性なのか、それとも芸術的な、あるいは神秘的な、目的は分からない。だけど僕らは何かを望み、何かから望まれるだろう。そして裏切られるのだ。僕たち自身が表象の一部なのだという事実によって。僕たちの内で何かは存続し、何かは滅びる。投げられた賽の目は、問題にすらならない。

 僕たちは表象の、その奥を見る事はない。そこには何もない。何かが目に映り、欲望と呼ぶものによって、与えられた尺度によって、承認する事。それか嫌悪する事。対象は変わるが、形式は変わらない。僕が何かを成し遂げたなら、その事実によって、それは認められる。それとも認められる事で、成し遂げたという事になる。そして僕は生きられるだろう。僕は勝利したのだろうか。そうではなく、怪物の背に乗ったのだ。ただそれだけの事なのだろう。誰かが、欲するものを欲する。僕は僕の欲するものを欲する。太古の昔から、連なる表象の歴史。それは刻み込まれ、時間を超える。或いは葬り去る。気まぐれの判定によって。それは在り続ける。

 無数の感情が僕の内面に映し出され、選択をする。僕が、ではない。だって僕が美しいと思うものは、どうしようもなく美しいのだ。誰も選ぶ事は出来ない。人間は消え去る。それはそうなっているのだ。

 生きているのは。移ろい、殺し、眠るのは。残酷なのは、言葉なのだ。僕はそれを、僕を傷付け、今も誰かを傷付けているそれを、利用する。快楽から、恐怖から。動機は何だっていい。餌食になるよりは、むしろ積極的に。或いは何も感じずに。何も考えないように。僕は今こうして生きている。

笑いが、夢が、そして眠りの中でおびただしい屋根が、残骸となって雨と降る......何も知らぬこと、果ての果てまで(恍惚の果てではない、眠りの果てだ)何も知らぬこと。

 きっと敗北なのだ。だけどもう抗う必要はない。それは決定された敗北だったからだ。現実を舐め尽くす事で、価値をそのまま転倒させられる。虚無も恐怖も、味わう事が出来る。それがこの世界の答えだという事。僕たちは何も知る事はない。僕たちは一筋の痕跡も残す事はない。この上なく完全に諦めて、それでも僕は、理由もなく何かを摑み取ろうとするのだろう。何かを捕らえてやろうと試みるだろう。無駄だと知りつつも、命令を受けたマシンの様に。次に来る感情を既に感じながら、駆り立てられて、約束された失敗に向けて、それは繰り返されるだろう。そうする事が定められているかの様に、死に物狂いで。或いは眠りながらのようにして。

物語の話

 公的言語は私的言語の比喩である。例えば、人生は無意味だ、と思う事は言語的な条件反射であって、そう思う時に感情に生じる直感は、人生が無意味であるという事実よりも遥かに恐ろしい地平まで延びている事があるのだ。公的言語は還元主義を暗黙の裡に含んでいる。膠着した意識の上で問題を解消しようとしない事。芸術と論理を区切る稜線は僕の目には連続的に見える。

 

 ある価値を妥当なものであると判定する事を主観的経験に還元してみると、その説明によって何かしらの安心感を覚える、という程度の事なのではないかと思う。大乗仏教を勉強してる風の人が「私は悪い事をしていないから、来世は幸せである筈だ」と自信に満ちた顔で言う。「だから死は怖くないのだ」と。だけど僕は勿論、(仮に来世を信じるとして)そんな風に納得する事はない。人間がある現象を現実であると認識するその射程は各自の推論の能力によって規定されていて、それが確かなものであると保障する事が出来ない以上、全ての人間は不可避的に罪悪の連鎖に参与させられていると考えるのが、仏教的な見地からすれば妥当だと思われるからだ。だから「私は悪を成してしまっているので地獄に堕ちるかも知れない」と考えるべきだ、と言いたいのではない(その不安は同様に陳腐だ)。そうではなくて、「私は自分の認識能力の外部で逃れ難く、既に悪を行ってしまっている」という方向で自覚を持つ他に選択肢などないのだと言いたい。縁起や輪廻とは、(少なくとも)そういう事態を表現しているのではないか、と思う。「自分は悪を成していない」なんて言う事は(咽び泣きながら言うのでなければ)思い上がりにしか見えない。なので僕はそんな風に安心出来ない。

 人間は欺瞞を排し安心を得る為に、推論を延長し、思弁的な体系を形成する。この時に心に留めて置きたいのは、欺瞞が悪であるという訳ではなく、欺瞞が不安を呼んでいるから、人がそれを退けようと試みているに過ぎないという事だ。正確には、直感に対して辻褄合わせが不足している場合に、人は不安を覚え、その説明原理を欺瞞であると感じる、という順序になる。真理の表現はいつも主体に折り返されなければならない。だから自らの無罪性を信じる事も、それ自体として間違いであるという訳ではない。少なくとも、僕はそう考える。

 

 ここから先は以上の事を踏まえた上での話。素朴に善悪の実在を信じていて、物語というファクターすら認識に備わっていない人間のナルシシズムに触れると、余りにも自我が脆弱なのではないかと僕は思ってしまう。子供ではないのだから、自分が世界の中心ではない事くらい直感している筈だが、勧善懲悪的な体系を解体するだけの思想的な体力がないので、何らかの具体的な褒賞が与えられると自分は間違っていなかったのだと結果論的に判定を下し、その度ごとに誤魔化して来たのだろうと推測してしまう。彼らの踏ん反り返った姿勢はそういう経験によって正当性を得た自信なのだ。そうしなければ自我が理不尽に耐えられないのだろう、と僕は思ってしまうのだ。彼らは善悪が世界に存在しない事を口先では当然の様に言うが、彼らにとって価値の正当性の不在は、目眩を覚えるような事件ではあり得ないのだ。コントロール不能な偶然性を支え切る世界の構築は、彼らの生に於いて実際的な課題ではなかった。それは単純に平和ボケを意味していて、そうでなくても世の中を見渡していれば、まず陥らないイデオローグだろうと思う。まったく、善良さなんてものは思考停止以外の何でもない。とはいえ、そんな事を他者に要求する事なんて出来ないし、僕は彼らの心が壊れてしまえば良いだなんて思ってもいない。その人が満足してるならそれに越した事はないので、結局これは僕が個人的に関わりたくないと感じているというだけの話なのだ(いつも通りの帰着点)。

 

 ただの悪口を書いてしまった気がします。全て気圧の所為にさせて下さい。僕はもうダメです。(書いてる途中で、そんなやつ本当にいるのか?という気分になっています。)

 どうでも良い事だけど、気圧が低い日はベートーヴェンピアノソナタを聴きたくなる。(気圧の低さとベートーヴェンの音色は似ている。)

白昼

 未だに電車に轢かれる夢を見る。眠っている時ではなく、ぼーっとしている時などに、ふと気が付くと自然に。僕は駅のホームの最前列に並んでいて、後ろの人間に突然、背中を押される。そして電車と衝突する瞬間、背中を押したのが自分自身である事を、僕は知っている。どうして、と思う。それと同時に、僕は僕自身を線路に突き落とす僕でもある。明確な狙いを持って、何か重たいものを背負わせて、吹き上がる汚物を託して、僕は自分の背中を押す。困惑と殺意。その二つの映像と感情を、並列的に展開して、同時に頭の中で感じ取る。

 一連のイメージは余りに繰り返し過ぎたので、もう殆ど僕自身から切り離しようがないものになっている。 こんな事を、こんな風に言語化する行為は許されるのだろうか。馬鹿みたいだけど、許して欲しい。誰に向かって頼んでいるのか知らないけれど。

 

 具体的な問題について考えなければならない、と思う。手遅れになり始めている。僕は酷く孤独で、始めから孤独だったから孤独であるという事を感じさえしない。かつて涙が出るほど欲しかった筈のものを見ても、今では何も感じない。諦めであると理性で判断しているが、それを諦めとして感受する能力はない。それが諦めたという事の意味なのだ。

 問題を純粋に抽象的な方向へ持って行く事は出来る。そちらの方向で解決を図る事なら、僕には出来る。深呼吸を二回もすれば、例の圧倒的な無関心の地平が薄っすら見えて来る。だけどそれは別の角度から見れば、いずれ追い付かれる規範からの逃避でしかないのだ。だから僕は少しばかり現実的に考えなければ。生きていくためには、考え方を変えなくてはいけない。しかし危機感も、焦燥感もない。僕は生きる事に関心がない。これが本来的自己なんてものじゃなくて、心の底からどうでもいいから、どうでもいいと思っているだけだという事を、僕は知っている。

 僕には何らかの基本的な欲求が欠けていて、だから日常に融和する動機を確保する事がとても難しい。手掛かりが見当たらない。有益性と人間関係を基礎とする凡ゆる価値基盤は、いつも僕を疎外して来た。僕は努力をした気がする。もっとも、人の事なんてさっぱり分からないから、自分は努力をしたと言い張る事なんて出来ない。感情の比較は虚しくなるだけだ。それでも、僕は努力をしたのだと思う。

 

 大学生は孤独が許される殆ど唯一の時間で、僕は孤独を達成してしまったので、この先どこかへ向かう理由が存在しない。今の所、と思いたい。いや、別に思いたいとも思っていない。

 

 抵抗があるけれど、僕自身の事。僕は恐らく、というのは正式に診断を受けていないので分からないのだけど、自分で少し調べた所、ASDの傾向がある。そして恐らく分裂気質に該当する。それから重症の、少しばかり常軌を逸して(と言っても構わないと思いたい)重症のアレルギーを持っている。このアレルギーが何もかもの元凶だった、と思う。ストレスが昂じて鬱や神経症や、感情面でも何か色々と併発している。全体として自分では良く分からない。精神科には行ってない。アレルギーの方は徐々に軽くなって来ている。

 僕の両親は、社会的な善良さと素朴さによって広く共感能力を代用しているが(と言うと聞こえが悪いけれど、どちらも立派な美徳であり、だから代用が可能なのだ)、他者を相対的に理解する知性は殆ど備えていないような人だ。彼らを呪うことなんて出来ない。何せ間違っているのは僕なのだから。

 

 一番苦しかったのは多分、高校時代。教室という空間の全てが耐え難かった。その中で僕という人間は、不快で、不自然で、どう甘く見積もっても存在しない方が良い存在だった。と言うよりも、存在しないも同然だった。乱雑な情報は全てノイズとなり、文字が上手に読めなくなった。人の話も聞き取れなくなり始めた。感情の殆どを消し、何も覚えられなくなった(だから本当に、学校の具体的な記憶が余りない)。一週間かけても歴史の教科書を数ページ暗記する事さえ出来なかった。僕は本物の、正真正銘の、無能になってしまった。もちろん波はあるけれど、どうしようもない時に試験日が重なると、殆どの教科を白紙で提出するしかなかった(記号欄だけ《ア》と埋めて)。

 それでも僕は自分を病人や異常な人間だと見做す事に付きまとう、生柔らかい欺瞞や陶酔の可能性に、激しく嫌悪感を抱いていた。自意識過剰なのではないか、馬鹿げた「フリ」をしているのではないかと、自分自身を疑うと吐き気を覚えた。普通という漠然とした精神的領土に雁字搦めにされていたのだ。僕は無知で、自分の苦痛を取り沙汰す理由がなかった。甘えているだけなんだ、と思った。混乱や殺意や希死念慮は、ただの厨二病の一形式なのだ。いつも笑ってる彼も彼女も、その内面は呪詛に満ちているのだ。僕が嘘を付くのが下手なだけなのだ。そう思わなければ耐えられなかった。人間がどれも同じ薄気味悪い人形の様に見えた。学校は(風邪や怪我などを除いて)一日も休まなかった。

 

 彼らの言う所の共感能力。彼らは世の中の全てが分かった気になっていて、最も狭量な一般論で気持ちを表現出来る。それは真性の御都合主義で、エゴでさえない、何の意味もない喚き声。もちろん本当はそうではなく、僕だけがその言葉の意味を読み取れず、処理出来なかったというだけの話だ。僕は聞こえてくる言葉の全てを遮断した。自分に敵対する世界の、何か重力の様なものを不足なく言い表す言葉だけを探していた。日常生活は惰性の力だけで乗り切った。

 

 不条理。 偶然。

 いつだったか、幾つかの単語が心の中に残留している事に気が付いた。そうした言葉の破片は、普通とは異なる不思議な響きがするようだった。けれどもその先に何か続けようとしても、拙い言語能力では、相反する感情と理屈によって、どれも予め否定されてしまうのだった。何もかもが自分自身に跳ね返って来て、僕自身を余計に傷付けた。

 世界は僕の鏡なのだ。

 煮えたぎる感情を封じ込めたまま、僕はこの時、帰結というものを放棄した。

 

 

 なんとか大学生になり、その心理的過程の全てを記述する事は到底出来ないけれど、なんていうか、僕は完全に折れてしまった。僕は乗り切ったのだから、もう大丈夫なんだと思っていた。自分を褒めてやりたかった。それなのに人の心は、そんな風には作られていない。ボロボロに尖らせた錆びの様なプライドで支えていた人間性が、音を立てて壊れるのは、ただ単に時間の問題でしかなかったのだ。

 

 

 ある日、講義の後、突然地面が揺れた様に感じた。地震ではない。高校生の時にも、いま立っている地面が突然抜けてしまう様な、そんな瞬間があったけれど、それと同じだった。以前の僕は、決して意思を曲げなかった。だけど今の僕は、もう既に沈んでしまっていた。

 風景が不自然に曲がり始めて、腐った様な匂いがした。僕はこう書いても少しも大袈裟な表現だとは思わない。目が回り、壁に手をつこうとして腕を伸ばしたが、そこに壁なんてなかった。バランスを崩し、瞼を閉じ、項垂れて、揺れが収まるのを待った。このまま地面に倒れて眠ってしまいたかった。

 その時、唐突に「回収しなければならない」と思った。

 正確には僕が思ったのではなく、彼らがそう思っていて、僕の目眩の中に感情が伝わっているのだった。

 どれだけの自己を抹消して生きて来たのか、もはや分からなかった。自分が一体、誰なのか判然としなかった。自分の体も、感情も、思考も、誰か別の人間の物の様に感じられた。僕は自分自身から弾き出されて、僕の中で異物だった。頭の中で、回収しなければならない、という声が響いていた。それ以外には何一つ必要なく、それだけが重要な事のように思われた。

 少し冷たい風が吹き始めた、良く晴れた昼の事だった。