無意味を

 全く誰とも出会わずに人生を終えることについて考えている。とてつもなく暗い考えだ。自殺を考えるよりもさらに暗い。何故なら自殺者はこの種の問題を考えることに敗北しているからだ。だから自殺を直接思うことよりも過酷なのだ。僕はそれを身に染みて知っている。今まで全く誰とも出会ったことがないといえば嘘になるので既にその仮定は僕の人生に於いては破綻しているが、現在に於いて何の痕跡も残っていないと言えば嘘でもない。そして「これから先」について言えば、勿論、全てを失うという仮定は誰でも可能である。

 今日はかなり抑鬱気味だ。こうあれば良かったと思っていたことのイメージがある。そうした希望の全てがノスタルジーで、ノスタルジーに対するノスタルジーで、それらは全て、僕のこの人生では起こっていないことなのだ。起こり得なかった。選択肢すら与えられていない。機会は平等ではない。そしてそんなことはもはやどうでもいいという感情が支配的になっている。友人はいないし、死んだら悲しいと思う人はいない。その様な感情を想定することは出来るが、自分のものとして扱うことが出来ない。物語の中でのみあり得る感情として楽しむのがせいぜいなのだ。もはや失われ現在との接点を失った神話を懐かしむことに等しく、人と人とが出会う物語から、人間という存在から、リアリティが消えてしまった。当事者の意識は消え、全ての情動はノスタルジーであり、夢と目覚め、虚構と現実の区別は存在しない。僕は他者を無理矢理好きになろうとする努力をしなければならないのだろうか。生きる為にわざわざ、低級な欲望に身を委ねなければならないのだろうか。

 僕には能力がない。何の能力もないのだ。だからこうした状況に陥っている。誰も幸せに出来ず、したがって僕自身も幸せになれない。一般論として、そして状況としての幸福の話だ。何も出来ずにのたれ死んでいく人の人生を悲惨だと断ずる気は僕にはないのだから。僕には生かすべき能力がなく、それはつまり社会的に生存するためのエチケットを持たぬということだ。何の役にも立たない人間は苦しみを味わい、抹消されて然るべしだという考えがある。こうした場合に於いては、程度の差はあれ能力主義は偶然性への配慮よりも強力な倫理である様に思われる。誰にも認知されることなく死ぬ人間が一人でもいる以上、福祉の精神が個人をどの様に救えるというのか?さて死ぬことの何が悪いのか。不幸な境遇の何が悪いというのか。それはどの様にして語り得るのか?僕はどんな時でも「誰にも認知されることなく死ぬ人間」を想定してきた。それが最も救われない人間の運命に思えたからだ。状況の改善はヒエラルキーを持ち込むから偽善である。こうでなければ幸福ではない、などという種類の救いはいつも愚かしい。幸福の鍵はとてつもなくシンプルであり、それは凡ゆる比較を絶することである。ただのそれだけなのだ。暗闇しかなければ暗闇を愛すること…そうではなく、暗闇を感じること。しかし暗闇にさえ執着しないこと。

 僕の人間性は社会と、他者と相容れない様なので恐らく近いうちに死ぬことになろう。僕は誰からも拒絶され、誰からも受け入れられない。僕は人が呼吸をする様に行っている事をどれだけ苦労しても気違いの様にしか模倣出来ない。僕には盲点があり、本質的な欠陥があるようだ。僕は人を傷付け、不快にさせる。恐らく表情や口調に人の神経を硬ばらせる何かが含まれていたのだ。僕はしばしば空気をぶち壊す。僕はアスペルガーの様に空気が読めない病気である訳じゃない。言うべき台詞を間違えたのは、本物の無能さによってなのだ。僕はごく簡単なユーモアが分からない時がある。他の人がみな笑っているのに、僕は注意力が足りなかったのか、それとも知識が足りなかったかして、さっぱり理解出来ないのだ。僕はしばしば人の話を聞き飛ばしてしまう傾向があり、それも関係しているだろう。人は僕を存在しないかの様に扱う。人は僕と話している時には親密さが消え去り、出来れば席を外したいと願っている様だ。会話は食い違い、意思疎通は成立せず、その場しのぎの、感情の含まれていない応答だけが空虚に響く。僕は被害妄想をするタイプの人間ではなく、その様な症状を引き起こす病気でもない。僕の理性は正常であり、観察眼も人並みに鋭い。だから目の前の相手の内心を表情や仕草から読み取ることくらいは出来るのだ。僕が避けられる原因は僕の方にあるということを僕はその都度知っているのだ。そして僕の方でも当然、僕のことを良く思っていない人に好意を抱くことは出来ない。つまり人間関係には相互承認という暗黙知が必要なのであり、だから僕は正直のところ、人と積極的に関わろうとする感情自体を上手に掴めないのである。そうした感情を抱くことがあるということが分からないのだ。僕はある意味ではまだ知らない感情を想定し、こうあるべきだと自分勝手に思い描いているのだろう。しかし当然、知らない感情に従おうとする試みは失敗する。積極的に関わろうとしてみることは出来るが、僕の本心にとって人は出来れば関わらない方が良いものでしかないのだ。誰もが全ての人に対して僕との様によそよそしく関わる訳じゃないことを僕は知っている。世の中には愛があり、親密さがあり、好意があり、欠点の許容があり、精神的な支え合いがあり、冗談の言い合いがあり、確かなフィードバックの実感を得られる応答があることを知っている。そしてそれらが尊いものなのだと僕は知っている。

 僕は人間関係に理想主義的な夢想を抱いている者なのだろうか。全ての人間関係は例外なく不愉快に冷え切っているだけなのだろうか?成る程如何に完全な関係と言えども全てが甘美である訳ではないだろう。しかし忍耐に値する積極的に価値あるものはそこに少しも見受けられないだろうか。一体、数々の物語、数多の詩篇は、人々を欺いているのだろうか?人々はただ闇雲に孤立を恐れ、仕方なしに、消極的な動機をもって、人間関係に「逃げ込んでいる」のだろうか?そうは思いたくないものだ。僕が自らを理想主義的な夢想家であると判断するには、僕の空想は苦々し過ぎるのではないか?

 ある人はある人にとって温かみのある存在であるが、別の人にとってはそうではない。そうした恣意的な選別による繋がりの輪が関係性に価値を与えている。つまり「これだけ人間がいれば当然誰かとは気があうだろう」という仕方によって、確率的に人は人と繋がっているのだ。誰かは誰かを愛し、そしてまた別の誰かを憎むだろう。それらはどこまでも、どこまでも無限に相対的なのだ。そして僕はいつどこにおいても、場違いで見当外れな例外者としての自分を見つけるのだ。そうした偶然性が引き起こす事実の集合こそが僕の無能の証なのだ。人は他者と触れ合う事によって共感能力を獲得するので、経験が生命への基本的な愛情を手にする為に必要な条件であるのだろう。愛は先験的ではあるまい。ともすれば関係性の輪から零れ落ちた者に対しては、如何なる慰めも不可能ではないか?社会から零れ落ちた者にとって、他者への共感に対する尊さは、もはや観念ないし制度上の要求としてしか存在しなくなる。しかし関係の不可能は一つの悲劇となるのだろうか。

 僕には全てがあってもなくても良いことのように思える。これは情動的な表現ではなく、還元主義の誤謬を取り除いてゆくことで必然的に至る、知性の結論である。何よりも、こうでしかない現実を受容することだ。ただ起こっていることが起こっているだけなのだと。命が奪われるような出来事でさえも、僕にはどちらでも構わない。何故なら全てが計り知れない因果の結びつき、運命的な力によって引き起こされているに過ぎないからだ。しかし感情は生理的なものであるから、それ自体を否定するつもりはない。だけど感情によって引き起こされる動機が倫理的に正しいという訳ではない。悲しいことは人間が悲しむこととして起こり、起こることは全てあるべきこととして起こっている。それだけなのだ。全てがフラットであり、何ものにも意味はないと感じる。僕は無意味の概念に、意味の概念と全く同じ様な仕方で積極的な価値を与えている。無意味を生きることと意味を生きることが、相対的に対等な一つの状態である様に、無意味が在り、無意味を生きること。僕はもうじき死ぬだろう。

 

(2017/3/12)

消し去る者

 全て共有可能な文脈を剥ぎ取られた共感不可能な他者はグロテスクに映り、嫌悪感を与えずにはおかない。であるから、他者への好意とは都合の良い思考停止が生み出す柔らかい幻想への隠遁でしかない。企てられた逃避。最も容易い幸福の方法。無償の愛であっても、その幼稚さに変わりはない。(無償である事が償いになるとでもいうのか。)好意とは脳内で生み出した形象のリアリティを伴う再現だ。ナルシシズムの危険を犯さない好意は無い。それに対して、他者性への敵意は自分にとって都合の悪い、適切さを欠いた思考に思われる。敵対する他者の中にも全ての人と同様に彼のユニークな意識がある筈だ。それにも関わらず人は、自らの認め得る一貫性を他者の内面にまで投影しようとして取るべき態度を誤ってしまう。このどちらも理性的とは言い難い。だがその中間には、機械的な分析と、無感動な異化作用しかない。この中のどれとも僕の感性は適応しない。人間的なものは現実にあって存在しないのだ。人間など少しも人間的ではない。偶然に支配された世界は拒絶的であり、自然な親密さはいつも欠如している。幾つもの矛盾に満ちた感性を背負っている僕には、感覚の中に居場所がない。

 個別的な対象への偏愛は、個人のどの様な内在的な欲求に接続されているか。我々の精神には、何か方向を持ったエネルギーが確かに存在している様なのだが、それが具体的対象を求め出した時、その対象は虚偽なのだ。我々が創造する偶像や物語の効用は、ある価値体系に没入することで自己肯定感を満たすことである。満たすものとしての偶像は、ただ信仰される事によって立ち現れる。立ち現れた偶像(友人とか愛とか平和)は、彼の自我の支えや拠り所だけではない。そうではなくて、自我の統一原理そのものでもあるのだ。愛が偶像からもぎ離される事によって生じる真空は、自分を支えてくれていた何かの死ではなく、紛れもなく自己そのものである所のものの解体だ。人は自己肯定感を糧にして生きているのではなく、自己肯定感そのものを生きている。自己肯定感は偶像への信仰によって生まれるのであり、信仰は習慣付けられているものの、信仰心そのものが独立して潜在意識に根を張っている訳ではない。であるから、偶像と信仰心、そして自己肯定感はそれぞれ互いに不可分の関係にあって、うち一つに生じた亀裂は残り二つを瓦解させる。

 慣習によってのみ自己肯定感の確かさが受肉される訳ではない。例えば幼少期に親に愛されて育ったという「事実」が彼の自己肯定感を生涯に渡って保証する訳ではなく、親に愛されていたと知っており、今なおそれを信じていることが必要なのだ。愛されたという経験だけが、彼に永続的な自己肯定感を約束するのではない。愛されているという現在進行形の確信さえもが必要なのだ。であるから信念に疑惑が生まれ、亀裂が生じたのならば、事後的であれ実存は宙吊りにされる。言葉によって過去の出来事の解釈は変わり、世界には解釈しか存在しない為、実際の経験が変化を被ることなく、トラウマは生成され得る。

 もし物心のついた時から刷り込まれた愛情や信頼を根刮ぎにする程に徹底的な自己否定に、自らを晒す事が出来るのであれば、彼は想像力によって世界の極限に触れるのだ。全ての具体的対象への愛は、満たすものとしての虚偽であるという極限に。偶像を退却させる事によって、己をその実質である虚無にまで剥き出しにし、無限に横滑りする価値体系の錯乱を目撃するのだ。

 自己肯定感を満たすことで生きる者は、都合の良い幻想によって現実を自らのスケールに合わせて歪め、その中に安住しているので、世界の実在に出会うことがない。何か対象を保有することによって自らの存在を許容する、これが「満たす者」の深層で起こっている企てである。「満たす者」は自分自身と自分の着ている服の区別が付かない。それが理解されるのは、実際に彼が偶像から引き剥がされた時のみだ。例外は想像力のあらん限りの酷使によって懐疑を試みる場合だけだ。だが「満たす者」のうち、誰がその恐ろしい結論を受け入れるだろうか。価値体系が崩壊するほどの異物は人間にとって存在しないに等しい。

 疑ってみることは誰にでも出来る。自分が不具であったかも知れないことも、自分の大切な人が存在していなかったかも知れないことも。「があるから生きることが出来る(或いは、幸福である、だとか)」と言うならば、それが欠損した場合に於ける可能性は当然、想像の範疇でなければならない。だが欠落を負った可能世界の自分の実存の全てを(それは自分であって他者なのだから)知ることは出来ない。現存しているこの自分の視点から、評価を下すことも不可能だ。可能な自己の人生全体を、現存している自己の持っている一貫性によって測り、優劣を定めることは出来ない。僕には「満たす者」の想像力は、常に優劣を測定するナルシシズムによって規定されている様に思える。であるから、同情や嫉妬が容易に引き起こされるのだ。そこには他者の他者性の欠除がある。

 親に愛されているから自己を肯定する事が出来るというのはおかしな話だ。或いは友人に恵まれているから、経済力があるから、地位や名誉があるから。このどれか一つ、或いは二つが戒められるべきエゴである訳ではない。全てなのだ。お金が無くても、愛情があれば良い、などと真理めいた口調で言う者は、実際のところ、ただ現世で程々の甘い汁を吸う為にはそれで十分だと宣っているに過ぎないのだ。彼が保有するものへの否定が、彼自身の否定となるような論理を全的に廃さなければならない。誰もが「そうでなかったかも知れない可能性」を持っているからだ。何もかもが奪われるという悲劇が現実に起こっていることを我々は知っている。始めから損なわれている者がいることを知っている。であれば何故、自らの所有物に自己の存在理由を仮託するのか。そして何故、そこにある種の一般性や普遍性を与える事によって、偶然的な所有物に寄りかかっているに過ぎない態度を正当化するのか。結局は自己そのものである事を恐れ、現実の悲惨から目を背けているのだ。我々は世界の中に余す所なく浸かっており、世界の一部なのであって、全て起こり得ることは等しく肯定されなければならない。

 自己の保有物を自らの想像力で消去すること。たかだか保有物でしかないものを基礎として体系を作り上げることで、矛盾を引き受ける事を放棄してはならない。体系への依存は無意識的であるから、最もタチが悪いのだ。自らの体系を破壊すること。自分は存在してはならない者であると思うまで、自らが寄って立つものを否定すること。自己肯定は信念への依存に他ならず、内発的な根源を持っているのではないから虚偽なのだ。

 もし全知の存在者がいたとしても、自分の見ている世界が何故その通りに存在するかについて答えられようか。この問いこそが真に深みを持つ。何かを良しとして何かを悪いとする一つの価値体系から、異なる何かを良しとして別の何かを悪いとするもう一つの価値体系へと移行する繰り返しから抜け出さなければならない。或いは不都合な出来事が起こるたび毎に上手く折り合いを付けて、価値観の改築を試みる事をやめなければならない。世界に正当性などそもそもありはしない。どの様な正当性もない無数の価値観の間を無限に横滑りしているだけで、我々は始めから一歩も高められてなどいない。どれも言い訳がましい保身なのだ。様々な価値観を持った人がいるのだと知性で納得するのでは足りないのだ。無数の価値観がまさに眼前に乱立して現れて来る浮遊状態まで、懐疑を続ける必要がある。「満たす者」ではなく、「消し去る者」になること。

(2016/12/23)

 通り行く群衆の一人を見定めて、彼だって本を読んだり音楽を聴いたり、自殺を思うほどの悩みを持っていたり、誰かを愛したりしている人物であるなどと考える必要性は、本当のところ見出せない。彼らが僕と似たり寄ったりの実存を持っていると、仮定する意味すらない。一生彼らと関わり合う事はないのだ。始めから接近する道は封鎖されている。僕の意識によって規格化された傾向性の束としてのみ、僕は彼らの存在を知っている。意識さえしなければ彼らは形も定まらぬ影に過ぎない。視野の外で既に消えかけている彼らが何を行おうとしているのか想像しようにも、それは所詮、意識による身勝手な妄想なのだ。確かに僕は、僕の意識の限界を超えて他者達の生きている事を知っている。しかしそれは経験的に、知識として、つまるところ永遠の憶測としてのみだ。恐らく僕らが見知らぬ他者に人間性を認めるのは、道徳的要請というよりもむしろ、社会的に合意されたルールに従うことで自らを守るためだ。自己を参照し、知っていると見做すことによって、僕らは何も知らない。僕は無知であることと知っていることの間に横たわっている無限を感じる。知るということは断じて外の世界を確立することでもなければ、対象に自意識の反映を見出すことでもない。そこには三人称の匿名性に包まれた灰色が、他でもない何者かとして生まれ変わる飛躍があるのだ。突如として知られること。脳内で発火する印象。もはや未知ではなく、それでいて概念の束でもなく、取り返しが付かない。誕生した何者かが、もしかしたら僕と良く似た存在であっても、それに気付くのは後のことだし、そのような類似性が問題ではないのだ。出会うことの非連続性に、如何なる論証も橋を架ける事は出来ないだろう。諸々の到来が僕に何を齎すのか、僕は知らない。

(2016/8/24)

風車

 雑文。

 

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 他人には出来て自分には出来ない、或いは著しく困難であると僕が感じることと、少なくとも同量は、他人の馬鹿げた盲目さに僕は失望を覚えている。だからそれは資質の偏りでしかないのだろう。

 才能は、もしかしたら全く有用性を持つことなく消えてしまう不毛な才能かも知れない。だけど僕はそこに途方もないリソースを注ぐつもりだ。僕はそれなりに高度なことをしようとしている。

 例えば社会性はゲームが上手いか下手かといった程度の問題と同等であり、その評価は人格にさえ届きはしない。テトリスが下手だからと言って、自分を無能だと思う必要はない。それなのに人は勉強や社交や恋愛の話になると血相を変えてしまいがちだ。誰もピカソを理解しなくて死ぬことはないが、身に付けなければ上手に生きられないこともある。だけど繰り返しそれは大した問題ではないのだと言い続けなければならない。(僕は社会適応出来てしまっているけれど。)

 諸能力から総合的な判断を下してはいけない。この世には数知れないほどの領域があるのだ。いつもゼロから操作方法を覚えればいい。才能はないかも知れないが。大切なのは常に真剣になることであり、にも関わらず、それが上手く出来ないということで何一つとして卑屈になる必要はないということだ。この一見矛盾した性格を乗りこなすこと。

 内発性がなければ他人に隷属することしか出来ない。それは端的に面白くない。退屈になると自殺したくなる。

 

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 概念はリアルではなく、概念化は生きた対象に死を与える行為であるのかも知れない。しかし概念は円環する知覚プロセスの一つの終局的な段階に過ぎず、それなしでは、この世はまさに地獄そのものと化してしまうだろう。世界全てが一挙に砕け散ることなど断じてない。我々の中に概念は残り続けることだろう。概念はこの世界を虚偽で満たしているのではなく、世界に形を与える作用として実在しているであり、それ自体として善悪や真偽とは関わりを持たない。というのも、世界はただ得体の知れない他者、膿んだ傷痕、不気味な怪物だけで構成されているのではないし、それらにリアリティを求めることもまた二元論から離れられないならば不毛なのだ。ある概念はいずれ打ち捨てられ鉄屑になるもよい。不安、切断の悲しみ、意味の不毛さに苛まれる時には、まさに鉄屑こそが新たなる与件となって、再び概念ならざるものが動き出すだろう。そして和解が生じ、退屈な日々が訪れる時が来るだろう。生活が安定した充足で彩られる時、表象が意味に繋がれて、対話可能な存在であることを示す確固とした顔と感情を伴い、まるで杭で打ち付けられたチラシの様な明るさをもって語りかける時が来るだろう。その余りにも有触れた空間が、しかし奇跡のような凡庸さであって欲しいと願う者のビジョンがあり、その輝かしくも穏やかな色彩は、またもや概念の名で呼ばれていることだろう。喪失に終わりはなく、名前を付ける行為が終わることも決してないだろう。

 

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 自分が間違っているかも知れないと疑い続けることは非常に消耗する。自己への疑いは確かに理性的な振る舞いではあるのだが、同時に迷信じみた世界にまで足を踏み入れることでもある。

 複数の立場を想像することによる葛藤とは別に、自己不信というものがある。自分の思考によって問題のある点を把握出来るが、しかしそれが自分の思考の枠組みでしかないことをメタ認知しているということ。人間は自らの思考の枠組みの外側を覗くことが出来ない。ただ外側が存在するということを、当然、経験によって知っているだけだ。このことを意識していることは、実際的な知の有効性とは何の関係もない。それは不安を呼び、人を慎ましくする。

 権力の獲得と共に内省が失われていくのは肯ける。本来コミュニケーションにおいて人間は誰しも平等である。もし一切の集団性を当てにせず、互いに異なる己の体系の正当性を主張するとなれば、どのように自分こそが正しいのだと証明することが出来るだろう。仮に一方に正当性を与えられるとすれば、それこそがまさに何らかの権力が作動したことを示している。


 たとえ悪を為すことになろうが、ただ一つの信念に従って行動する者が英雄となる。もっとも、ドン・キホーテになる危険は冒さなければならない。

 自我という問題に突き当たった人間が英雄性を取り戻すために戦後になって「賭け」という概念が取り沙汰される必要があったのだとも考えられる。

 そして、こうした逡巡の全てを承知した上で、なお何も考えていない者の純真さで決断しているかの様に振る舞わなければならないのだ、と感じている。

 

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 あたかもフォーマルな身振りが解除されるように現れる、先天的で自然な振る舞いであるかのコミュニケーションの作法は、その実、ある特異な関係によって形成された超自然的な構成物だ。

 肩の力を抜き、鎧を脱ぎ捨てるかのような印象を与える親密圏への移行は、より古く、より暖かく感じられる世界を切り拓く点で、芸術的創造に等しい。確かに我々はそこに「帰っていく」ように感じられる。だが帰郷とは常に逆説を孕むのだ。それは創発されると同時に、既に昔からそこにあったことになるのである。

 異質なものとの遭遇がなければ、世界に如何なる親密さも生じ得なかっただろう。それなのに我々は、一度それを認めるや否や、恐怖も知らず、苦労もせずに、それを知ることが出来た筈なのだと感じている。始原に向けた創発というこの矛盾を、我々は回復として受容するのだ。

 

砕け散った青色

あちらからはどんな意味の断片さえ

持ち帰ることは出来ないという

呼び声に応じることはなく

そして轟音が去り、雨音が戻ってくる

言葉を使って呼吸をする

それは偶然だと

分かってくれるだろう

導かれることはない

たとえ見覚えがあるにしても、この景色

真っ逆さまだ僕らは

大きな手のひらが底にあると

子供みたいに信じている

さらにこれからも

分かたれたまま

輝き渡る球面で

少しずつ影を薄くしていく家々の

音もなく飛び立つ鳥の

青空

どんな退嬰が許されているのか

眩いばかりだ

透き通っていけたらいい

いつも地に撒かれたガラス片だった

彼らは反映となって

 

線描

塞ぎ込まれたものを、暴力の核心を、変質されたイメージによって晒し首にすること。

それは凡ゆる文化の形成に関わってきた技能らしい。芸術は不気味なものとして生まれる。

それは平和の役に立つ?人々が涙を流す?それとも熱狂する?

色彩とリズムは断末魔を上げて、砕け散った。

内臓の迷路へ、自らを降霊する。

北極星に向かって、ひとり地平線を渡る。

危機を乗り越えるために?世界が狂っているから?神様は人間の叫びなんて聞こうとしないから?

自分自身もまた狂った世界の一部である。それどころか、狂気そのものなのだ。

僕が知っていることの総体、それは単なる知識を超えて、あたかも僕が食物を探して彷徨った道筋の、捩くれた足跡のようであって欲しいものだ。

恐らく永遠に、渦を巻く淀みの塊だ。僕としても果てしなく、そこに何らかの形を見出し続けるだろう。

かたち、それは一つの結末なのか?それとも再び一つの暗示なのか?

いつも同じ考えに至る。僕は孤立して、惨めに死んでいくだけじゃないのか?

根こそぎにされた土地を漂う、細く白い糸がある。それはもっとも深い溝にまで届き、もっとも弱くしか感じ取れないから、もっとも強い光なのだと分かるという。

 

赤と黄色

 比較的古いものではないけれど、過去に書いた文章。具象的に、毒性を高めて書こうと意図していたとは思う。露悪的な直接性と、言葉を目に見えるものに向けていこうとする不慣れな試みと。

 

***

 

 色々あったけど……みたいな語り口が健康の指標なのかも知れない、なんてことを思う。僕には何があったのかさっぱり分からなくなっている。そういう記憶や言語の機能が上手く働いてないから、実質として何もなかったに等しい荒廃した風景だけが見えている。

 

 たぶん健康に見える思考回路とか、爽やかに見える性格とか、適応的で、人の気持ちが分かるような表情で、世界を恐ろしい場所とは考えない自信とかは、経験値じゃなくて資質なのだ。彼らと接しているうちに、彼らがゲロを吐くような気分と常に闘いながら平気な面をしている訳ではないことが分かってしまうと苦渋だった。出来れば全員ゲロを吐いていて欲しいといつも願っていた。僕が持ってる感情を彼らの方でも持ってなくて、悪人は一人もいなくて、数の勝利で終わっていた。俯瞰してみると、色んなことを思ったりしてる人間ってみんな可愛い、みたいな気持ちがあって、こっちはこっちで終わっていた。

 

 何割くらいの人間が僕がクソだと思う連中のことをクソだと思ってくれれば世の中は変わるのだろう。クソなやつをクソだと思うのは一人でやればいい筈なのに、結局は数が物を言うようになってしまうらしい。

 

 僕の皮膚が腐ってるのはどんな因果とも関係がなくて、純粋に天罰なのだ。全身が焼けるようだった。数の力で物事の価値が決まってしまうのも純粋な天罰なような気がしている。社会の不正は許せないけど、世界の不正なら許せる気がするから、ある人はずっと闘争をしているけど、ある人は宗教をしているのだった。真実なんてどこにもなくて、解釈次第なのだ。僕はそこで何も解釈せずに立ち止まっているから、何も思うことはない。

 

 これから先、さらにグループは細分化されて、相対化されて、気の合う奴だけで集まって、それまでのことは全部なかったことになって内輪ノリで終わっていくのだろう。原罪の観念が胸をよぎったけど、深く考えなかった。

 

 頭の中から人間たるものが消え失せてしまっていた。誰かと会話をしているのは僕ではなくて棒人間のように平板なキャラクターになってしまった。頑張って自分自身に形を作り変えようとすると、気味の悪いもごもごとしたスポンジ性のマネキンのようなものが出来上がった。相手が何かを言うと、マネキンの表面がぶちっと割れて中から赤と黄色のドロドロしたものが吹き出して地面に垂れた。相手は喋り続けていた。マネキンからもう一度人間になろうとすると、今度は目の前にいる相手が突然テレビ画面の映像になって、僕は灰色の地平線にただ一人で立ち竦んでいた。僕は誰とも向かい合うことが出来ず、誰にも声が届かなかった。相手は僕にではなく空気に向かって口を動かしていた。僕が人間の前に存在しようとすると、やはり気持ち悪いもごもごしたマネキンになって相手と向かい合っていた。

 

 人と話していたら粘土だった。ぐちゃぐちゃ動いてるのを眺めていたら、実は粘土なのは僕で、相手は人間だった。ぼーっとしていたから、そういう白昼夢だった。皮膚病でアレルギーで怠かったし、面倒臭いし頭が回らなかったから全部が嘘だった。どこかで台詞を間違えたらしく後でお前は失礼だと指摘された。何を間違えたのか理解できかったし、何もかもを間違えているのだろうと決め付けて考えるのをやめた。

 

 感じなきゃいけない感情のフリをしようとしていたけど、病気で挙動が変だから失敗していた。演技力がなかったから人間的な生活は終わっていて、演技するのは諦めてしまった。花粉症で怠かった。鼻水が酷かった。床まで垂れるような鼻炎が常態で、常に眠かった。目に見えて病気だから、こいつはさぞ下らない人生を送ってきた人間なのだろうということを隠すことも出来なくて、精神汚染されたアスカ・ラングレーみたいに頽廃していた。体が生きることを拒否していた。対人用の仮面が壊れているので、精神の底の底まで人に見透かされてる気がして、統合が失調気味だった。

 

 みんながそんなに苦労しているのならば、ここまで言語が衰弱している筈がないと思う。だからそれは恐怖ではないし、苦痛ではないのだろうと思う。恐怖や苦痛が引き算された苦労というものもあるのだ。そんな「ただの苦労」なら、たかが知れている。言葉の綾を使って、見え透いた嘘で騙して慰めるのは汚いと思う。「ただの苦労」なんかを語って、共感ごっこをして、誤魔化すのはやめて欲しい。みんなが本当に苦痛に苛まれているならば、ここまで言語が衰弱してる筈がない。

 

 自殺したかったし、そうでなければ放火するとか、家具を叩き壊すとか、体内の死を放出する何事かをしなければならないのに、僕は我慢の天才だから黙って震えているだけだったので脳が壊死していた。「何があった?」という直近の原因だけを訪ねる知能の低い大人しか世界に存在しなくて終わっていた。

 

 テレビで老人が最近の若者は突然キレるから怖いだのなんだのほざいていた。僕としては、他者と文脈を共有出来ていると怒りを表出することが出来て、他者に文脈を歪められ続けるとキレるしかなくなるんだと思っていた。怒りは共同体に於けるコミュニケーションとして肯定的に評価すべき表現だけど、キレるのはそもそも社会との断絶が基底にあって、構造が違うから、最近であることも若者であることも関係がない。怒りは特定の対象に対して向けられるけれど、キレるのは脈絡がなく無差別的に見えるのは当然のことだ。怒ることが出来る人は順調に社会をやっていて、幸運だから場を支配する力を持っていて、「話せば分かる教」の信者としてカルト的に完結してることがあるから手に負えないと思った。

 

 本当に何でも話せる友達は滅多にいないとか、本当の居場所なんてないだとか、みんな愛想良くしてるだけだからとか、みんなそれなりに寂しいだとか、そんな話を聞かされて共感する雰囲気になっていて、俺も共感しなきゃいけなくて、ここが現場だと思った。寂しいだか辛いだか知らないけれど、断絶ではないから、何かとお喋りの種にはなるものだ。

 

 ギャグ漫画だと思おうとしたけどホラーだった。一日中頭が働かなくて同じ呪いの言葉をずっと脳内で繰り返していた。第一朝から夢が最悪だった。悪夢というよりも、脳の処理機能がバグってるのだとはっきりと分かるようなネバネバした体感覚的な夢で、金縛りと幽体離脱で目が覚めるシーンを何十回もループして肥溜めみたいに疲れた。

 

歪な部分は個性的だから、観念的にまとめ上げられていく認知の外に少しずつ追いやられていって、飢えた犬みたいに死にそうになっている。そうして顔はポスターみたいになっていく。

 

 それなりに読書などをしているのに僕は殺すとかそういう過剰な言葉を使うのが癖になっていて悲惨そのものだ。「健常者死ね」よりも力強い言葉を、未だに知らない。

 

 犯罪者の書いた本を読んだら、結構普通の不幸な人で、自意識の構造とかも普通だと思った。僕の精神が終わってるから出てきた感想なのだろうか。少なくとも犯罪者に関する便乗本を書いて儲けてる女の方が遥かにイカれていて最悪だった。

 

 ニュースで親が子供を殺していた。健常者っぽい女が、「そんなことは信じられない」だの「考えられない」だのコメントしていた。「考えられない」というのは自分自身の想像力の至らなさへの絶望であるべきなのに、自分が考えられないものは世界に存在してはいけないみたいなノリで、善意を涙ながらに訴えていて、気持ち悪かった。こいつが少数者側だったら、世界は「考えられないこと」だらけな訳だから、そのまま気が狂ってしまうんじゃないかと思った。恵まれてる奴が思考停止すると自由意志の力を過大評価するのはお決まりだった。

 

 人の感情が伝わってこなかったが、本物の虚無だから危機感はなかった。笑い方を忘れた。喋り方がおかしくなって、声が震えていた。言葉が喉に突っかかって出てこなかった。たぶん少し前に僕は自殺していて、今の僕は霊魂だけで彷徨っている。