人々の間に排他的な壁を設定し、様々な作法を取り決めることで、コミュニティ内部において感情や情報のやり取りを効率化する。そのような一種の制限装置なしには実現不可能な強度で、人々に共感能力を実装することが可能になる。感情表現を含めた情報の記号化であり、そこで流通するのはSNSのスタンプのようなものだ。
コミュニティ内部にいる限り、効率化された意思伝達が可能であるため、ハイコンテクストに洗練された作法を遵守することが彼らにとっての共感の条件となる。それは排他性を前提としているため、共感の範囲は原則として狭まるが、ここで生じているのが偽りの共感ということでは決してない。そのようにして共感性を実装出来るということ自体が、優れて人間的な能力の一つであることは留保しておきたい。そこではコミュニケーションの正否は外部の評価システムに委ねられており、共感とは定義された共感的作法のことである。こうして効率化された情報伝達は滑らかで心地が良いため、その成立条件を忘れ、自明視されてしまえば、外部の人間と接する摩擦が容易にヘイトを生み出すわけだ。
こうしたコミュニケーションのあり方は、人々が集団から解放されていない、近代以前の心理の名残りと言うこともできる。ただし前近代と違って超越性への通路も閉ざされているので、ただのっぺりとした同質化へと収斂していくように思われる。そのため単独の個人として他者と出会い向き合うこともなければ、異質な存在と不意に遭遇して自己が塗り替えられてしまうこともない。こうした空間では、コミュニティの作法に依らず直に外部と繋がってしまうタイプの共感能力の持ち主は、いわゆる空気が読めない存在として扱われる。共感能力には内輪におけるものと外部におけるものと二種類あり、ある意味でそれらはトレードオフの関係になっているように思われる。外部における共感能力はコード化されたハイコンテクストなコミュニケーションによるものではないので、日常生活での滑らかさを生じさせることはなく、むしろぎこちなさを生み出すものである。早い話が、ゴッホみたいな奴に居場所はないということだ。恐らくこのことが色々な場面で悩みの種になる。
近代になれば全ての人が近代的個人という意識のあり方を持つようになるというのは進化論的な理想に過ぎず、実際には一種の体質のようなものとしてタイプが分かれていると考えた方が実情に合う。明らかに村社会的な暗黙のルールを相対化せず、それが通用するコミュニティだけを人間関係の可能なあり方として認識している者や、そうした前近代的コミュニティの安らかさを希求する心理が見受けられるからだ。普通や常識といった言葉が口癖で、それ以上思考しない連中。言い方は悪いが毒にも薬にもならない連中もいる。しかし彼らを未熟で劣った人間として切り捨てるのではなく、近代性との折衷や両立の可能性を視野に入れるべきだ。完全な個人というものがおよそ観念的な存在でしかないのだから、これらは一つの傾向性に過ぎない。
日本では、誰が主体となって成立させたというわけでもない暗黙知、いわゆる空気を生み出すことで、仮初の前近代的コミュニティを保持しやすい特徴を有しているのかも知れない。まぁこれはどうでもいい話。どうせどこでも似たようなものだろう。
前近代がノスタルジーでしかなくなり、およそそうした連中とは程遠い人種である者達は、永久に隣人を失う。どれだけ話し合おうと、毎日顔を合わせようと、我々はもう隣人ではない。外部に評価システムが存在しないからだ。学生時代、クラスメイトを恣意的に分類し、それぞれに固有の身振りや言葉遣いを設定し、そこに生理的感覚を織り交ぜ、誰が主体となって成立させたというわけでもない暗黙知によって、コミュニケーションの正否は「客観的」に評価されていた。ああしたことを通して僕たちは(もちろん大部分は単にガキだからに過ぎないけれど)ノスタルジーに興じていたのかも知れない。そしてそうした受動的で自動的な思考を捨て去ることを、とくに疑うこともなく成熟と呼んできた。我々はバラバラになって、ある意味では二度と元に戻らなくなってしまった。友達や恋人を作っても、隣人を作ることだけは出来ない。どんな些細な問題を検討するにしても、異なる神話同士の衝突を思わせる調停の必要が(実際にはすぐに折り合いが付くことが多いにしても)、少なくとも想定はさせられるだろう。それでずっと頭が痛いわけだ。
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ある現実的な幸福を手にするための方法が意味をなすのに必要な、自明な前提がある。それは意識されていない同質性である。同質な世界を共有した上で、日常的なコミュニケーションが発生する。前提のもつ射程を可視化し、自明性の梯子を外し続けることで、秩序の外部へと自らを追いやることが出来る。極めて簡単に言えば「彼は……という性質を持つから、……という意見を持つことが可能なのだ」という論法による前提の解除を過激化していくことによってである。話をすっ飛ばすけれど、いまや秩序は存在しないというところまで行けば、外す梯子はない。あるのは単純な意味で、現に幸福な人間と現に不幸な人間だけである。そこで現れる差異は、幸福な人間は自明な前提の上に立ち、不幸な人間はそこから排除されているという事実だけだ。合理的な根拠が失われたことで、超越が姿を現す。足場を持たぬお前は理由なく呪われた存在であるという訳だ。前提を目に見える形にすることは、所詮社会的に不当な権力関係の訂正に役立つだけである。合理性の徹底的な否定が引き起こすのは、諸々の差異の純真な存在証明でしかない。
前提を自明とすることによって様々な豊かさを持つ関係が生成される。その際に自明性について意識しない人間も同時に生成される訳だが、この生成自体は人為的なものではない。そのため、この前提は合理的根拠なしにも生き続けるものである。同様に、根拠の不在という理由によって自明な前提が崩れるのではない。自明な前提が崩れるのは、前提による言動が実際に機能せず、その代替物が用意されていない状況によってだ。根拠など日常意識しなくても生きていけるだろう。それが問われた場合に答えなければと感じる一種の居心地の悪さは、合理性という虚構の領域に対する習慣的で反射的な目配せに過ぎず、存在の条件を揺さぶるものではない。少なくともイデオロギーの様な合理的な最終目的なしに日常が有意味に持続する現代においてこのことは確かだ。足場そのものの出現は超越的な事柄である。合理的根拠なき故に、足場を持つ者は純粋に幸福である。それは仲間を見出し、安定した世界の中に住まうことが偶然にも現に可能であったということの幸福なのである。
他人の足場から梯子を外すという戦略を取る者の隠された意図は、大抵の場合本人も自覚していないだろうが、根拠なき幸福に耐えられぬ者の慈悲への期待である。例えば金持ちを叩くのは、彼が無自覚に寄って立つ前提に目を開き、恵まれない者に対する居た堪れなさを感じて欲しいということだろう。しかし世界の中に住まうことの幸福は、社会的な権利をより多く得ることによる幸福と、相互に重なり合い支え合う領域があれど、質も次元も異なる。それを否定する権利は誰にもない筈の前者までもが標的とされるので、梯子外しという戦略は空回りしている。
自明な前提を相対化しないレベルに応じて人間の精神は貧弱である。自明な前提は人間が存在するための条件であり、精神が貧弱な個体ほど見事に社会的な同質性への閉じこもりを体現する。同質の盲目さを持つ者同士によって安定した世界が形成される。日常性という安定したレイヤーを生きる人間に、貧弱でない者など存在し得ない。日常性の成立そのものが排他的な権力を生み出すにしても、その成立そのものについて倫理的な命題が入り込む余地はない。いかに閉鎖的で、惨めかつ傲慢であろうと、人間が世界の中に存在する条件と結びついている足場を切り崩すことは土足で他人の家を踏み荒らすのと同様の行為だ。日常性というレイヤーは外部から見てみっともない内輪ノリであることを逃れ得ないものである。しかしそれが日常性というものの原則なのだということを了解しなくてはならない。
こうしたことが十分に見通せないので、梯子外しは他者の貧弱さを叩くという攻撃に失墜してしまう。全ての人間は貧弱なので(これは水を飲まなければ生きていけないというのと同じレベルで貧弱ということである)、お前はどの立場から他人を糾弾しているのかという糾弾がどこまでも続けられる。自明な前提を否定した先にあるのは確かにフラットな世界かも知れないが、それは都合良く平等や慈悲といった高次の人間的価値への誘導を可能にする地平ではあり得ない。人は自明な前提の上でのみ人間的な言動を取ることができる。自分だけが特権的にフラットな地平に立って物を言うことが出来るという思い上がりは例外なく虚偽である。そのような見せかけのフラットさはまた別の前提に過ぎない。
ということで、以上は説明不足の戯言に過ぎないけれども、自明性に関する誤った態度は次のものである。
①自分がそこに所属している前提を普遍的な視座であると見做す。素朴者の盲目。
②前提を否定した先に、正しい認識を引き出せる普遍的な視座が存在すると考える。革命論的ユートピア信仰。
③前提によって成立する世界は、人が存在するために超越的に与えられた条件であることが認識出来ず、文化の表層レベルでの批判を他人を動かすのに十分な正論と考える。霊的/存在論的不感症。
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権力を持った人間には、自分は話が通じない人間なのだと有象無象に思わせておいた方が得だという実情がある。彼にとって口を利くというのはサービスなのである。
対話とは特定の時代や状況の要請にしたがって己のアイデンティティの一部をベールに隠すことで可能になる一種の思考実験のようなものであろう。権力が虚構であるのと同じで、フラットであることも虚構である。そして異なる虚構がぶつかる時に、筋を通す力のことこそを権力と呼ぶのだ。メタに立つことで他人を説得しようとするのはキリがない話である。