スクリーンの空

パロディ

消し去る者

 全て共有可能な文脈を剥ぎ取られた共感不可能な他者はグロテスクに映り、嫌悪感を与えずにはおかない。であるから、他者への好意とは都合の良い思考停止が生み出す柔らかい幻想への隠遁でしかない。企てられた逃避。最も容易い幸福の方法。無償の愛であっても、その幼稚さに変わりはない。(無償である事が償いになるとでもいうのか。)好意とは脳内で生み出した形象のリアリティを伴う再現だ。ナルシシズムの危険を犯さない好意は無い。それに対して、他者性への敵意は自分にとって都合の悪い、適切さを欠いた思考に思われる。敵対する他者の中にも全ての人と同様に彼のユニークな意識がある筈だ。それにも関わらず人は、自らの認め得る一貫性を他者の内面にまで投影しようとして取るべき態度を誤ってしまう。このどちらも理性的とは言い難い。だがその中間には、機械的な分析と、無感動な異化作用しかない。この中のどれとも僕の感性は適応しない。人間的なものは現実にあって存在しないのだ。人間など少しも人間的ではない。偶然に支配された世界は拒絶的であり、自然な親密さはいつも欠如している。幾つもの矛盾に満ちた感性を背負っている僕には、感覚の中に居場所がない。

 個別的な対象への偏愛は、個人のどの様な内在的な欲求に接続されているか。我々の精神には、何か方向を持ったエネルギーが確かに存在している様なのだが、それが具体的対象を求め出した時、その対象は虚偽なのだ。我々が創造する偶像や物語の効用は、ある価値体系に没入することで自己肯定感を満たすことである。満たすものとしての偶像は、ただ信仰される事によって立ち現れる。立ち現れた偶像(友人とか愛とか平和)は、彼の自我の支えや拠り所だけではない。そうではなくて、自我の統一原理そのものでもあるのだ。愛が偶像からもぎ離される事によって生じる真空は、自分を支えてくれていた何かの死ではなく、紛れもなく自己そのものである所のものの解体だ。人は自己肯定感を糧にして生きているのではなく、自己肯定感そのものを生きている。自己肯定感は偶像への信仰によって生まれるのであり、信仰は習慣付けられているものの、信仰心そのものが独立して潜在意識に根を張っている訳ではない。であるから、偶像と信仰心、そして自己肯定感はそれぞれ互いに不可分の関係にあって、うち一つに生じた亀裂は残り二つを瓦解させる。

 慣習によってのみ自己肯定感の確かさが受肉される訳ではない。例えば幼少期に親に愛されて育ったという「事実」が彼の自己肯定感を生涯に渡って保証する訳ではなく、親に愛されていたと知っており、今なおそれを信じていることが必要なのだ。愛されたという経験だけが、彼に永続的な自己肯定感を約束するのではない。愛されているという現在進行形の確信さえもが必要なのだ。であるから信念に疑惑が生まれ、亀裂が生じたのならば、事後的であれ実存は宙吊りにされる。言葉によって過去の出来事の解釈は変わり、世界には解釈しか存在しない為、実際の経験が変化を被ることなく、トラウマは生成され得る。

 もし物心のついた時から刷り込まれた愛情や信頼を根刮ぎにする程に徹底的な自己否定に、自らを晒す事が出来るのであれば、彼は想像力によって世界の極限に触れるのだ。全ての具体的対象への愛は、満たすものとしての虚偽であるという極限に。偶像を退却させる事によって、己をその実質である虚無にまで剥き出しにし、無限に横滑りする価値体系の錯乱を目撃するのだ。

 自己肯定感を満たすことで生きる者は、都合の良い幻想によって現実を自らのスケールに合わせて歪め、その中に安住しているので、世界の実在に出会うことがない。何か対象を保有することによって自らの存在を許容する、これが「満たす者」の深層で起こっている企てである。「満たす者」は自分自身と自分の着ている服の区別が付かない。それが理解されるのは、実際に彼が偶像から引き剥がされた時のみだ。例外は想像力のあらん限りの酷使によって懐疑を試みる場合だけだ。だが「満たす者」のうち、誰がその恐ろしい結論を受け入れるだろうか。価値体系が崩壊するほどの異物は人間にとって存在しないに等しい。

 疑ってみることは誰にでも出来る。自分が不具であったかも知れないことも、自分の大切な人が存在していなかったかも知れないことも。「〜があるから生きることが出来る」などと言うのであれば、それが欠損した場合に於ける世界の可能性は当然、彼の想像の範疇でなければならない。だが欠落を負った可能世界の自分の実存の全てを(それは自分であっても他者なのだから)知ることは出来ず、現存しているこの自分の視点から、評価を下すことも不可能だ。可能な自己の人生全体を、現存している自己の持っている一貫性によって測り、優劣を定めることは出来ない。僕には「満たす者」の想像力は、常に優劣を測定するナルシシズムによって規定されている様に思える。であるから、同情や嫉妬が容易に引き起こされるのだ。そこには他者の他者性の欠除がある。

 親に愛されているから自己を肯定する事が出来るというのはおかしな話だ。或いは友人に恵まれているから、経済力があるから、地位や名誉があるから。このどれか一つ、或いは二つが戒められるべきエゴである訳ではない。全てなのだ。お金が無くても、愛情があれば良い、などと真理めいた口調で言う者は、実際のところ、ただ現世で程々の甘い汁を吸う為にはそれで十分だと宣っているに過ぎないのだ。彼が保有するものへの否定が、彼自身の否定となるような論理を全的に廃さなければならない。誰もが「そうでなかったかも知れない可能性」を持っているからだ。何もかもが奪われるという悲劇が現実に起こっていることを我々は知っている。始めから損なわれている者がいることを知っている。であれば何故、自らの所有物に自己の存在理由を仮託するのか。そして何故、そこにある種の一般性や普遍性を与える事によって、偶然的な所有物に寄りかかっているに過ぎない態度を正当化するのか。結局は自己そのものである事を恐れ、現実の悲惨から目を背けているのだ。我々は世界の中に余す所なく浸かっており、世界の一部なのであって、全て起こり得ることは等しく肯定されなければならない。

 自己の保有物を自らの想像力で消去すること。たかだか保有物でしかないものを基礎として体系を作り上げることで、矛盾を引き受ける事を放棄してはならない。体系への依存は無意識的であるから、最もタチが悪いのだ。自らの体系を破壊すること。自分は存在してはならない者であると思うまで、自らが寄って立つものを否定すること。自己肯定は信念への依存に他ならず、内発的な根源を持っているのではないから虚偽なのだ。

 もし全知の存在者がいたとしても、自分の見ている世界が何故その通りに存在するかについて答えられようか。この問いこそが真に深みを持つ。何かを良しとして何かを悪いとする一つの価値体系から、異なる何かを良しとして別の何かを悪いとするもう一つの価値体系へと移行する繰り返しから抜け出さなければならない。或いは不都合な出来事が起こるたび毎に上手く折り合いを付けて、価値観の改築を試みる事をやめなければならない。世界に正当性などそもそもありはしない。どの様な正当性もない無数の価値観の間を無限に横滑りしているだけで、我々は始めから一歩も高められてなどいない。どれも言い訳がましい保身なのだ。様々な価値観を持った人がいるのだと知性で納得するのでは足りないのだ。無数の価値観がまさに眼前に乱立して現れて来る浮遊状態まで、懐疑を続ける必要がある。「満たす者」ではなく、「消し去る者」になること。

(2016/12/23)