スクリーンの空

パロディ

 通り行く群衆の一人を見定めて、彼だって本を読んだり音楽を聴いたり、自殺を思うほどの悩みを持っていたり、誰かを愛したりしている人物であるなどと考える必要性は、本当のところ見出せない。彼らが僕と似たり寄ったりの実存を持っていると、仮定する意味すらない。彼らと関わり合う可能性は限りなくゼロなのだ。始めから接近する道は封鎖されている。僕の意識によって規格化された傾向性の束としてのみ、僕は彼らの存在を知っている。意識さえしなければ彼らは形も定まらぬ影に過ぎない。視野の外で既に消えかけている彼らが何を行おうとしているのか想像しようにも、それは所詮、意識による身勝手な妄想なのだ。確かに僕は、僕の意識の限界を超えて他者達の生きている事を知っている。しかしそれは経験的に、知識として、つまるところ永遠の憶測としてのみだ。恐らく僕らが見知らぬ他者に人間性を認めるのは、道徳的要請というよりもむしろ、社会的に合意されたルールに従うことで自らを守るためだ。自己を参照し、知っていると見做すことによって、僕らは何も知らない。僕は無知であることと知っていることの間に横たわっている無限を感じる。知るということは断じて外の世界を確立することでもなければ、対象に自意識の反映を見出すことでもない。そこには三人称の匿名性に包まれた灰色が、他でもない何者かとして生まれ変わる飛躍があるのだ。突如として知られること。脳内で発火する印象。もはや未知ではなく、それでいて概念の束でもなく、取り返しが付かない。誕生した何者かが、もしかしたら僕と良く似た存在であっても、それに気付くのは後のことだし、そのような類似性が問題ではないのだ。出会うことの非連続性に、如何なる論証も橋を架ける事は出来ないだろう。諸々の到来が僕に何を齎すのか、僕は知らない。

(2016/8/24)