スクリーンの空

パロディ

風車

 雑文。

 

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 他人には出来て自分には出来ない、或いは著しく困難であると僕が感じることと、少なくとも同量は、他人の馬鹿げた盲目さに僕は失望を覚えている。だからそれは資質の偏りでしかないのだろう。

 才能は、もしかしたら全く有用性を持つことなく消えてしまう不毛な才能かも知れない。だけど僕はそこに途方もないリソースを注ぐつもりだ。僕はそれなりに高度なことをしようとしている。

 例えば社会性はゲームが上手いか下手かといった程度の問題と同等であり、その評価は人格にさえ届きはしない。テトリスが下手だからと言って、自分を無能だと思う必要はない。それなのに人は勉強や社交や恋愛の話になると血相を変えてしまいがちだ。誰もピカソを理解しなくて死ぬことはないが、身に付けなければ上手に生きられないこともある。だけど繰り返しそれは大した問題ではないのだと言い続けなければならない。(僕は社会適応出来てしまっているけれど。)

 諸能力から総合的な判断を下してはいけない。この世には数知れないほどの領域があるのだ。いつもゼロから操作方法を覚えればいい。才能はないかも知れないが。大切なのは常に真剣になることであり、にも関わらず、それが上手く出来ないということで何一つとして卑屈になる必要はないということだ。この一見矛盾した性格を乗りこなすこと。

 内発性がなければ他人に隷属することしか出来ない。それは端的に面白くない。退屈になると自殺したくなる。

 

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 概念はリアルではなく、概念化は生きた対象に死を与える行為であるのかも知れない。しかし概念は円環する知覚プロセスの一つの終局的な段階に過ぎず、それなしでは、この世はまさに地獄そのものと化してしまうだろう。世界全てが一挙に砕け散ることなど断じてない。我々の中に概念は残り続けることだろう。概念はこの世界を虚偽で満たしているのではなく、世界に形を与える作用として実在しているであり、それ自体として善悪や真偽とは関わりを持たない。というのも、世界はただ得体の知れない他者、膿んだ傷痕、不気味な怪物だけで構成されているのではないし、それらにリアリティを求めることもまた二元論から離れられないならば不毛なのだ。ある概念はいずれ打ち捨てられ鉄屑になるもよい。不安、切断の悲しみ、意味の不毛さに苛まれる時には、まさに鉄屑こそが新たなる与件となって、再び概念ならざるものが動き出すだろう。そして和解が生じ、退屈な日々が訪れる時が来るだろう。生活が安定した充足で彩られる時、表象が意味に繋がれて、対話可能な存在であることを示す確固とした顔と感情を伴い、まるで杭で打ち付けられたチラシの様な明るさをもって語りかける時が来るだろう。その余りにも有触れた空間が、しかし奇跡のような凡庸さであって欲しいと願う者のビジョンがあり、その輝かしくも穏やかな色彩は、またもや概念の名で呼ばれていることだろう。喪失に終わりはなく、名前を付ける行為が終わることも決してないだろう。

 

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 自分が間違っているかも知れないと疑い続けることは非常に消耗する。自己への疑いは確かに理性的な振る舞いではあるのだが、同時に迷信じみた世界にまで足を踏み入れることでもある。

 複数の立場を想像することによる葛藤とは別に、自己不信というものがある。自分の思考によって問題のある点を把握出来るが、しかしそれが自分の思考の枠組みでしかないことをメタ認知しているということ。人間は自らの思考の枠組みの外側を覗くことが出来ない。ただ外側が存在するということを、当然、経験によって知っているだけだ。このことを意識していることは、実際的な知の有効性とは何の関係もない。それは不安を呼び、人を慎ましくする。

 権力の獲得と共に内省が失われていくのは肯ける。本来コミュニケーションにおいて人間は誰しも平等である。もし一切の集団性を当てにせず、互いに異なる己の体系の正当性を主張するとなれば、どのように自分こそが正しいのだと証明することが出来るだろう。仮に一方に正当性を与えられるとすれば、それこそがまさに何らかの権力が作動したことを示している。


 たとえ悪を為すことになろうが、ただ一つの信念に従って行動する者が英雄となる。もっとも、ドン・キホーテになる危険は冒さなければならない。

 自我という問題に突き当たった人間が英雄性を取り戻すために戦後になって「賭け」という概念が取り沙汰される必要があったのだとも考えられる。

 そして、こうした逡巡の全てを承知した上で、なお何も考えていない者の純真さで決断しているかの様に振る舞わなければならないのだ、と感じている。

 

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 あたかもフォーマルな身振りが解除されるように現れる、先天的で自然な振る舞いであるかのコミュニケーションの作法は、その実、ある特異な関係によって形成された超自然的な構成物だ。

 肩の力を抜き、鎧を脱ぎ捨てるかのような印象を与える親密圏への移行は、より古く、より暖かく感じられる世界を切り拓く点で、芸術的創造に等しい。確かに我々はそこに「帰っていく」ように感じられる。だが帰郷とは常に逆説を孕むのだ。それは創発されると同時に、既に昔からそこにあったことになるのである。

 異質なものとの遭遇がなければ、世界に如何なる親密さも生じ得なかっただろう。それなのに我々は、一度それを認めるや否や、恐怖も知らず、苦労もせずに、それを知ることが出来た筈なのだと感じている。始原に向けた創発というこの矛盾を、我々は回復として受容するのだ。