スクリーンの空

パロディ

俺は自殺はしないよ

  自分自身を振り返ると、漠然と高校時代が一番苛烈だったように度々思うので、謎だが供養も兼ねてその頃の文章を残しておこうと思う。全く文章を書く人間ではなかったので、さして面白みもない気紛れな断片しかないけれど。

 以下抜粋。

 

*****

 

 幸福にはゴミの価値しかないので、そんなものに煩わされるのは愚かな事だ。

 

 一度も自殺を考えた事のない人間の言葉は犬の喚き声の様なものだ。

 

 自分が苦しんでいる様子を伝えようとなんてしていないのだから、絵だけを見れば良い。人生をほじくり返す癖を持つな。

 

 蟻の行列を見て、一匹一匹の思考の差異について考えを巡らせる事が出来るだろうか。次に同じ目で人間を見ること。

 

 自殺に失敗した位で人間が変わる筈がない。

 

 本当の所では自分が凄い奴なのだと思っていなければ、何も出来ない。これはナルシシズムなんかではない。心の底から謙虚になった人はもう終わりなのだ。

 

 生物としての欲求と俺の欲求が繋がっているとしたら、本当は欲求を満たして仕舞えば、全てが済む話なのではないか。俺が人間だからなのだろうか。これは回り道なのだろうか。さめざめとして来る。

 

 苦痛に耐えるほど他人との距離が大きくなる。退屈になると死ぬよりも孤独になる。

 

 どうやっても人に好かれない星に生まれたとしか思えない。

 

 人を殺したい人間がいるとしたら。殺された側は大した問題じゃない。それは単なる運命として考えられる。だが殺す側に視点を当てると、これは一体何なのか。殺す人になりたくない。殺す人になるのは嫌だ。そう願う事は一体何を意味しているのか。

 

 人間の命は誰にでもある。素描は才能でも、命は誰にでも等しくある。だから本当は才能というものはない。

 

 私は歌が上手いと思いながら歌う人間。お前の歌はお前ではないのだ。お前の声はお前ではないのだ。お前は声を使ってお前を伝えたいのか。お前はお前を殺さなければならない。

 

 偽善者になる事は難しくないと思っているが、彼らが普段振り撒いている愛嬌に比べたら、半分も成功していないという事実に絶望している。

 

 人とある程度の時間、一緒にいると駄目になる。テレビの笑い声も、生活を感じさせる雑音も。全てをシャットアウトしている訳じゃないけれど、耐え難くなる。それが他の人にとっては何でもない事らしいと気付いてはいる。だから何を苦しんでいるのか理解して貰えそうにない。

 

 音楽というのは素晴らしいな。それに比べて絵というものはゴミだと思う。本当、ゴミだと思う。

 

 思考停止したら楽だというのは分かるが、一歩の距離を置いて振り返った時、それは思ったより怖いものだから。

 

 何故彼は自殺してしまい、もう一方は生きているのか。何をしたのか。何に生かされているのか。何を乗り越えたのか。何故、乗り越えられない人間もいるのか。何が降りかかったのか。何が降りかからなかったのか。何をしたから今生きているのか。

 

 どれだけ科学が進歩しても全ては神のお陰である事には変わらないだろう。その土台を退かす事は何者にも出来ないだろう。

 

 人間は最悪な時には、綺麗なものも、面白いものも、お洒落なものも、励ましも、美味しい料理も、何も目に映らない。目に映るのは糞だけだ。糞の中に煌めきを感じる。だけども、それは美では無い。汚れや傷や吐き気の様なものだ。それが初めて外界との繋がりになる。それが必要だ。

 

 赤ん坊が無垢だから、汚れていないから、無邪気だから、癒されるとか力を貰うなどと感じることは、褒められた態度なのだろうか。

 

 精神科医になりたいと思う。自分が自殺志願者になっている時、絵に価値なんて何も感じなのだから。心の底から絵に価値なんて何も見出せないから、誰も救えやしないだろう。

 

 欲しい物の事を考えるといつもどうしようもなくて、そうして欲しい物はなくなってしまった。欲しいという感情が分からない。何も見当たらないのだ。脳が完成してしまった。

 

 気分が良くても会う人はいない。気分が悪くても誰とも話さない。俺の気分は、俺自身に何の影響も与えない。俺の感情は、俺とは無関係な代物になっている。

 

 これを知らないと人生損しているよと押し付けて来る中学生の様に、友情や愛が押し付けられる。

 

 笑っている人間は病んでいる。笑っているのに病んでいないという事は有り得るのか。

 

 何も感じる必要はないのだという防御をする。孤独からの、苦痛からの、欲求からの逃避。現実を見ない為の防御だ。絶望したくないから期待はしないし、希望を持たない。それ自体が閉鎖的な絶望となって、価値や意味が消えてしまう。痛みを感じない為に心を空にし、人間を拒絶して、信用と信頼を潰してしまう。しかし苦しみは消えない。俺が一人で心を閉ざしているように見えても、そんな単純な話ではない。人を理解しようとする感情も、人に理解して欲しいと思う感情も既に抑圧されていて、何処かに見失った。人を理解しようとする術を失った。人の事を考えようとするが、何も考えられない。頭の中に誰もいないのだ。必死に苦悩すればもしかして、と希望を予感する時がある。押さえ込んだ苦痛の、途轍もない噴出と共に、希望はやって来るのだ。しかし希望が芽生えるとそれは簡単に殺意に取って変わる。本物の殺意なのだ。何も感じない状態を保っていなければ、殺してしまいそうになるのだ。完全に違う人間になってしまった。

 

 俺だって人と仲良くなりたいという幻想を抱く事はある。だが実際に特定の人間を目の前にすると、関わり合いを持とうとは絶対に思う事が出来ない。

 

 人と仲良くなりたくないけれど、人と仲良くなりたいと思う人になりたいので、人と話す努力をする。自然じゃない。面白くない。だんだんボロが目立って来る。「何が楽しいのか教えてくれ」と今笑いながら話している相手に問いただしたいのを我慢している。経験で分かるのだ。この人がいなくなったとしても悲しくも辛くもないという事が。それを確かめてみたくなる。今度こそ本当に悲しくならないのか。

 

 デッサンでコンクールを獲ってから、スランプの様なものが始まっている。県内一の予備校だから、極端に言えば日本で最も石膏が描ける高2の一人という訳だ。ストレスや不安の原因はただ絵が下手な所為なのだと思い込もうとしていたのが、暴露された気分なのだ。ここで辞める事なんて、今更出来ない。

 

 これから先、分からないという言葉だらけの文章になるだろう。本当に何も分からないのだ。

 

 何故みんな笑えるのだろう。理解出来ない。人と仲良くなりたいと思わない。人の笑顔が嫌だ。何が面白くて笑っているのだろう。

 

 良い事がない。それは正確な表現ではないのだ。良い事のイメージがないのだ。だからその言葉の意味が分からないのだ。親密さという感覚を思い出せない。楽しさや嬉しさを思い出せない。無感動で無気力で無欲だ。面倒だ。他の人もそうなのかも知れない。ただ俺よりも愛想笑いを身に付けるのが上手いだけなのかも知れない。もしそうだとしたらここは地獄だ。

 

 本を読んだが、記憶がない。喋り方を忘れた。音程が可笑しく、発音の強弱がない。声に抑揚がない。疑問文で語尾を上げる事を忘れる。自分の言ってる事が分からなくなる。何かを勘違いしているので絵を描いている。バランスが取れていない。賞状が三枚あるから余計に意味が分からなくなる。現実逃避を現実にしている。自分の絵を引き裂いて捨てる。水張りが何回も連続で皺になって、そのまま辞めて帰ってしまう。今まで一度も失敗した事なんてなかったのに。ああ、受験生になってしまう。人の笑顔が纏わり付くようだ。俺は自殺はしないよ。

 

 自殺未遂をする人間が一番苦しいとは思わない。気持ちは分かるけれど。しかし詳しく書く事はしない。幾ら書いても何の慰めにもならない。何も楽しくない。少しだけ人と話したりしている。暗い気持ちを伝染させる様にして人と話したりしている。俺と話をして何になるのだろう。人の顔と名前が一致しない。この人とはいつ出会ったんだ。一年も前だ。周りの人がみんな同じ顔に見える。事実ほとんど同じ顔だ。感心する程よく似ている顔だ。絵は何だったのか。絵を描きたいと思う人間になりたい。

 

 過去の自分が今と連続している気配が無い。人生の三分の一が空白に感じる。昨日まで小学生じゃなかったか。俺より救いのない人間が沢山いるのだ。でもそれも、どうでも良いという気分になる。

 

 自分自身の暗さや気持ち悪さを表現してそれを人に見せ付けて、一体何になるんだ。何故こんなに気色悪い絵になるんだ。ルノワールになりたい。幸せな人になって幸せな人に幸せを与えたい。幸せは卑怯だ。周囲の人達も幸せだから卑怯だ。正当な価値が生まれるから卑怯だ。そういう人が天国に相応しいのだ。そういう人には死後にだって悪い事はないのだ。幸せになりたい。

 

 殆ど何の記憶もないが、過ぎ去った時間がとてつもなく重い。

 

 他人に暗い自分を見せたくないから明るく振る舞うのは、虚偽ではないと思う。確固とした意志だと思う。こんなことで皮肉を言っても何にもならない。でもそれがどうしても出来ない。理屈の問題じゃない。

 

 友達がいないのは気持ち悪い人間なのだろう。気持ち悪くて不可解で哀れな人間なのだろう。俺は友達が欲しいと思った事はなかった様に思う。友達になりたいと思う人もいなかった気がする。出会いがなかったのだ。あるいは出会っていても、それと認識することが出来ないのだ。友達というものがあったら俺はどうなっていただろうと思う。よく話す相手との関係に名称を与えるなら友達の筈なのだと思っているだけなのだ。俺は自分の情動を認識していないから、友達は俺の中で、無関心の上に成り立つ自覚でしかないのだ。心の中では他人と変わらない。一歩も近寄ってはいない。近寄る事が出来ない。近寄ったとしても俺にはそれが識別できないので同じことなのだ。本当に友達がいた時もあった筈なのだが、今では何も分からないのだ。もし友達がいれば、それは俺の人生ではなく、誰か他の人間の人生という事になってしまうだろう。そういう人間として生きたい。この俺は別にいなくて構わないから。無価値で吐き気を催す、俗物の、汚らしい連中を、仲間として当たり前に見做す事が出来る感覚を持って生まれて来たならば、どれほど楽な人生だろうか。別に俺が他の人よりも俗物ではないように見える訳でもないし、実際にそんなことはないのだけど。俺が俺でなければ、人と関わる度に背徳心を感じる事もないのだろうと思う。そしてこんな隔たりは誰にも伝わりはしないのだ。

 

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 という訳で、惨憺たる吐瀉物なのだけど、教養がないので素朴さと気色悪さが強く出ていて、生々しくて痛いだけだ。今でも似た様なものかも。どう思いますか。

 わざわざ言語化して文章に残そうとする思考に関して傾向が偏っているだけで、存外気楽に生活をやっていた部分もある気がしないでもない。未熟な思考というのは硬直しがちなので、人間としてはもう少しふんわりした性質も備えていたはず。たぶん、若者なんだし……いや、これだって今の僕にも当てはまることだ。実際どうなんだろう。当然のことだけど、自分が思っているより悲惨な部分と、より良い部分は、混同して現実に含まれている。

 友人についての言及が多いのは、頻繁に到来する特殊な無感動を指し示そうとする為だ。当時は混乱していて単に実存的な問題として処理しようとしていたが、今考えると病的な状態の一歩手前まで来ていたのだと思う。もっとも、それは大学に入ってからピークに達するのだけど。

 絵を描いていた。実は僕は都内の某美大出身なのだ……。せっかく有名美大に入学したというのに、卒業間際になるまで殆ど何も描けない状態が続いていた。線や色を見ても丸で感受性が作動しないのだ。宗教や哲学に目を向けると、僕が陥っているのと類似した無感動を追求している先人がいるようだったので、もっぱらそちらの方面を掘り下げることに集中した。僕の脳は勉強には不慣れだから、これは途方もなく骨だった。そんな訳で、僕の画力は予備校生のレベルから殆ど進歩していない。一生絵を描くことはないだろうとまで思っていたが、最近またダラっと描き始めている。

 そろそろ自己開示した方が、文章を書くにしても気楽になりそうなので、そうしておいた。それと当時僕は重度の皮膚炎に苛まれていたことを添えておかなければならない。体調や外見について、彼は一言も言及していないのだ。多分そうしたことについて考えたり苦悩したりする発想さえ持っていなかったのだろう。彼にとっては意識が全てだったのだ。そんな記憶がある。