未詳まで

Es malt.

形式と内容

「怒鳴ったり哀願したりするのはよせ、言語的コミュニケーションをしろだって?しかし僕はまさに怒鳴り声のような非言語的な表現の意味しか理解できないのだから、君のいう《言語的コミュニケーション》の定義など、僕を前にしては機能しないのだということを君は知る必要があるね。僕のこの発言がまさに言語的だって?馬鹿言っちゃいけない。これは長く多様な発音を持った呻き声だよ。」

 

 

 

 怒鳴ることが感情的ないし暴力的だから許されるべきでないというならば、友好的態度による団結の感情的で暴力的な様をも非難するのがフェアというものだ。こんなのは折々の政治的妥当性に過ぎない。感情的になってはならないのではなく、ある環境で適切ではない振る舞いがあるだけだ。それならば、例えば「自分は市民社会のルールを内面化しているだけの人間です」と言えば良かろう。ある規範を内面化する際に常に付き纏う問題だが、内面化それ自体を自覚していないことは既に欺瞞の始まりである。そうした自己弁護の非誠実さを非難することが出来る人間は社会には存在しないのだから、この言い分の陳腐さを忌避する必要はないし、陳腐さに耐え忍ぶべきなのだ。むしろその程度の退屈な(ある共同体におけるルールの適応といった)問題に起因する感情の単純な表明を、その動機が陳腐であることを理由に嫌うことで生じる問題があるのだと言いたい。それは既に消え失せた正当性への誤った執着が生み出す問題である。政治的妥当性に過ぎないと言ったが、政治的であることには積極的な価値も存在するのだ。それは自分の行動が潜在的に他者を排除する能動的な選択であることに自覚的であるべしという規範である。

 断っておくが、頭脳の上辺だけを用いて思考する者が言うような「凡ゆる規範の消滅」などあり得ない。たとえ「規範の規範=神」が存在せずとも、ある規範の否定は直ちに別の規範を指し示すことであり、人間が規範そのものから逃れ出て行動することは不可能なのだ。では確たる正当性を与えることなく如何に行為するべきかを問題にしなくてはならないだろう。言うまでもなく僕は怒鳴る人間を擁護するつもりはない。(僕は感覚過敏だ…どうでもいいが。)僕はこの件について、何者も擁護しない。

 

 こんな風に前置きをしたが、僕は道徳についてではなく詩について語りたい。

 

 感情的になってはならないとか、身振りや語気は不純であり《言語的コミュニケーション》が通じない場合にのみ止むを得ず使用されるべきであるなどと言うならば、特定の性質だけを批判の対象として限定してはならない。形式と内容の区別はデカルト由来の肉体と精神の短絡的な二元論に値する。そうした二元論に於ける限界を、対立を極限まで推し進めることで検討してみれば良かろう。結論を言えば、肉体なき精神も、形式なき内容も共に(妄想の中でさえ)存在することは出来ない。ある身振りや語気を示し、それを否定するとき、透明な伝達の可能性を幻想してはならない。(例えばカミュが『異邦人』に用いた「白い文体」は、あくまで白であり無色ではない。)沈黙さえも例外ではない。黙っていることが意味作用を持たないとでも言うのか。ある表現の機能は他者に向けて賭けられている。その適切さは両者間でその都度形成される合意であり、それ以上の普遍性を含まない。

 ある場所では怒鳴ることは機能するが、ある場所では機械的な理屈が機能する。そしてまたある別の場所では暴力が機能するのだ。それらは等しく「言語的な意味において」機能するのである。道徳に普遍性が認められない以上、階層など存在しない。例えば「人間的/動物的」という区分は無効である。ある表現が動物的だと言って非難することはもはや出来ない。そうした振る舞いが「動物にも行い得る」ことを示しているだけなのだから。その様な尤もらしい二元論は形を変えて絶えず姿を現わす。しかし構造的な眼差しによる説明も、端的に政治の問題として感情を煽っているだけである。それは観念的な正しさを偽装しているので余計にタチが悪い。僕は感情を煽ることを否定しているのではない。それしかやりようがないことを意識した上で方法を選択すべきだと言いたいのだ。父なき時代とはこうした価値の乱立を意味する。だが価値そのものが消え去る訳ではない。

 中途半端な抽象は対立の構造的な欠陥を隠蔽するためだけに当の対立を持ち出す。形式の持つ威力を免れる可能性など誰にもあり得ず、沈黙や穏当を選ぶにしてもそれは権力の発露と無縁ではないどころの話ではない。多くの場合、人は政治的により機能する方を好んで選んでいるだけである。誰かの微笑みは、他の誰かの拳よりも強大な力を持つかも知れない。方法それ自体は単独で裁くことが出来ない。習慣的な印象に目を眩まされることなく、既に何かが排除され、何かしらの排他が完了された空間内でのみ中立を気取っている自己というものを反省しなければならない。

 何かを暴力的だと見做し、集団的に排除する動きもまた暴力的である。彼らによって糾弾される暴力性といえども、当の対象に固有の性質に由来しているのではない。それは指示されて始めて暴力となる。何故なら暴力とはそれを認識する者の心情的な堪え難さを意味するのだから。残念ながら「殺人の暴力性はそれ自体の性質に由来するのではないか?」という問いは無力である。確かに殺人は生の根元からして堪え難さを引き起こす、何か例外的な脅威を孕んでいるかも知れない。その特異性は十分に考慮されるべきだろう。しかし「そうあるべきだ」という叫びは、どこまでも叫びに過ぎない。特定の殺人が見過ごされ、次第に認可され、最後には賞賛されるまでに至ったある時代を思い浮かべることは、余りにも容易いのだから。無論、糾弾することは正しい。それは常に正しいのだ。正しさもまた暴力的である(それがたとえ自明であるかのような悪の糾弾であったとしても)ということを忘れさえしなければ。

 一般論はこうした価値の変容が、かつて闘争によってもたらされ、まさに今も闘争によって塗り替えられているという、その血生臭さを中和する。それは無責任な日和見主義者の自己正当化に過ぎない。その戦法は不徹底に表現を形式/内容へと二元化することで成り立っており、構造的な欠陥を抱えている。自分自身の名に於いて語ること。それは積極的な意志(=別の形式)の創造であり、そこには具体的な力の動きだけがあり、如何なる正しさの保障もない。意味内容は形式の効果なのだ。さて、僕の文章に僅かばかりの説得力が生じているとしたら、それは一体何によって生じているのだろう。