スクリーンの空

パロディ

日差し

 少し熱いくらいの日差し。時間がゆっくり進む気分。退屈を感じるのは良い兆しなのだと思う。(僕は生きているか死んでいるかの実感も湧かないまま消えて行くつもりだったのに。)空が綺麗だった。木々の色が深くなって、風が強くて、僕はさざめきが好きだった。

 どこか遠くで誰かが演奏した音楽を聴く。場所とか世紀とか人名が、かつて存在した事実なんて本当にどうでも良かった。そんなことがどうして分かるのだろう。確かなのは僕がいま聴いている音だけだ。微細なものが巨大なものと和解して、凡ゆる懐疑は意味を成さなくなった。必然とか運命とか。それはどこからか運ばれて僕にまで届く。馬鹿みたいだけど、それで十分だ。

 

 疑う余地もなく幸運の結果がばら撒かれている。大地とアスファルトは同じで、蟻の巣と高層ビルは同じだった。それは角膜に刻まれた描線で、手のひらで払われて消える模様だった。人工的で作為的なものは何処にも認められなかった。散り散りになったのは光。揺らめいているのは湖で、構築されるのは石だ。言葉と意味の連なりは、瞬きをする度に配列を変える星座だった。そして結局、全ては僕の眼差しに帰属していた。美しいことも残酷なことも、全て無償で現れるのだ。遠くから。それは途方もなく遠くから。

 

 相変わらず生活は面白くなく、創造性は欠落していて、僕は二十数年の間に捏ね上げられた自分の傾向性に辟易している。天才にだけ許された充足があるのだろうし、それは僕には手が届かない。こんな風に恩寵は静けさを与えるだけで、表面的な不協和音が消え去る瞬間なんて、この程度の気休めなのだろう。周囲を見渡す限り、死にたくなる程に重苦しい何かは見当たらない。それは有難いことだけど、それでも僕は基本的に死に惹かれている。何も変わりはしない。

 自殺に必要なのは苦悩でも、絶望でもなく、意識の軽さだ。勇気すら要らない。むしろそれは邪魔なのだ。こんな調子なら、死ぬのは余りにも簡単そうだ。と、ふんわり思った。