未詳まで

同じ人

 他人にも内面があることを心の底では承認していない。僕が僕以外の人間であった可能性に想いを馳せるのはこの僕であり、二重に無なので数秒で挫折する。もしかしたら彼らと言葉を交わすことは出来るだろうが、僕が理解するのは言葉であって、彼らではない。他者を理解したと口にするのは欺瞞であり、実際にはただ個人的に精神の揺れを感知したに過ぎない。それなら個人的に精神の揺れを感知したと言えばいい。

 

 

 画面の向こうで誰がどれだけ騒ごうが、それを見つめている僕まで一緒になって声を上げたりしない。そんな風に、目の前で喋っている人間に対しても、バラエティでも見ている時ような距離を肌で感じる。楽しくなったり悲しくなったりしない訳じゃない。他人が本当に彼らの人生を送っているということの意味を掴むことが出来ない。他者を実存と見做し、無理にでも対面しようとすると、自分が彼らと連続した空間を共にしているという感触にぞっとしてしまう。彼は一つのイメージであることを辞める。するとどういう訳か、ある時点から彼は実存でもなければ、人間でさえなくなってしまう。そいつの眼と対峙していると、僕の身体は透明化して、縮んで、綿の様になってしまう恐怖に駆られる。上手く説明することは出来ない。和解しようのない断裂感。

 

 

 本当は誰一人として現実を生きていない。文字が白い紙の上のインクでしかないように、人間も風景も、空間に描き出された精巧な染みに過ぎない。観測可能な宇宙の果てまで、それら仮象に見出してしまう意味とイメージよりもリアルなものは存在しない。外の世界との交流とは、これら意味とイメージの主体内部に於ける変容以上のものではあり得ない。他人の人生が嫌に生々しく見えるのは、不可能なものに真実が宿っていると思い込もうとする安直な性癖の所為だ。

 

 消費者的な態度に落ちぶれているのだろうか。しかし夢見る者として完璧な消費者であることは認識の原則だ。知覚されるものは病室で幼子が見る幻覚で、僕は彼の見る夢にだけは確かに参加しているのだと言うことが出来る。客観性を溶かすことで夢の登場人物と化した諸々の現象は、もう拒絶的な身振りをしていない。僕はそいつらを自分自身のように尊重する。と言うのも、まさにそれは自分自身だからだ。

 

 

 照明を落とし目を瞑れば、世界は実際に黒く重たい緞帳を降ろす。凡ゆる役者は輪郭を滲ませながら色調を淡くして、やがて舞台から姿を消す。

 

 

 世界は僕の眼球に閉ざされている。理屈としては何も間違っていない。それは知っている。何かが欠落している気がするけれど、正体は明かされないままだ。それは答えが与えられる種類の問いではない。