スクリーンの空

パロディ

解除

 すぐダメになりそうだけど、出来るだけ毎日書く。そうすれば書かれた内容は自ずと、その日に偶然そう感じただけというニュアンスを含むようになる。これが数週間に一度となると、一回性の成長やら思想の変化やらといった趣になり、内容が煮詰まって重苦しくなる。一撃で現在の自己を説明しようとする様になり、ますます何も書けなくなる。そんなこと出来やしないと知っていても勝手にそうなっていく。さらに言葉を使わないと言語野が自省録(マルクス・アウレリウス)みたいになる。それはそれで笑えるかも知れないけど、僕はどちらかと言えば、表現の本質は多様な変奏をすることだと考えている側の人間なので、それは芳しくないという訳だ。別に書くべきこともないけど、好意的に見れば、主張しなきゃいけないことが何もない程度には自由なのだ。人と毎日会ってる人ほど無内容な話を口にするように見える。そっちの方が気楽そうだ。

 

 

 以前より生きていて苦痛に思うこともなくなったけれど、愉快になった訳でもない。幾つかの個人的な問題を解決したつもりになったら、退屈が勝るようになった気もする。生活は順調にならない。習慣の問題ではなく病気の所為かも知れない。出来ることなら食事なんて摂らずに、光合成か何かで済ませたいとか、そういう風に思ってしまっている。食事にさえ気合いを要するのは生まれもった性格な気もする。立て直した所で、体を壊す度にリセットされてしまうことから刷り込まれた無力感かも知れない。ハッキリしているのは、自然体で生きていると僕は着実に死に向かって沈んでいってしまうということ。何とかやっていかなくてはならない。

 

 

 友人や恋人を作ること。他人より良い結果を出して、誰かに勝利すること。世の中の役に立ち、有用性を知らしめること。ある種の人間はそれらを健常さや優秀さの証だと信じている。そうすれば自分に訪れた恵みを、有り難いと感じられるだろう。意味と基準さえ設ければ、もっと下の連中がいるという理由で、抽象的な存在に、例えば神に感謝することだって出来るだろう。これは良い場合であって、悪い時には彼らは弱者を排撃しようとするだろう。多分でかい事故や病気に遭遇するまでは、そんな風に死ぬまでの時間の大半をやり過ごすことも出来るのだ。

 意味も基準もなしに満足することは難しく、出来事に対して素直で透明な喜びを感じる為には、まず何より自分自身がユニークな存在でなければならない。自分の機嫌を自分で取らなければ他者と上手に関わることが出来ない、というのは正しい。目の前にあるものが退屈ならば、それは僕自身の陳腐さを反射しているのだ。どんなに素晴らしい光景を目にしても、どれだけ人間関係に恵まれても、そいつはずっと付き纏ってくるだろう。逆に自分で自分の機嫌さえ取れるなら、その他の凡ゆる報酬は、純粋にボーナスとして出現することになる。そういう人は稀にしかいない。たぶん本物のエンターテイナー。たぶん本物の詩人。

 

 上等な存在になろうとしてはいけない。可能な限り比較を絶すること。どこにも辿り着こうとせずに直感で道を曲がること。既視感の元に一般化せず、ゆっくりとページを捲ること。僕には大した知性も才能もないから、堕落していると、完成された作品は一日で既存のガラクタに成り下がってしまうし、生きることは退屈さからの逃避という側面ばかりを主張するようになる。

 理想的な幸福と見做している状態に永遠に近付けない絶望がどれだけ強くても、空が綺麗とかいう瞬間ごとに、意識そのものを解除して生きていける人間になること。そうなりたい。