野蛮なもの

 人が他者に何らかの説明を求める時に多くの場合、自動的にある一つの暗黙の主題を設定してしまい、その時点で関係性は硬直に陥っている。それは時に最も下品な、しばしば権力を握る者による、意図的な弱者への圧迫であることもあるが、他方では自由なやり取りが封殺されて行く息苦しさの中で、ある日突如としてバラバラの身体性となって噴出する強引な論理空間ということもある。後者の場合、彼らの意図とは裏腹に、そのように真面目な空間の中で、対話はすぐさま挫折してしまう。そこで行われるのは一つの岩ともう一つの岩の衝突のようなものになる。その時、両者は論理空間を共有してはいない。論理とは前提となる経験によって歪曲する特殊な空間であって、誰もが等しく参加できる一本の予め整備された道ではない。その時、分断された空間は、衝突によってのみ統合され得るかのように我々を急き立てるだろう。どうやら我々の理性は目の前の分断された状況を、立ち止まって眺めることに耐えられないようなのだ。

 言うまでもなく、もっとも野蛮な低い次元の統合性は暴力であり、それ故に暴力に於ける関係性の構造はもっとも明瞭だ。その次に低い次元が論理的説明の要求であるように見える(その差は歴然だが)。そしてより低い次元の統合性は、より高い次元の統合の可能性をなし崩しにして、相手を同じ土俵に容赦なく引き摺り込む力を持つ。仕掛けられた相手はそれを根底から拒否する権利がない。例えば暴力において一方が殴りかかったならば、もう一方は防衛をしなければならない。可能な選択は闘争か逃走に限定される。

 多くの人は論理的説明の破綻から暴力へと至る野蛮性ならば認識しているが、自由な対話から論理的説明へと至る野蛮性を正当な方法として見做している。それよりも高い次元の事となると下手をすれば感知さえされない有様だ。確かに、異なる次元でのコミュニケーション(暴力含め)は、それぞれ機能を、全く異質な機能を担わされた方法に見えるので、次元間の移行は何らかの問題を解決する上で必要な秩序のようにさえ見えてくる。もちろん論理(場合によっては暴力も)の有効性を貶める気など誰にもない。だが高い次元での対話の現実的な挫折が、我々に論理を要求し始めるという側面を忘れてはならない。そして高められた空間でしか、凡そ相手の人間性など理解出来ないのだ。

 好きな女性を必死に説得しようとする哀れな男は、ある特殊な高い次元でのみ生き生きとしていた、豊かな兆候を野蛮に消し去っていく。そうした場面の想像は容易い。兆候は説得のように単調な図式的コミュニケーションを生業とする男にとってはある種、神懸かりなものにさえ見えるだろう。それは確かに詩的だとか霊的だとか形容される。だがそうした兆候は、より豊かな対話を可能にする、我々に備わっている認識の形式の一つなのだ。もちろんそれは、余りにも豊富な可能性を含むために、誰にとっても困難な形式であるには違いない。

 

 低次な空間に感性を隅々まで塗り潰された人間が窒息感を免れ、それを成熟などと思い違いをして、ぶくぶくと自惚れているように(ときどき)見えるのだけど、さて、そうなってしまった人間に、芸術は薬になるのか?いや本当はそんな悲観的な事態なんて全然なくて、誰しもの心が他の者には想像も付かないような、決して穢され得ないユニークな豊かさに開かれているのかも。全か無かの思考が過ぎる気がしなくもない。

 僕は筋金入りのポエマーなので(?)こういう主観から外れた文章を漠然と書くのはこれで最後にしたいと思います。多分。