ある叙情詩のための

  僕たちの世界は平面的でなければならなかった。平面性、それは健全さの指標となり、コミュニケーションとなり、百万回も繰り返された言葉によって、時間を絶えず次のシーンへと送り流すためだ。テレビコマーシャルのようなBGMが脳内を騒ぎ立てるので、僕たちは目の前の映像を眺め見るだけで良い。誰かが何かを口にするその瞬間、レスポンスは必定なのだ。

 風景はイラストレーションになり、その中で身体は絵の具の塊のようだ。本来ならば開かれている多様は、もはや穿たれた穴としか見做されず、僕たちはそこに軽率な善意をもってして、イメージを塗りつけてしまう。本物の血が内から溢れ出る時まで、今もそこら中を埋め尽くしている筈の傷跡は目に見えない。本物の血…それも時間の問題で、現存していた兆候は瞬く間に掻き消され、解釈が、物語が蔓延る。血は人々の記憶の中で、赤色のインクになる。当事者は覚えていると、人は言うだろうか。だけど忘れないということは生易しいことではない。

 

 確かにこのような描写はいつだって大袈裟に響くし、実際は程度問題でしかないのかも知れない。だから僕が書くのは、ある一つの破滅とその薄れゆく記憶を前にした、自動機械のような語りに対する遣る瀬無さ以上のものではない。

 かつては狂わんばかりの叫びだったものが、こうして一つの震えになってしまうのだ。それはもはや表現ですらない。まるで死が首を絞めるような震えだ。ガチリと噛み合った歯車に何かの間違いで挟まってしまった棒切れのような震え。

 

 そんな震えが、彼女の死の予兆だったのだ。

 僕はほんの一瞬だけそれを、彼女の内奥を、偶然性の揺らぎの内で、唐突に直感した。不意に僕は、魂の半分が殆ど遊離したようにさえ感じた。彼女はその時、産まれたばかりの赤子のようになっていた。赤子のように何者にも期待していなかった。彼女は何一つ定かではない混沌でただ一人、泣き喚く赤子の意識のような完全な賭けとなっていたのだ。だけど、極限の恐怖の極小の叫びを、僕は耳にする事が出来ただろうか。僕自身もまた歯車になっていたのではないかと思う。捉えようもないものを捉えようとする努力が仇となって、意識を明晰に尖らせて、救いようもなく凡庸になっていたのではないか。彼女にとって致命的な凡庸さに。

 そんな訳だから、周囲の人達の笑い声や、聞こえて来た言葉の断片が横切るだけで十分だった。僕の意識から、朧げな印を跡形もなく消し去ってしまうには。実は、僕が欲しかったのはその喧騒だった。彼らにとって物音は喧騒で、叫び声も、テレビの音量も、大きな口も、何かが割れる音も、ライトの点滅も同じ喧騒で、同じ喧騒だから、喧騒は何一つ壊しはしないのだ。僕が欲したのは、喧騒の中の爆笑の正しさだった。彼女の為に用意された、彼女の為の喧騒…。今となっては、どんな言葉も取って付けたようにしか響かないだろうという、あの絶望的な隔たりの他には何もなかった。そうして彼女が見せた表情は、たぶん最果て近くまで行った彼女と、この僕を唯一繋いでいた、不均衡そのものが絆であるかの紐帯を緩めるような、そんな印象を僕に与えた。

 

 僕は物語るだろうか。数年後に?数十年後に?揺れ動くかのサインを固着させ、出来事を遠景に押しやり、可能な悲劇へと加工して。方向を与え、懐かしみ、人生に位置付ける。自分は痛みを十分に経験した者なのだと。黴が生えた郷愁を、僕は語るだろうか。きっと涙を流すだろう。自分が凡庸であると信じない凡庸さが消えた後は、全てが既知であるような倦怠の土地へ歩む。僕はもう不安を感じてはいないだろう。それが生きるということだ。だって、一秒毎に僕たちから何かを、名付け得ぬ何かを削り取って行く力に、どうすれば抗うことが出来るのか。

 

 だけど、それだから僕は待つ。待つでもなく待つ。僕は語らない。これは決意だ。たぶん虚しくなって行くだけの決意。偶然に思い出された、遠い日の空の青のような不意打ちを僕は待つ。その時が来れば、僕は見るだろうか。あの震えを。平べったくなっていく視界で、これが僕の賭けだ。

 それからでも遅くない筈だ。最初の一語を見つけ出すのは。