夜を思い出す

 かつて手を伸ばせば届く距離に、暗闇は横たわっていた。記憶はゆっくりと薄くなっていく。はっきりとよく見えず理解しがたいものならば、あっという間に。定かならぬ恐怖と混乱の生々しい記憶は、良くも悪くも想像以上の速度で消え去っていく。僕たちには何か別の回路が必要だ。非知なるものを思い出すために。

 何故だったのだろうと考えるけれど、車窓から眺める風景のように遠ざかっていく感覚だけが……やっぱりそんな綺麗なものじゃなくて、ただ自分がそこにはいないという、断ち切られているという、孤独よりも具体的な手触りだけが記憶に、身体にこびり付いている。僕は誰とも出会えなかった。いや、それは嘘だ

 

 眼に浮かぶのはあり得たかも知れない可能性。たぶん掴むことは出来なかった機会。もっと大きな幸運。或いはさらに残酷な不条理。取り返しの付かない事故。自分が選んだように見えて、外から決められていた必然。こうであったならと想像してみることが出来ること。もはや夢見ることさえ不可能なこと。巡り会うはずだった人の、目に見えない顔。病気ではなかったかも知れない自分の、決して聞くことのない喋り方。体験することのなかった、あの人と気楽な時を過ごす気分。触れることはない。彼ら、すぐ隣にいたかも知れない何人もの僕の中の普通に、この僕の手が触れることはない。あるかないかの対象を意識することは決して出来ず、思い描く僕がいる限り、想像力は外部へと突き抜けることはない。こんな風に巨大に膨れ上がる憧れはたぶん風船とよく似ていて、中にはいつも空気が詰まっているだけだ。

 

 問題は、はっきりしていない。無限に遠い他者。理解することの叶わない自明性。演技と同化。何故笑うのか分からずとも笑えるように慣れてしまうこと。僕以外の者もまた同じなのかと問わないようにすること。表面を撫でるだけの娯楽だって、全く楽しくない訳じゃない。僕の本質が暗い奴だなんてことはない。分裂していたって良いんだ。その時その場所でだけ、優しくて礼儀正しい人ということになれば完璧だ。何を隠すためなのか。もしかしたら空虚さを。分からない。そんなことはどうだっていい。