物語の話

 公的言語は私的言語の比喩である。例えば、人生は無意味だ、と思う事は言語的な条件反射であって、そう思う時に感情に生じる直感は、人生が無意味であるという事実よりも遥かに恐ろしい地平まで延びている事があるのだ。公的言語は還元主義を暗黙の裡に含んでいる。膠着した意識の上で問題を解消しようとしない事。芸術と論理を区切る稜線は僕の目には連続的に見える。

 

 ある価値を妥当なものであると判定する事を主観的経験に還元してみると、その説明によって何かしらの安心感を覚える、という程度の事なのではないかと思う。大乗仏教を勉強してる風の人が「私は悪い事をしていないから、来世は幸せである筈だ」と自信に満ちた顔で言う。「だから死は怖くないのだ」と。だけど僕は勿論、(仮に来世を信じるとして)そんな風に納得する事はない。人間がある現象を現実であると認識するその射程は各自の推論の能力によって規定されていて、それが確かなものであると保障する事が出来ない以上、全ての人間は不可避的に罪悪の連鎖に参与させられていると考えるのが、仏教的な見地からすれば妥当だと思われるからだ。だから「私は悪を成してしまっているので地獄に堕ちるかも知れない」と考えるべきだ、と言いたいのではない(その不安は同様に陳腐だ)。そうではなくて、「私は自分の認識能力の外部で逃れ難く、既に悪を行ってしまっている」という方向で自覚を持つ他に選択肢などないのだと言いたい。縁起や輪廻とは、(少なくとも)そういう事態を表現しているのではないか、と思う。「自分は悪を成していない」なんて言う事は(咽び泣きながら言うのでなければ)思い上がりにしか見えない。なので僕はそんな風に安心出来ない。

 人間は欺瞞を排し安心を得る為に、推論を延長し、思弁的な体系を形成する。この時に心に留めて置きたいのは、欺瞞が悪であるという訳ではなく、欺瞞が不安を呼んでいるから、人がそれを退けようと試みているに過ぎないという事だ。正確には、直感に対して辻褄合わせが不足している場合に、人は不安を覚え、その説明原理を欺瞞であると感じる、という順序になる。真理の表現はいつも主体に折り返されなければならない。だから自らの無罪性を信じる事も、それ自体として間違いであるという訳ではない。少なくとも、僕はそう考える。

 

 ここから先は以上の事を踏まえた上での話。素朴に善悪の実在を信じていて、物語というファクターすら認識に備わっていない人間のナルシシズムに触れると、余りにも自我が脆弱なのではないかと僕は思ってしまう。子供ではないのだから、自分が世界の中心ではない事くらい直感している筈だが、勧善懲悪的な体系を解体するだけの思想的な体力がないので、何らかの具体的な褒賞が与えられると自分は間違っていなかったのだと結果論的に判定を下し、その度ごとに誤魔化して来たのだろうと推測してしまう。彼らの踏ん反り返った姿勢はそういう経験によって正当性を得た自信なのだ。そうしなければ自我が理不尽に耐えられないのだろう、と僕は思ってしまうのだ。彼らは善悪が世界に存在しない事を口先では当然の様に言うが、彼らにとって価値の正当性の不在は、目眩を覚えるような事件ではあり得ないのだ。コントロール不能な偶然性を支え切る世界の構築は、彼らの生に於いて実際的な課題ではなかった。それは単純に平和ボケを意味していて、そうでなくても世の中を見渡していれば、まず陥らないイデオローグだろうと思う。まったく、善良さなんてものは思考停止以外の何でもない。とはいえ、そんな事を他者に要求する事なんて出来ないし、僕は彼らの心が壊れてしまえば良いだなんて思ってもいない。その人が満足してるならそれに越した事はないので、結局これは僕が個人的に関わりたくないと感じているというだけの話なのだ(いつも通りの帰着点)。

 

 ただの悪口を書いてしまった気がします。全て気圧の所為にさせて下さい。僕はもうダメです。(書いてる途中で、そんなやつ本当にいるのか?という気分になっています。)

 どうでも良い事だけど、気圧が低い日はベートーヴェンピアノソナタを聴きたくなる。(気圧の低さとベートーヴェンの音色は似ている。)