逆さまだったら台無しだ

  自分の言葉なんてものを僕は軽々しく信用してないけれど、教養や一般論が、教養や一般論として浮いて見える文章を読みたくない。需要はあると思っているけれど、消化されていない知識は、なんだか気恥ずかしくなる。僕は妥当な結論なんて信じない。理屈と情動は不可分だ。逆に固有の経験から起こってしまった観念だったら、どれだけ荒唐無稽に見えても尊重するに値する。そういうのって、どこで嗅ぎ分けているんだろう。文章の響きと匂いが思考をどこかへ連れて行く。机の上にある新品の最果タヒと、中古のエミール・シオラン。逆さまだったら台無しだ。本当は人間が生きているのではなく言葉が生きていて、言葉が人間をして語らしめている、という感じがする。

 

  死にたいんじゃなくて本当は温泉に行きたいだけだよ、みたいな言葉をよく耳にする。心の中の不快感は確かにあるけれど、それを具体的な何かと結び付ける事でしか、僕達は自分の気持ちを表現出来ない。その時に選ばれた具体的なイメージは、こう言って良ければ、経験による虚像だ。本当は何がどう実現する事で、どの様な納得が心に生じるのか、ハッキリしていない。だから凝り固まった死というイメージに温泉をぶつけるのは、(最も単純な形ではあるけれど)一つの詩的な遂行だ。

 でも僕や僕に似た人はきっと、本当に死んでみたいとも思っているんじゃないかと思う。死の欲動と言うらしい。そう言ってみる事も出来るらしい。意識に依る分節化以前の状態へ向かおうとするエネルギー。これは到底理屈じゃ手に負えないので、推論なんてしない。このブログを読んで下さっている方ならご存知だと思いますが(本当にそうか?)言葉に依ってある種の連続性を経験する試みを、僕は続けている。なんて事を言うと、仰々しくて笑ってしまうけれど。

 死にたいんじゃなくて死んでみたいだけだよ、と言うのはどうかな。僕をよろしくお願いします。

 

 自分の苦しみを凡庸なものにしてしまう誰かの眼差しを、他人の心なさを、いつも意識している人の言葉に触れるのが辛い。馬鹿にしているんじゃなくて、本当に辛いと思う。インターネットの酷い所は、大衆文化の醜い所は、不幸を形式に貶めてしまった事だ。だけどやっぱり僕は、始めから不幸なんてどれもこれも、典型的で凡庸に違いなかったのだと思っている。飾り立てなきゃいけない苦しみなんてある筈ないと思う事でしか、僕は個人の苦しみを尊重出来ない。

 

 知り合い(と言って良いのか分からないけれど)がオススメしていた覚えのある、石原吉郎という人の本を偶然書店で見つけたので、何となく気になって購入してしまった。彼は詩人なのだが、僕が手に取ったのは詩集ではなく散文集。例によって詳細は省くけれど、僕は高校時代に何ヶ月もの間、必要不可欠な儀礼を除いて、ただの一言も言葉を発さない時期があった。そして僕はそれを失語症だなんて呼ぶ気は今でもない。というよりも、僕はそれ自体を特に問題にすらしていないのだった。しかし彼は「今でもそれを失語症という大それた名前で呼んで良いものか戸惑う」という気持ちも含め、「失語症が意識されるのは言葉が取り戻される過程に生じる苦痛に於いて」なのだと、その体験を克明に記述していた。シベリアに収容されていた彼と、この僕を比較する事なんて出来る筈がないけれど、幾つかの点に関して言えば、それは僕自身が感じている苦痛にそのまま対応しているかの様だった。納得したという訳ではないが(きっと納得なんてないんだ)、僕の経験はどうやら失語という名の経験だったらしい。

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