自殺を正当化する夢ばかりみてた

 堅苦しい事ばかり考えて狭苦しい知性が嫌になったから、どうにかしたいと思っている。でも僕より遥かにずっと賢い人でも、良く見ていると、その人に固有の苦くて苦しい一貫性の部分では、僕と同じくらい狭苦しいんじゃないかと思えてきて、少しだけ安心しても良いのかなと感じる。笑ってる奴はみんなアホだよ。賢くなりたいんじゃなくて、同時に違う人になってみたいと願ってしまう僕は、最低に賢くない。

 

 

 対人恐怖症だから人と会うのが怖い、という種類のトートロジーが世間に溢れている、気がする。だけどそれは何の説明にもなっていなくて、任意のカテゴリーと等号を結んでいるだけだ。病名として認知する事が実際的な役に立つ限りに於いて意味を持つべき言葉を、意識の中で綺麗に切り分ける事は難しい。言葉は容易に世界を映し出すレンズにこびり付いて、パースペクティブを歪ませる。平凡な幸福とか一般論との比較で自意識の輪郭をなぞっても、良い事なんて一つもなかった。その思考はそのまま、理解出来ない他人をマウントする為の弾丸にだってなる。普通なんてないんだから、汚染されないで欲しい。そんな事は今まさに感じている感情とは何の関係もないんだ。意識の流れみたいなものを僕は信用していると思う。信用したいと思う。

 

 

 承認が欲しい。(インターネットの承認じゃないやつ。)だけどきっと本物の承認なんて夢か錯覚でしかないのだと思う。君の言葉は概して誰かに理解されるけれど、君の事は決して誰も理解しない。言葉に復讐する為に、僕は言葉を失墜させる。本当の声は空の上にあるのか、血の奥深くにあるのか分からなくて、自殺を正当化する夢ばかりみてた。

 

 

 誰かの見てる景色より自分の見てる景色の方が尊いと思わないと、自分の見てる景色に価値を感じる事は出来ない。だって価値というのは比較と交換によって発生するのだから。本当に他の人にも内面があって、全ての人の内面が等価だと「感じて」しまったら、殺人鬼から家族を守る事さえ出来ない。誰が満たされて誰が奪われても、誰が生きて誰が死んでも同じ事になる。(本当に同じ事だ。)そうやって少し極端な状況を想定すると、自分の中のエゴが自覚される。

 決断の時、誰かを無自覚に貶める。自分を大切だと思う事にも、自分の積み上げて来た思想や、自分の認識している表象を大切だと思う事にも、自分可愛さ以外に何の根拠もなかった。これがブレーキの外れた思想だって事は知ってる。僕達は価値なんて殊更に意識するまでもない日常を生きている。辻褄合わせはしたくない。価値なんて本当、なくなればいい。