空中散歩

 相対的に幸せになって、偶然的な価値を追い求めて、それで良い気分になって、良い気分になる事で良い気分になれるだろうか。あの子供は絵を描いているけれど、もし視力が奪われてしまったら。誰からでも、何でも奪い取る事が出来る。当然の様な顔をして、状況に依存している人間の張り付いた笑顔が気持ち悪い。誰もがある状況を少なからず普遍的な価値だと思い込んでいるから、僕は窒息しそうだ。僕は彼らが望むものを何一つ手に入れる事が出来そうにない。だから僕は考える。状況に左右されない言葉を考える。だけど人々を観察していると、どうやら幸福を目指している人は、幸福を目指す人なので、幸福を目指す事しか出来ないらしいという風に見えてくる。無駄な同語反復が何かの手掛かりを残す。僕は人間の不遇を追求した結果、可能な限り平等である様な思想を手に入れたと思っていた。それは相対化だったり、瞑想だったり、運命愛だったりもした。及ばない力によって結果の伴う判断の可能性が奪われると、人は観念的になるのだ。だけどそれさえも偶然性に依る結果でしかなかった、と僕は愕然とする。じゃあこれは何だったんだ。僕は何処に向かって、何を見つけたんだ。もし目に見える幸福が手に入らなくても、自己を受容する方法はある。成る程、立派な事だ。だけど例えば僕が頭を打って、罵詈雑言しか吐かない人間になる可能性は容易に考えられる。僕が僕じゃなかったら、僕みたいに感じない。現実的な価値を可能な限り排除して、純粋な価値を見出そうとしていたのに、そもそも知性なんて当てにならないものだった。考え方なんて、美貌や学歴や年収と同じ位、外面的な要素でしかない。それ自体に何の純粋さも特権性もないのに、何故か都合良く自惚れさせてくれそうな見かけをしていたから、騙されていたのだ。別にそんなもの、なくても構わないのだ。現に僕じゃない人が沢山いるのだから。そして僕が僕じゃない人だったとしても、それはそれで一向に構わないのだ。だとすると誰もが平等という事であり、僕が何も考えかったとしても、今見えているこの真っ白に開けた空間に、変わる事なく存在していたという事だろうか。考える事は徒労だったのだろうか。そうじゃない。考えなければ僕はこの僕ではなかった。にも関わらず僕が考えた事なんて、全く、これっぽっちも、何でもなかったのだ。狂人と話す自分を想像すると、自分の方が狂人だと疑わしくならない理由はない。僕は狂人の事を考え、狂人の気分になってみる。そういう訳なので僕はよく、全てが詩である、という言い方をする。だけど全てが個人的なポエジーでしかないと思う事もまた、何かを説明しているのではなく、僕が今現在の僕を安定させる為に拵えた世界観でしかない。という事になると、何が重要なのか。かつて状況と呼んでいたものとの対立は壊れてしまった。生きる事なんて重要ではない。本当の事を言うと、僕はもう生きているのでもないらしい。ただ、そうした状態であるだけらしい。ある状態からまた別の何らかの状態へ。名前なんてない。当然、それさえも奪われるかも知れないという直感は、変わる事なく無限に僕の先を進んでいて、絶対に追い付く事は出来ない。安全など少しも保障されていない、危険極まりない足場に僕は辛うじて、僕と呼ばれている何かとして立っている。そこから一歩でも足を踏み出すと、全身は宙に放たれる。仕方がないので、孤独な浮遊感を楽しむ事にする。それさえ奪われてしまうまでの、ほんの少しの間だけ。

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