間隙

 観念を解体しようとすると、端的に言って、先験的に誤謬な判断を信念として持つ事さえも人間に可能な生のあり方の一つでしかない、と言わざるを得ない。ある価値観が絶対的であると信じていて、そしてそれを押し付けようとする主体が現に存在する事を、僕は否定する訳にはいかない。知性や考え方、教養さえ全て外面的な要素だ。例えば手始めに他者性に関して考える際に有効な対象が、思いやりや想像力の欠如した人間などではなく、むしろ人間を襲う熊などであるべきだという意味で、僕はそう言いたい。でなければ人間性という恣意的な概念の定義によって、否定するべき他者像を再生産するという茶番が繰り返されるからだ。

 倫理は究極的に主観的なものだ。対話不可能な存在者が他者である。問題は殺人熊の様な生物も意識を持っている以上は、殺人熊の行動が絶対的な他者の表象として機能してしまう事だ。この時点で人命の尊重に根拠など与えられていないという事が分かる。(そんな具体例は瑣末な事だけれど。)というのも、それはただ単に世界を認識する可能な形式の一つでしかないからだ。世界は意識主体のシンボル体系によって基礎付けられるので、この隔たりを一つの主義主張によって統一する事は出来ない。熊は人間の言葉を理解しないし、説得には応じない。もし僕が熊だったら紛れもなく熊なのだから、そもそも何かを考えたりしない。或いは熊なりに考えてるかも知れないが、知った事ではない。そして僕は自分が熊である事を想像してみる事が出来ない。観念的な世界把握は少なからず熊を悪として断罪したり、熊に罪悪感を抱く事を要求したりする。熊が人間になっても事態は変わらない。

 世界を客観的に基礎付けようとする試みは頓挫するが、にも関わらず、その事はある価値観を客観的であるとして絶対視する事が間違いであると主張している訳ではない。一切は基礎付けられないと言いつつ、その事によって、絶対的な基礎を与えてしまっている者を少しでも否定出来る訳ではない。いや、そうではなく、それによって絶対性を否定しようとする者もいるのであり、彼にとって否定はまさに可能だ。そしてそれを正しいと思って随伴する者や、正しさなどないと思って許容しない者もいるのだ。それら全ては平等である、と言いたいが、思っているのは僕であり、差別主義者は存在する。言語によって如何なる正当化も出来ないこうした事態に、トドメを刺す方法は見つかりそうにない。ここに他者性を考える際に生じる不可解な点がある、と思う。相対主義を掲げる事が相対主義自身の理念によって否定されてしまうという議論は良く知られているけれど、ここでの矛盾は言語が世界を実在として固定し、還元してしまう作用によって起きている様に見える。一切の帰結を放棄しなければならないが、帰結が存在しないことさえも正しいのではないのだ。言語によって世界を把握する以上、形而上学を辞める事は殆ど不可能だ。形而上学の否定は、そのまま形而上学の完成を意味する。言語そのものが世界を形而上的に変換する装置なのかも知れない。

 例えばバタイユが非-知と呼んだ経験、或いは仏教者が「そうであると同時に、そうではない」という様な撞着的な表現によって語ろうとする経験は、言語という形式で世界を記述する事そのものが孕んでいる欠陥に対する意識に依るものなのではないか、と思う。しかし固定化された世界から再び安定性の存在しない姿を指し示す為には、言語の限界を見据えた上で、言語を道標とするより他に方法はないのだ。その地平に於いては、全ての知性は(知性の不在も含めて)ある種の詩としか呼べないものに成り果てる。言語は主体を何処にも導かず、従って言語から意味というものが消え失せる。ある価値観を持つ事で求めているものが平穏なのか、快楽なのか、それ以上の何か特殊な経験であるのか知らないが、何かあるものを正当化する主体が、全き無根拠に存在してしまっている事自体は如何なる価値評価も受け付けない。

 僕がそう思う事は、僕がそう思う事が可能だから、僕にそう思う資質が与えられたから、そう思っているだけらしい。僕は一切の価値を押し付けたくない。何故なら主張する事が無力化される現実に立ち会ってしまっているからだ。そうなると当然、主張しない事を主張する訳にもいかない。そういう訳で僕の言葉はいつも迂遠な道筋を辿る事になってしまうけれど、それ自体、何かある原理から導き出された結論ではなく、ただの審美的な趣味なのだとしか僕には言えない。僕の中には何か、同語反復と撞着語の繰り返しによってのみ語る事が出来る経験があるのだ。

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