存在しない風

 春の風の柔らかい悲痛さ。別に感傷的になるつもりはないけれど、感傷の方は勿論そんな事は気にせず僕の体腔に侵入し、具体的な記憶を想起させるのではなく、匿名の記憶の反映となって嗅覚の奥で風景を広げる。

 

 言葉の消滅。沈黙。世界との接点をどこに求めれば良いのか分からず、根を断たれてしまった。自分とは関係のない知識が自動的に細分化されて行くだけ、という感覚。世界はとんでもない速度で動いているらしいと、無数の記号の群れが告げている。様々な言葉や形象は誰かの意思の現れでもない純粋な言葉遊びとして、ふわふわ宙に浮いたまま、煙か何かの様に僕の身体を通過して行く。存在しない風が吹き、振り返ってみると、ついさっき視界に入ったものや、それについて漠然と思った事が、もう思い出せない。

 

 理由も分からず様々な対立が消え去る瞬間があるが、この感覚を精彩に記述し説明する必要も、僕自身がずっと記憶し続ける必要もない。言葉を扱う事は熱意や義務の表明ではなくて、自分の内面を様々な遊びの場にするだけの事なのだと感じている。理由より先に気分があり、気分より先にあるものは僕の手から零れ落ちる。束の間の愛着。相変わらず同じ事ばかり言っていて、文体や比喩の変化が、ほんの少しだけ差異の痕跡を残す。どれが本当の自分かなんて、そんなものはない。

 

  何も押し付けたくないけれど、押し付けるほどの思想なんて持っていないから、判定したくないと言えば良いのだろうか。内省して、結論を先送りにしたい。哲学者の態度。でも生きる以上は仕方ない。仕方ないと感じる事自体が、どこかに都合の良い幻想を求めている印かも知れないけれど。僕が何かを良いと思ったり醜いと思ったりする事自体、僕の意図を超えているのだから、僕は何故だか知らないけれど僕で、僕の見る無意味な夢は、本当に底なしに無意味だった。

 

 精神を誰にでも共通する様な低い次元にまで引き摺り下ろす時に、他者の心を感じる。どんな人間でも殴られたら痛いとか、そういうレベルまで。人間は自身との類似性にしか共感しないし、そうやって人は、他者が同じ人間なのだと気付いて来た。だから例えば、殴られても平気な風な人がいたら、その人を理解するのは難しくなる。共感可能性が低いから。悪意もなく、無意識的に排除しようとするだろう。人間の感情なんて、それほど単純なものなのだ。他者を強く理解しようと試みるなら、他者との絆を取り戻したいのなら、もっと深く、最も単純で悲惨な、ある種の暴力的な地平まで進む必要があるのかも知れない。悲劇の効用。

 だけど、それでも実際に他者の心を感じられる訳じゃない。感じたつもりになれるだけだ。どうして人はそれを求めるのだろう。どんな不安から逃れようとしているのだろう。それとも単純に確かな快楽があるからだろうか。何故だが知らないけれど僕は味わいたいと望み、世界には驚くほど多彩な味わいが存在し、その奥や裏には何もない。まったくもって、下らないのかも知れない。だけど、とにかくそうなっている。人間がその程度の生理的な機構なのだという事を知りながら、他者という表象に本当に興味を持つ事が出来るだろうか。