異邦

 社会的、一般的に浸透しているコードと個人的な価値観の一致は偶然であり、言うまでもなく、この一致が正確であればあるほどマジョリティとして社会に違和感を感じる事なく生活する事が出来る。しかし社会的なコードから逸脱した主観の持ち主は当然、自らの意思を押さえ付けて生活している。自らの主観を社会的なコードに乗せて表現しようと試みる事は人間の普遍的な欲望であり、また社会的に生存する為にも必要不可欠な営為である。生得的な感性や刷り込まれた言語感と、社会的な規範との間に断絶を被った事のない人間は、「自分自身の言葉」なるものが存在しているかの様に振る舞うが、実際には全ての言語は他者のものだ。他者のものである言語によって自らの主観を位置付ける事が、人間性の回復に繋がるのだと僕は思うのだ。しかし誰もが無意識的に、そして矛盾なくそれを達成出来る訳ではない。(この意識と世界の一致を試みる探究は果てしないものだが、今回は社会性に関する議論であるので遠慮する。)全ての表現はその意味で治療であり、防衛である。

  僕はアルベール・カミュの『異邦人』を思う。『異邦人』の主人公ムルソーの倫理的な振る舞いに対する徹底した「無関心」は、彼が卑屈である事も冷血である事も意味していない。そう判断するのは周囲の社会的規範を纏った常識人だ。しかしムルソーの様に確固たる自我を確立する事はそれだけでも困難を極めるのであり、多くの場合、少数者とは虐げられ翻弄させられる弱者である為、現実はさらに厳しい。或いは正確にコードを学習し礼儀正しく愛想の良い仮面を被っているが、内心では気味の悪さや下らなさを感じている人もいるだろう。そうした人の外見と内面のギャップに触れて「捻くれてる」などと思うのは勝手だが、問題の中心はそこまで単純な話ではない。いずれにせよ、多数者の意見によってある個人を短絡的にカテゴリーに放り込み、本質的に多様な人間性を目に見えない様に歪めてしまうのは、典型的な差別の手法である。

 例えば自らの意見を表明せず、現実的な判断を下さずに逡巡する者を、何らか劣った人格と見做す時、我々は社会的規範の権威化を無意識の内に行ってしまっている。しかしある価値観の表明が個人的なものであると認識しているならば、主観的な価値評価を存在論的に脚色する事は欺瞞である。抽象的で純粋な思考は、実践的で具体的な地平に於ける如何なる価値の基盤も導き出さないし、ある一つの基準に権威を与えてしまう事は思考に於いては注意深く退けられなければならない。他者の特定の振る舞いを否定する事は構わないが、それは自分自身の主観の名の下に、実践的な地平に関して為されるべきである。体系から価値判断を抽出可能であるかの様な身振りは思考に於いて適切ではない。(端的に言って、「劣った人間は〜である」と言うべきではなく、「〜な人間を私は劣っていると見做す」と言うべきだ。)

 芸術や哲学の上ではともかく、或いは多様化する趣味性の共同体内部に於いてはともかく、広い意味での社会に於いて多様性は厄介な不和の原因であり、その理解は十分に達成されているとは言い難い。少数者の多くは自らの価値基準が社会的に認められるものではない事を知っており、特に共感する事もない一般的なコードを知性的に学習する事で生活を営んでいるのであるが、その事は彼らに一貫した思想や強度のある実存が欠如している事を意味するのではない。その様な人間は傍目には他者の意見に従順であると同時に一切に無関心である様に見えるだろう。ある文脈に身を浸している人間の主張は、文化人類学者の様に文脈を学習している人間にとっては、全き相対的な価値しか持たないからである。そこには心からの賛同や非難が生じる余地などない。「他者である」とはそういう事なのだ。そしてその隔たりは基本的に埋まる事はない。「他者性を認める事」とは他者が絶対的に隔たっている存在であるという事実を認める事であり、他者と分かり合えるという希望の否定である。

 また、実践的な地平に於ける無関心が、自らの人生に対する責任の回避として捉えられている様をしばしば目にするが、責任という言葉の使用に関する誤謬が発生している、と思う。行為者の社会的な責任は彼の所属する社会のシステムによって決定されるのであり、それは彼の実存とは直接的な関係を持たない。人を殺せば警察に捕まるが、人を殺しても良いと思ってしまっている事は個人の自由だ。全ての人が社会的に適用されている倫理コードを内面化しているとは限らない。そして特定の倫理コードを絶対視する人間とは、それを内面化している人間である。そして『異邦人』のムルソーは、コードを内面化していない存在者として表現されている。責任という言葉は社会を円滑に回す為に機能する概念として必要なのであり、その限りに於いて自由意志を持った個人が設定され、そこに責任の所在が求められるが、その事は現実が本来的にコントロール不能である様を否定する訳ではない。社会的な実存と、世界に投げ出された一人の人間としての実存を混同し、責任という語によって一括りに断罪する態度は誠実ではない。

 価値基盤が解体されたゼロ地点に到達する事は、個人的な自己実現の方向性と如何なる関係も持たない。それは純真たる内発性と主体性の獲得の為に必要ではあるが、その後でなら、立派な人格者になろうが、一芸を極めようが、何もせずに自殺しようが、何でも構わないのである。やはり大衆的なコードと自らの感受性が一致すると気付く事もあれば、逆に全く手の打ちようもない事もある。それでも人は平等に許される。どれだけ最低な人間であっても許されるのだ。だが何も与えられはしない。数々の人格的美徳、数々の処世術、数々の能力は与えられはしない。都合の良い事は何一つとして起こらない。そうした事柄はもはや意味を成さない。水準というものが失われるのだ。彼はただ許されるだけだ。主体的な意識の獲得とは、また『異邦人』に描かれる「優しい無関心」とは、そうした地平の出来事である。