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制限

 極めて直感的な美意識によって数々の言語表現や感情が制限されているという事を、文章を書き、また他人の文章に触れる中で、ふと実感する瞬間がある。実に多くの文体や主題が世に溢れているのだが、僕はその内の殆ど全てを無意識的に選別し、排除しているので、極めて限られた言葉しか手元に残っていないのだ。だけど知らぬ間に近視的な世界を極大化してしまい、逆説的にその中で自らが一切の個性と一貫性を欠いた浅薄な人間である様に感じる様になっている、という事がしばしば起こるのは僕が視野狭窄だからかも知れない。どうという事はないが、こうした選別こそが自我の何たるかを保証するものであり、表面的な愛着であると同時に深奥性である、と思う。直感の要請は、拙く俗っぽい言葉しか持っていなかった僕の感情を塞ぎ込ませるには十分だった。僕は言葉を失い、従って幾つかの感情を見失った。だが僕は徒らに軌道を逸れてしまったのではなかった。何故なら僕はその時、正確な鏡である様な言葉を求めていたに違いないからだ。感情、思考、世界観、そして自らの用いる言葉との関係は微妙なものだ。

 僕が美しいと思わない感情、例えば剥き出しの憎悪があり、それが憎悪として表現される以前の、ある種の暴力的な核がある。憎悪を消毒したからと言って、生々しい熱量が内側から潜在的に消し去られるという訳では全然ない。僕は憎悪の感情を翻訳したのだろうか。そうではない。僕が呑み込んでいたのは「無形のもの」であり、既存の表現の器用な言い換えなどではなく、異なる言語空間に自らを定着させる事で、自分自身を生成し直したのだ。そうとなっては、かつて憎悪と呼ばれたそれ、そんな感情なんて、始めからなかったのだ。

 沈黙と言語は、どちらが先に始まるのでもないし、どちらかに終わるのでもない。それは相補的であり、生きている限りは幾度も循環するだろう。言葉は美意識を遥かに超えたものだ。それは実存と世界の共和である。僕を制限する規約はそれが厳しければ厳しいほどに、僕の自由の保証である。僕は今も、以前と同じ様に自分の扱う言葉に違和感を覚える。それどころか、漂白された気分になっている僕は、積極的に語る事なんて何もないかの様に感じている。僕は自分の言葉を嘘臭くて、しっくり来ない様に感じる。けれども、沈黙なんか終点ではないだろう。そこは長く留まるべき場所ではなく、それは繰り返される反復の内の一回でしかないだろう。