未詳まで

同じ人

暴力表現

 フィクションを仮構し、無秩序の中で、人々の意志に纏まりを持った方向付けを与える事を創造行為と呼ぶならば、現代に於いて、数え切れないほど生み出された「方向」は、もはや根拠も必然性も持たず、観念の数々は全くフラットな水平面上での、趣味や慣習からなる価値観の「座標」でしかなくなる。

 例えば理性中心主義と、それに対抗する、ある種の「低いもの」、理性が排除して来た諸概念の存在、血や刑罰などの暴力性、蜘蛛や驢馬などの歪な生き物、人間達同士の埋める事の出来ない隔たり、激烈な攻撃性、不安をそそる不定形との対立は、今となっては完全に実質を欠いたものとなっている。そんな構図にはノスタルジーさえ感じてしまう程だ。我々が生きる時代では、暴力は平凡な属性の内の一つでしかない。「刺激的な表現」は退屈の代名詞と言って良く、暴力、そして死さえも、相対的な慣習や趣味の一形態へと衰退している(僕はそうした感受性を暴露する表現の先駆としてマネの絵画を思う)。倦怠感による感情の支配は今に始まったことではない。

 暴力は、それが期待されざる事故でなければ役に立たない。人間は暴力をそれと知らない内に待ち望んでいる生き物かも知れないが、しかし、この場合の暴力がイコール血みどろの表現であるというのは間違いだ(もしかしたら昔はそれで良かったかも知れないけれど)。暴力とは予測に対する裏切りであり、思い込みの解体でなければ効力を発揮しない。要するに数々の魅惑的なイメージは本来ただの餌であるべきなのだ。しかし我々は何かしらのイメージを介さなければ想像力の転換を成す事は出来ない。暴力的なイメージは日常という空間に対立する格好の方法として、これからも生み出され続けるだろう。しかし我々の目を本当に覚まさせる様な暴力表現の可能性は、全てが見世物の様になった世の中に於いて、趣味性の共同体がますます細分化されると共に、減退して行くだろう。

 

 なんて事をミヒャエル・ハネケ監督の映画を観て思っていました。