希死

 凡ゆる感覚に希死念慮が広がる。嫌悪感と無関心を振り子の様に往復する日。自然も、様々な創作物も、異性の存在も、洗練されたデザインも、何も美しいと思わない。だってそれは感覚の無意味な羅列に過ぎない。地に根を持たず、宙を彷徨っている浮ついた文脈。僕とは関係のない表象。僕に触れる事のない表象。それら全てに僕は飽きている。見るべき景色も、聞くべき言葉も、解釈すべき出来事も何もない。それなのに、まるで砂糖菓子を口に詰め込まれる様な気分。身体が違和感の中に溶けていく。

 

  正確さ、例えば自殺する者にとってそれは最後の執着の種になるのかも知れない、と思う。どれだけ言葉を尽くしても、ある人にとっては支離滅裂に映るだろう。リテラシーの問題。だけどリテラシーこそが無数に存在する。構わない。僕は正確さをもはや望まない。その人が生きる為に勝手に都合良く解釈すれば良いじゃないか。その人が考えたい様に考え、考えを自分自身の生に役立たせて生きる事だけが大切なのだから。そして何を思ったって、それが死者に届く事はない。だけど僕自身は何を思えば良いのだろう。僕は根っから物事に関心を持つ事が出来ない人間なのかも知れない。具体的な事柄については、どうでも良いとしか思えない。依拠すべき感性を失っている僕は、幾つにも分裂した世界のどれを採用すれば良いのか分からず、細かく痙攣している。

 

  例えば優れた抽象絵画の、目を閉じた時に瞼の裏に残る印象の圧。目の奥に亀裂が入って、そのさらに向こうに暗い死が垣間見える様な。僕はその様な知覚が、芸術の効用の最もたるだと思っている。だけど僕は、ある種の生の向こう側を感じ取るのに絵画や音楽など感覚的な媒介物なんて、もはや必要ない様に感じている。(何故、絵画であって目の前のカップやそこら辺に転がってる石ころではいけないのか?)そうなると芸術は単なるウンザリさせる刺激的な多様だ。そこに純粋なものはない。少し極端な意見かも知れないけれど、そこに感動はない。

 僕はもっと、表面的な感覚の中に愛着を持つ様にしなければならないのだと思う。猫可愛がりと同じ次元で物事と関係しようとする事。それが物事に自ら関与する唯一の可能な動機の始点なのだろう。生きるというのは、きっとそういう事なのだ。安らぎ、平穏、理想、…それは自己陶酔的で自慰的なのだろう。全てはそうなのだ。それで構わないのだ。でも僕にはどうやって何かに愛着を持てば良いのか、検討も付かない。僕は何も欲しくない。

 

 自己陶酔の場を持っている人間が、決して自分自身を否定する事なく、他者と折り合って行く為の技術として数々の理屈がある。この二つは相反しないのだ。方法的懐疑から無根拠な愛着に戻って来られない主体、自己をアイロニーのナイフで無限に切り刻んでしまう主体は、それ自体として誤謬だった。いつだって多様性の認識は手段であって、共通性への愛着こそが重要である事に変わりはない。「無償なるもの」を排した主体は、愛情の対象も、その代替物も決して見付ける事は出来ない。知識は単なる生活の知恵なのだ。それは僕の不安を追い越す事はなかった。これからも変わらない。やり方を変えなければならないのだろう。しかし、どうやって……何だか以前に考えた問題を繰り返してるだけの様な気がする。ただ疲れてるだけかも知れない。気圧とかの所為で。

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