表象

 たとえ世界がフィクションであってもフィクションの中に様々な感情の居場所を見付けられるという事自体を尊重しなければならない、と思う。というのも、それ以上のものは何処を探しても見付からないからだ。幸福や不幸のイメージによる諸々の価値観、即ち物語は本人の意図に依らず自動的に形成されてしまう。幸福の表象(例えばお金持ちになるとか)は個人の生理的な充足感と一致している場合もあるので、現実を物語として相対化したとしても、執着こそ消えども苦痛自体は生きている限り消えてなくなる訳ではない。例えば飢えという苦痛が食べ物を求める時、御馳走の表象がフィクションでしかないと知っていても、とにかく食べない事には充足は与えられず苦痛はある、という風に。人間の作り出す物語は多様なので、ある個人の心の平安や充足にとって適切に機能していないものもあれば、食べ物の様に(ほぼ)確実に機能しているものもある。その「確からしさ」は偏に経験によって与えられているに過ぎない。表象は全て何らかフィクションであるが、我々が表象を通してしか世界と関わる事が出来ない以上、現実/虚構という対立は何の役にも立たない。例えばある人にとってお金持ちである事が他者より優れている事を意味しており、その人が他者よりも優れていたいと望む時、飢えに対する食べ物への欲求が誤りであるとは言えないのと同じ意味で、この場合もそれが誤りであると言う事は出来ない。何故なら人より優位に立ちたいという欲求は彼にとって飢えと同じ様に現実そのものだからだ。その様なやり方を間違っていると思う時、我々は別の物語を参照しているに過ぎない。即ち人より優位に立っても人の心は本当に満たされはしないだろう、という物語だ。しかし現実を変えるのではなく、内省によって心に抱いてしまっている物語の枠組みを変える試みは、数々の尺度の否定による平安という、幸福論の一つのやり方以上のものではない。個人の内面的な経験を直截に他者に伝える事は出来ないので、その効用が論証によって条件付けられるという事はない。僕の見ている赤色が他者の見ている赤色と同じ質感であるか分からないという事と同質の問題だ。尺度の解体によって齎される一種の平安状態は、それが既に起こっている個人にしか理解されない。また人間がある特定の方向へ向かう選択をする時、それ自体一つのフィクションへの根拠のない欲望に依る他ないし、予め(どの様な人間性を獲得するかという)結果を予測する事が出来ない為に、選択はその時点に於ける直感的な飛躍として行われざるを得ない。正当化された方法など決して存在しないのだ。現実と虚構の対立は無効となり、真理の表現は行為遂行的な信仰告白となる。それは他者をただ「誘惑」するのだ。全く無根拠な愛着だけがその発端となる。それしかやり様が無いのだから、それで構わない。それが出来る事を尊重しなくてはならないのだ。こう考えるのも僕が尺度を否定する立場の人間だからであり、それが僕の感情の居場所であるからだ。もはや取り替えの効かない、巻き戻す事の叶わない居場所なのだ。それ自体もまた偶然的な結果に過ぎないと思う。或いは僕が言いたい事は、他人のエゴイズムを否定しようとする事はエゴイズムである、という反省であるかも知れない。

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