焦点

『問題の意見が食い違う人はむしろ奇跡的に気が合う人と思い喜ぶべきで、大抵は問題の焦点が合わなくて、こちらは殆どの場合どうしようもない』という、思ったより遥かに簡潔な表現に出会い、拍子抜けしてしまったという事が先日あった。というのは、殆どのフィクションでは「気が合う人」しか登場しないし、それがフィクションの肯定的な意味での効用であり、同時にある意味で限界なのだという事を、どうやら僕は冗長な言葉で考えて来たらしい…と。別に今までの思考が無駄だとは思わないけれど、随分と無駄な迂遠をした気がする。という個人的な話。

 でもグザヴィエドラン監督の作品なんかはその次元のコミュニケーションの失敗を描けている気もするし、特にフィクション一般の話だと考えるのは間違いの様だ。それから勿論ドストエフスキーとか。旧劇エヴァのラストも感情の伝達が可能であるかの様な振る舞いに対するアンチだった筈。これに関しては日本の漫画(アニメ)の文法ではキャラは表面的かつ典型的にならざるを得ず、一個の人格としてよりも物語を進める為の役割として機能を背負わされる事が、形式的な面から強制させられている、とのこと。(一個の人格として他者から隔てられたキャラクターを描く事が出来ないから、「気持ち悪い」という台詞を最後に物語の幕を閉じざるを得ないのだと思う。)要するに僕は日本的な表象空間が齎す自明性に、ある意味で染まってしまっていただけなのかも知れない。

 まぁその地平ですれ違っていたら大抵のドラマは展開しそうにないし、観念的な対立構造を生まなければカタルシスも得られないし、一人の人間が書く脚本はどうしても作者の解釈の世界であるからその種の齟齬を発生させるのは難しい、という程度の話かも。(それに疲れますしね。)

 

 経験上、多くの人はこの二つ目の齟齬を見ない様にしている事が多い、というのを良く感じる。問題を意見の食い違いの地平に還元しようとするか、話が通じないのは一方が賢くないからであるとか、少なくとも言葉の正確さによって隔たりを埋める事が可能であるという信念を持っている人が多いという印象を受ける。だが実際に価値観に食い違いが起きているなら、理屈による和解はほぼ不可能だ。もし相手の内面が十全に理解出来たと感じるなら、そこには何かしら強引な歪んだ解釈が生じていると考えて間違いない、と思う。なので大抵の場合、最も妥当な解決策は実利的な妥結によって、個人の内面性から問題自体を切り離す事だ。それは納得の行かないやり方ではなく、原則からして妥当なやり方なのである。

僕は他者との隔たりはどうしようもなく厳しいものであると思っているので、逆に後者の食い違いにばかり注意を向けてしまう。それが僕がある種の親密なコミュニケーションに対する意欲を減じさせている理由であり、その所為で妙な諦念を抱いている人間に見えなくもない…多分。しかし異なる他者の世界観を弁証法的に乗り越える事が不可能だと言う事もまた一つの形而上学なので、いつか正確な言語や何らかの優れた芸術によって隔たりを埋められるだろうという可能性の全てを否定する事は出来ない。長い目で見れば多少は埋まっている感じはするのだし。例えば原始人が使っていた言語と比べたら、今我々が使ってる言語はテレパシー的かも知れない…というのは冗談。この問題はその様な次元で白黒付けられるかどうかという点にはない。問題は意識の性質を考えると、それが可能であるという事その物を考える事が出来そうにない、という所にある。だから判断を保留しよう、と言う事さえもカテゴリーミステイクなのだ。

 とにかく僕は他者とある時は繋がってる感じがするのだし、またある時は隔たっている感じがする、ただその感じが上手く生活に役に立つかどうかという事だけが問題なのだろう。我々は結局、自己満足から抜け出す事は出来ないのだ(だからといって人の感情から尊厳を奪い取る理由にはならない)。他者との心理的な隔たりを埋める事だけを目的とした意思疎通は不健全であり、何か、例えば実際的な事態を進める際に慮るべき要素として、というのが良さそう(てきとう)。