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綜合

 僕はしばしば、事象を無理矢理に綜合しようという意識を働かせ過ぎる事で、身動きが取れなくなってしまう。瞬間ごとに継起する様々な感情や、年を経るごとに変化して行った性格、ある思い出深い記憶の数々を、ただの一振りで表現したいという憧れが僕にはあるのだ。ある一つの言葉、例えば孤独、不条理、愛、美など、しかしそれら観念は数多の経験を解釈し意味付ける還元ではないし、一つの綜合が何かある観念の表現であるという事はないだろう。僕は自らが被ってきた数々の暗い夜に向けて、その他多くの諸経験を意味付ける様な、本質的な意義を与えようと試みているのかも知れない。しかし苦痛さえも結局、その他多くの物と対等なモチーフの一つである。そうなると問題はそれらモチーフが、一体何を描く為のモチーフなのか、という事だ。僕の試みは虚しい試みではないだろうか。それらは事実、それ以上でもそれ以下でもなく、ただ通り過ぎてしまったものでしかない。一体これら全ての経験を僕は整理しなければならないのだろうか。人生を記述する言葉は見当たらず、人生という言葉にさえ物語の微かな欺瞞を感じる。僕という現存は解釈を拒絶する。拒絶さえもの全てを拒絶してしまう。何処にそれ、逃れ去る物の正体を求めれば良いのか。一つの物語、一枚の絵画、一曲の音楽は、何か在るところの解答だろうか、さもなければ問いの提示だろうか。恐らくそのどちらでも無いのだ。表現は既に分かっている事を翻訳する啓蒙ではなく、様々な仕方で描線を刻むダンスである。言葉、それは言葉であるに違いはないが、てんでバラバラな瞬間また瞬間ごとの拡散であり、在るところのものを正当化する事はせず、言葉さえもの彼方へ向けて飛んで行く言葉だ。それらが一つの作品という仮初めの綜合を得る時、作品を包み込むベールの色彩、それは人の目を引きはするのだが、得も言われぬ沈黙の色彩なのだ。僕達の内部に漲る生命、苦痛として現前する生命の終わりと時を同じくして恐らく、説得、説教、啓蒙という下劣なる行為が始まる。平易にそして十全に記述出来る内容は、僕にとって語るまでもない事だ。それだから、きっと表現は狙いすました様にではなく、呼吸の様に持続して行く活動の内の一つでしかないのだ。その本質は変遷であり、等号によって記される事の拒絶である。「結局」や「要するに」は誤謬である。自分自身を目掛けて突き進む頭を捥がれた矢印に、一体どんな方向を与えようというのか。観念の正確さなどは、瞬間ごとに継起する呼吸-リズムの常軌を逸した正確さと比べれば到底覚束ないものなのだ。