フィクション

 物語作品の中の他者は、もうその時点である同一の世界観に所属させられる事で歪められた他者であり、恐らく物語というのは他者を都合良く解釈可能にする場を出現させる装置なのだ。それは他者と真に隔たっているという事を表現する形式ではないのだろうと感じる。しかし恐らく物語世界に限らず、現実でもある共同体が成立するとその内部では一つのフィクションが生じ、その内部で様々な表現が演じられるのだろう。そこでは物語作品でそうある様にして他者が都合良く仮構され、物語作品は全体としてその模倣の対象として、一つのモデルとして機能しているのだろう、と思う。物語という形式自体が、理解不能な他者が適度に都合の良い他者へと変換されるマジックが現実に起こり得る事から生まれた筈だ。物語とは他者との出会いを前提として創作されるものである。だから現実に成立する共同体に見られるフィクション性は、物語世界内での歪められた他者像の持つそれと、一致している筈である。物語世界内での意思疎通の齟齬や軋轢は、現実に他者との間で起こるそれと比較すると、隔たりの質というか、齟齬や軋轢の起きている次元が違う様に感じる。

 物語作品の鑑賞に於いては、気兼ねなくキャラクターに感情移入する事が出来るが、それは物語世界が人間によって創られた世界だからである、と思う。作者の現実認識に共感するかどうかは別の話として(少なくとも鑑賞中は)切り離して置く事が出来る。現実ではこの二つの地平が重なり合っていて、感情を行使するべきであるのか分からない。現実に於いては感情的な判断は保留されるべきなのだろうと思う事が多い。こうした差異は、優れたフィクション程の説得力を与える事が現実では難しいからなどという理由で起こっているのではない。他人の感情に寄り添うためには、相手の世界観に寄り添う事がまず前提として必要なのだ。恐らく物語はその重なりを切断してくれる。まず統一された世界内部に存在するキャラに感情移入して、その後に作者の思想について批評するという具合に。共感にはこの順序が必要なので、初めからキャラを作者の観念に役付けられた存在と見做しては共感は発生しないだろう。世界観その物を疑ってしまうと、感情移入は発生しない。

 恐らく現実で感情移入を滞りなく発生させる為にその都度作られるフィクション性がある。異なる人物が一つの世界観に焦点を合わせなければ感情移入を成立させる事は出来ない。その目的は何らかのカタルシスの欲望に向けられる事もある。感情移入というのは物語的に現実を見るという事を前提にするのだが、ここには世界観の押し付けという暴力が不可避的な形である様に思われる。たとえばスカイクロラ草薙水素が、墜落した仲間の死に対して可哀想と涙を流した一般市民に「同情なんかするな!」と叫ぶシーンがあるが、そこで表現されている問題だ。ここでスカイクロラの世界観について詳細に説明する事はしないが、スカイクロラの世界に於いて、一般市民にとってキルドレ達の戦争は一つのフィクションである。フィクションは他者の内面を自己中心的に巻き込みながら解釈する装置であり、起こっている事をありありと認識するのを妨げる。と言いたいのだが、実際には「ありありとした認識」など何処にも存在しない。フィクションを現実に重ね合わせ、そこに他者を巻き込まなければ、何かを表現する事など凡そ不可能となるだろう。誰もが自分に「しっくり来る」フィクションを身に纏う事で現実を把握するのであり、良くも悪くもそれがフィクションの効用である。

  良く目にする言説に「他者と出会え」というものがあるが、その実質的な意味は、物語的に他者を解釈する事で自己を規定し直せ、という事でしかないのだ。それはある種マターナルな幻想や虚構と対(現実を見ろ)という意味だけでなく、むしろ全く逆の、他者が同じ人間であるとさえ思えない世界と対(幻想を仮構しろ)でもある筈なのだという実感がある。幻想が破れている人間に向かって幻想に没入してる人間が、フィクションを捨てろという逆のアプローチを取る誤謬は良く見受けられる。「他者と出会っていない」と一般に表現される関係には実際、他者がいない(内輪ノリ)と、他者しかいない(例外者)という両極があり、「他者と出会え」というのは、その点で「適度に都合が良く、適度に都合が悪い他者の間を揺れろ」程度の意味でしかない。それは他者と決して同一化する事が出来ない現実と、フィクションを仮構する事で成立する関係性の、バランスの問題である。余りにも内輪で安寧とし過ぎるのも、余りにも誰とも交流しないのも何かしら心身に不具合を齎す、と思う。一般論から言っても経験的に言っても、健全なバランスというのは確かにある様だ。しかし「他者と出会え」(それから「現実に帰れ」とか)などと言うと、何か実在の様なものに接触する事が可能であるかの様に聞こえがちだが、そんな事は原理的にあり得ない。フィクションは世界の至る所に浸透しており、「よりリアルな」世界の実在など(体感としてどう思うかは個人の問題だが)そもそも考える事すら出来ない。