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意思疎通

 僕は自分の思考や感情を少なくとも理解可能な言語によって順序立てて説明しようと思っている。しかし他者に於いてそれがどの様に受容され、どの様な考え方に落ち着くかは、僕の知る所ではない。異なる人間の意識との間に同一性を求める事は諦めるしかないのだと思う。結局の所、ある一人の人間の思考や感情は、生まれてから現在までに於ける凡ゆる経験が混じり合うように関係し無意識レベルで構築されているのであり、他者に説明する時のように論理的な整合性を持った姿で形成されているのではない。我々は結果的に何故だかその様になっている思想を、人間の理解力に即しているという意味で論理的な、それなりに単純な形式に乗せて事後的に説明する。その説明はどこまで行っても十全と言う事は出来ない。しかし気が付くと我々は順序を逆転させて、意識によって把捉し、言語によって仮構した世界が現実に即しているのだと錯覚してしまう。それは人間にとって都合の良い解釈でしかなく、現実の正確なコピーではない。しかし人間にとってはその様に形式化された表現によってしか物事を理解し、また他者に向けて表現する手立てはないのだ。だから個人の思考や感情を、その成り立ちや動機まで含めて正確に伝えようとするのは不可能である。こちらが「もっともらしく」口にした説明が、他者に正しく(つまりこちらが意図した様に)伝わったかどうかを確認する手立てはない。他者には他者の中で経験によって築き上げられた思考や感情があるのであり、そこにどの様に新しい情報が組み込まれ、彼ないし彼女がそれをどの様に役立てるかは、表現者のコントロールの埒外だ。だから純粋な内面の一致というのは、それを正確に表現する時点で躓き、次に表現された情報が他者に伝達される事が極めて困難であり、さらに伝わったという事を確かめる術がないという点で不可能なのだ。我々はどこまでも個人として存在しているのであり、他者との心的な合一はコミュニケーションの目的にはなり得ない。仮にそんな事が出来てしまったら、もうその相手は他者ではなく自分自身と変わらないのだ。こうした原理的な不可能性による諦念は、自意識を表現し、それを理解させようとする事に拘る事の虚しさの理由なのではないだろうか、と思う。他人の内面なんて、知った事じゃないのだから。他者は無限に不可知のままで他者であり、内面性の記述によってその隔たりに橋を掛ける事は出来そうもない。自意識による他者への接近は試みる程にむしろ隔たりが露わになるのみだ。コミュニケーションの目的を内面性の伝達に据えるのは適切ではなく、それは子供が遊戯を通して、お互いを理解する事なく理解する様な交流、一つの戯れとして捉えられるべきなのかも知れない、と思う。