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共同体の所作

 特売セールスや福袋などに絶叫しならがら集る人々とか、アイドルのライブでみんなで手を挙げてリズムに合わせてジャンプするノリ(正式になんて言うのか知らない)などを、新興宗教と並列で見せる様な演出を映画などで時々見る事があるのだが、以前の僕にはこの感性への強い共感があった。集団心理というものを全体的にどうしようもなく気持ち悪いと思っていたからだ。最近になってさらにハッキリと、近代大衆文化の諸現象を、新興宗教の奇妙や所作を見る時と同じ位に、心理的に離れた距離から観測している自分を発見した。しかしもう僕はそこに何らグロテスクさを感じはしなかった。自分がそこに参加するのは無理だろうなという気持ちは変わる事なくある。しかし何かしら巨大なスケールからそれらを眺めてしまえば、様々な共同体と振る舞いは、時と場所によって偶然的に発生し、近代文明が宗教的な物語の枠組みとして語る事が出来る現象なのだという視点は、批判的な眼差しとして必要とはいえ、そこに感覚的な気味の悪さを認めるかどうかは個人の感性の問題でしかない。自己の外部の文化圏の風習が奇怪に思われるのは余りにも当然だ。だからやっぱり、僕は自分と親和性の低い共同体の所作を気持ち悪いと感じてはいるのだが、それが単に認識の構造上の問題として気持ち悪いと感じてしまうだけである事を僕は知っている。他者から見て気持ち悪くない所作など、どこにも存在しないという事を知っている。気持ち悪さは多様性の中に還元され、当たり前の事になってしまい、わざわざ言及する価値がなくなった。そうと知りつつも僕が特定の文化圏に所属し、そこに愛着を持つのは、それが人間の生活にとって必要な事だからに過ぎない。早い話が全ての共同体は宗教的なフィクションによって成り立つので、宗教自体はグロテスクではない。或いは全てはグロテスクなのだが、他者の眼差しから逃れ出る様なより合理的な世界観などはないのだ。分析に嫌悪感を混入してしまうのは、十分に対象から遠ざかる事が出来ていないからだと思う。僕はそこに何かしら歪んだ自意識の様なものを感じる。共同体の規模や強度がどれ程のものであれ、それが内輪ノリ的な認識である事には変わりなく、どの様な論理を持ち出してもそこから逃れる事は出来ない。こんな感じに主観的世界の限界を認める事には少しも面白みがない。様々な愛着と偏見を切り離して無力化してしまう世界観を表す事もまた主観的な拘りを記述しているだけなのであり、実感としてこんな風に感じるのは僕が世界に馴染む事が出来ていないからなのだろうな、という風にも思える。既に認識は主体に折り返されている。僕は他者の価値を否定する事に虚しさを感じているのだ。僕は言葉の機能を説得というよりも誘惑として捉えているのだが、その辺についてはまたいつか。