読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

疑う事

「あなた達は思い込みで現実を決め付けている」なんていう台詞を丸でキャッチフレーズみたいに使う輩がいる。しかし全ては思い込みなのだから、我々はどちらがより機能するかという水準で決定するしかないのではないか。そもそもそれはプラグマティックな主張をする為の言説にはなり得ない。俯瞰する事は人間の認識の原理的な拘束から抜け出る事では無い。それを言う事に「お前の考えは間違ってる」以上の意味がないなら口を慎んで貰いたいと切に願う。「思い込みかどうか」とかいう超越論なんて実質的に無用なのである。この世界に於いては「この考えか、あっちの考え、どっちが有用か」だけなのだ。具体的な提案を出来ないなら黙っているしかない。超越論については一人で勝手に考え、一人で勝手に納得して欲しい。さも客観的実在なるものが存在するかの様に思い込み、あろう事かそれを所有していると考える傲岸無知を晒して、他者を混乱させるのは辞めて欲しい。客観的実在など無い。

 こと教育に於いて、別の考え方やもう一つの物の見方を指し示し信じさせる事もせず「疑う」もなにもないだろうと思う。繰り返し言うが、客観的な考え方などなく、有用な別の考え方しかない。考え方には機能があるだけであって、自分自身も物語の内部に安らいでいる事を都合良く忘れ、他者に向かって「疑え」と命じるのは犯罪行為だと思う。もう一つの考え方があるのならば、それが現実世界に対応する為に有効なリアクションである様なもう一つの物の見方があるのならば、それを指し示し、信じさせれば良いのだ。こういう考え方がある、こういう事実もある、と「新しく信じさせれば」良いのだ。懐疑の果てにあるのは錯乱であって、客観的実在なるものでは断じて無い。疑う事からは何一つ始まらない。疑うというのは実質的には手持ちの「信じている思考法」の中から適宜選択を行うという意味でしかない。それは殆ど「注意する」という意味でしかないのだ。知らないものは知らない。疑いようがない。疑っても猜疑心が募るだけだ。信じさせる力が無い人間に、人に何かを教える権利などない。信じる前に疑う事は出来ない。知識を獲得する前に知識を否定する事は出来ない。「疑え」なんて命令文は、言葉の誤用でしかない。何かを信じる以外に選択肢が無いというのが、世界が人間を縛る、最も強くて太い鎖なのだという事を意識していなければならない。

 ちょっとした義憤でした。