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シモーヌ・ヴェイユの悲劇と詩

 ヴェイユにとって、詩、即ち美の発見には恥辱、悪による実存の引き裂きが必要である。美とは我々をうっとりさせるだけではなく、現実の不条理と命の恐ろしさを見せ付けるものでもあるのだ。古代ギリシャでは悲劇が最も美しい表現とされた。何故ならばそれが「本当の事」を語っている様に見えるからだ。悲劇は世界に不条理な苦しみがどうしようもなく存在してしまう事を伝え、それによって傷を負った人間を慰める事なく肯定するのだ。リスクの無い世界では、人は人格の何たるかを理解する事が出来なくなる。悲劇はそうした安住に亀裂を入れるのである。我々は信仰心や、愛する恋人や美味しい料理など、好ましいものが目の前にある時には、それを柱として価値観の中心を支え、諸々の事物を関連付けて生活を意味付ける事が出来る。好ましいものに囲まれている時、我々は自らの執着やエゴイズムに気付かない。悲劇が体験させるのは、そうした意味関連の連鎖の破れである。ヴェイユが用いる「キリストの磔刑」の比喩に代表される「なぜ私が」という嘆きは、自らの所有物への執着やエゴイズムの自覚であり、それを消し去る為に必要な儀礼である。その瞬間、世界は剥き出しの無関心を持って致命的な牙を剥くだろう。しかし皮肉な事に、世界が思い通りにならないという不条理の現れこそが、世界の実在感を我々に伝える唯一の方法なのである。予定調和の世界に我々はリアリティを感じる事が出来ない。であるから、目を背けたくなる残酷な悲劇こそ、我々に真実を伝える表現である。しかし同時に真実は我々を焼き尽くす程に危険なものだ。

 取り返しの付かない悪が現実に存在する。もしそこに美が存在しないならば、悪を被った我々の心は耐えられず、他者に向けて攻撃性を発露させるか、それが無理と分かると自らの世界の表象の方を傷付けてしまうだろう(この場合、本来なら素晴らしい筈のものが自分を侮辱している様に感じられる様になる)。それでも持ち堪える事が出来なければ、気が狂うか、すっかり堕落してしまうかするだろう。しかし幸運にも、まったくもってそれは幸運なのだが、美はやって来る。我々は不幸を被った人間の生を真近に垣間見る時、虫ケラを見るようにして嘲笑う事などしない。また、可哀想だと思って同情するのとも違う。我々はそこに生の全的な輝きを認める。何故その様になっているのか決して分からないが、一切の起こり得る事を誤魔化さずに直視する時、極限的な苦難の最中、これ以上なく低い地点まで魂が落ちる時、神秘的な誘いの風に乗って美は立ち現れる。ヴェイユの「神など存在しないと思いながら祈る事」「神を信じている者よりも唯物主義者の方が神に近い」というある種の撞着的な態度に示される様に、「なぜ私が」と問うその時、一切の賞賛や同情などの現実的な慰めはあってはならない。報いられる事のない悲劇。そしてそれを必然として受け入れるのだから、当然復讐など考えてはならない。すると運命に引き裂かれた実存の内部に、世界がただそこにあるという事実を受け入れる事の、新たな美が現れる。その為には、我々はただひたすらに自分自身の無力を噛み締め、恥辱の中で待つ事だけが必要なのである。

 僕はここで疑問を感じる。それはリスクの問題だ。こうした美の捉えた方は、人々を安逸の中に守るものである一般に考えられている善とは相入れない様に思われる。我々は普通、自らが思い抱いている安寧の日々を成り立たせるものを善と定義し、そこから逸脱する要素を悪と定義して切り離している。つまり普通、悪とは幻想を破るものである。しかしヴェイユが「悪が成されたという事によって善を愛する事」と語る様に、彼女にとって善とは悪の対となる概念ではなく、悪を包括する上位の概念である。それは決して不幸の体験が役に立つから愛せという意味ではなく、不幸があるという事を愛せという要求なのだ。この様にヴェイユに於ける真善美の概念は、不幸の体験によって分かち難く結び付いているのだが、同時にここにヴェイユの過剰なまでの厳しさがある。不条理による苦しみが避けがたい必然であり、そこから逃れようという思いさえ禁じる事が、それらを感じる為に必要な条件であるのだ。つまりここではゲーテが「涙と共にパンを齧った事がないものは…」と語る様な意味で(それを極限まで激しくした様な意味で)、悪に善が浸透するのだ。この様にして善悪の観念が解体されたならば、その後で現世を生きる我々は、如何なる方角を向く事が出来るだろうか。

 ヴェイユにとって美の出現には一つの意図されざる不条理が必要である。不条理を被った人間の表現として、美が存在しているのだ。これは一見して矛盾である。悪は常に意図の外部から生じて来る不条理としてあるので、悪を自ら求める訳にはいかないからだ。もしユートピアを想定してみると、そこに美は存在しないだろう(恐らく真も善も存在しないだろう)。しかし美の感情がユートピアの人間の感情と比して、多かれ少なかれ悪を被る事のない人生は可能であるが、そうした過酷ではない生を歩む人間の感情と比して、優れているなどと言う事は出来ないのだ。ヴェイユの眼差しは一切の尺度が瓦解する特異点に向けられており、そうした考えもまた、一つのエゴイズムとして退けられる。つまりとにかくこの現実に不条理はあるのだから、その限りに於いて美を感じ取る態度や能力に価値はあるのだと、そう考えなければならない。でなければ美はすぐさまヒエラルキーへと転落してしまうだろう。そうなってしまえば、美はもはや純粋ではなくなる。

 しかし不条理の中でこそ現れる美を信じる事が出来るならば、(すぐに思い付くのがこの人しかいないのだが)岡本太郎の様に意図的に自らを苦境に落とす選択をし続ける事さえもあり得ない行為ではないのだ。しかし彼の行動を論証によって暴く事は出来ないだろう。平穏さの欺瞞に対する嫌悪によって引き裂かれ、不幸の他に居場所を失った彼の矛盾に満ちた実存を朧げに想像してみる事だけが可能である。彼に於いては自らの「主体性」こそが、逆説的に、まず何よりも「外部」からの不条理であったのだ。あるいは芸術家とはその様な人種なのかも知れないし、その様な人達にこそ美は相応しい様にも思えて来る。しかしいずれにしても現在の自己を許容するという自己肯定によってのみ、美は可能となる。

 ヴェイユは飢えた人々にパンを施さずにはいられなかったが、それは彼女が施しを普遍的な観念としての善なる行為であると考えての事ではなかった。彼女は自らの内なる声に従って、そうせざるを得ないと判断したから、そうしただけである。それは極めて《私的な善性》なのだ。しかし所有や執着の願望を離れ、自己と世界の関係を注視した結果、施しをしない訳にはいかないという確かな気持ちが芽生え、その行為が可能になるならば、それは一つの善であり、また一つの必然である。《私的な善性》は、完全に意図の外部から訪れたのでなければ、虚偽となる。その様な純粋に内発的な行為には確かに美があるのだろう。一体、そうした自然な感情以前に遡る、抽象的な論理などあるだろうか。一つの論理を採用する事さえも、その根拠は彼の主体性に還元される行為であると言うのに。そして自分が自分である事さえ、自ら意図した事ではない。全て起こり得る様に起こっているのであり、それらは全て究極的に許されている。行為を抽象から決定する事はどうしても出来ない。言葉は単なる道具でしかないのだから。

 ヴェイユは我々がどれ程の不条理に晒されようとも、自らの不幸を凝視するならば、一人一人の心に何らか神秘的な仕方で転回が起きる事を信じているのであり、我々に指標を与えこそすれども、個人の生と行動を方向付ける内なるエネルギーを、論証によって定義付けようなどと意図してはいないのだ。だからヴェイユはその変化を、ただ恩寵と呼ぶのだ。ヴェイユの言葉は他の全ての価値の創造行為と同じく、一つの飛躍であり賭けである。だがヴェイユの思想は形而上学によって倫理を基礎付けようとした多くの哲学者よりも、遥かに冷徹に論理的である。その上で、ヴェイユは哲学者である以上に詩人であるのだと僕は思う。(僕は全ての表現は詩であると思っている人間だけれど。)

 

 

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