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解像度

 不幸や痛みの経験が他人の気持ちが分かる人間になる条件とは思えない。ある程度の不幸しか負っていない人は更に強烈な不幸の体験には共感不可能であり、余りにも過酷な目にあった人はそれほどの苦痛を感じていない人の気持ちなど理解出来ない。全く現実を苦にしない人たちは、(少なくとも外見上は)そうした人たち同士で楽しそうにやっている様に見える。

 子供の、転んで膝を擦りむいたり親に叱られたりした事などの平凡なエピソードへの共感性は、親の不在や虐め被害者への共感性と相入れない。こうした事は特定の共同体における歪みだけでなく、人間の認識の構造に根ざしている。身をもって知らない事を想像する事は人間にはそもそも不可能だ。共感不可能なものへ共感を差し向ける事は、さらに歪な不和を呼び起こすだろう事は容易に想定出来る。分からないものを分からないものとして切り離し、異質なものとして尊重する関係を結ぶのが健全なのだと思う。上部だけの共感は思い上がりであって、余計に事態を悪化させる。凡そ共感的理解というものは外部からの人為的な差し向けによって与えられるものではない。一人の友人や一冊の本との巡り会いは真に偶然的な幸運であるに違いない。だから幸運に恵まれなければ人々は精神的な孤独を余儀なくされるのだ。こうした想像力の偏りは日常生活の中でも良く観測出来るが、それらの多くはこうした「悪意のなさ」の延長線上に位置付ける事が出来る様に思われる。余りにも汚いものを人間は、意図的に目に見えない様にするというよりも、正確には普段働かせている想像力を超えたものであるので、認識の構造上、視界に映りようが無いのだ。その事を責める事など出来ない。

 人間は経験によって自分自身と類似した物の在り様については認識の解像度が上がり、それが共感が生まれる為に必要な条件なのだと思う。高い解像度の世界の中には楽しさや平安がある。それが如何に耐え難い人生であっても、その内部に豊穣な宇宙を見出す事が出来る。苦しみの中にさえ居場所を見つける事が出来る。人間にその様な能力が備わっている事は恩恵と言って構わないと思う。それは他者の見ている世界と比較出来る様なものではない。解像度の高い世界は実在感が増して見えるので、人間はそこに何らかの客観的優位性を与えてみたくなる。しかしこれは誤謬である。そうした階層性の持ち込みはすぐにルサンチマンへ転化する。我々は共感可能なものに共感するだけなのだ。外部の他者との共感可能性を見つけ出す努力はその都度行われなければならないのであって、階層性の持ち込みが逆差別の形を取る事は多々あるが、害悪な思考停止であるだろう。