スクリーンの空

パロディ

俺は自殺はしないよ

  自分自身を振り返ると、漠然と高校時代が一番苛烈だったように度々思うので、謎だが供養も兼ねてその頃の文章を残しておこうと思う。全く文章を書く人間ではなかったので、さして面白みもない気紛れな断片しかないけれど。

 以下抜粋。

 

*****

 

 幸福にはゴミの価値しかないので、そんなものに煩わされるのは愚かな事だ。

 

 一度も自殺を考えた事のない人間の言葉は犬の喚き声の様なものだ。

 

 自分が苦しんでいる様子を伝えようとなんてしていないのだから、絵だけを見れば良い。人生をほじくり返す癖を持つな。

 

 蟻の行列を見て、一匹一匹の思考の差異について考えを巡らせる事が出来るだろうか。次に同じ目で人間を見ること。

 

 自殺に失敗した位で人間が変わる筈がない。

 

 本当の所では自分が凄い奴なのだと思っていなければ、何も出来ない。これはナルシシズムなんかではない。心の底から謙虚になった人はもう終わりなのだ。

 

 生物としての欲求と俺の欲求が繋がっているとしたら、本当は欲求を満たして仕舞えば、全てが済む話なのではないか。俺が人間だからなのだろうか。これは回り道なのだろうか。さめざめとして来る。

 

 苦痛に耐えるほど他人との距離が大きくなる。退屈になると死ぬよりも孤独になる。

 

 どうやっても人に好かれない星に生まれたとしか思えない。

 

 人を殺したい人間がいるとしたら。殺された側は大した問題じゃない。それは単なる運命として考えられる。だが殺す側に視点を当てると、これは一体何なのか。殺す人になりたくない。殺す人になるのは嫌だ。そう願う事は一体何を意味しているのか。

 

 人間の命は誰にでもある。素描は才能でも、命は誰にでも等しくある。だから本当は才能というものはない。

 

 私は歌が上手いと思いながら歌う人間。お前の歌はお前ではないのだ。お前の声はお前ではないのだ。お前は声を使ってお前を伝えたいのか。お前はお前を殺さなければならない。

 

 偽善者になる事は難しくないと思っているが、彼らが普段振り撒いている愛嬌に比べたら、半分も成功していないという事実に絶望している。

 

 人とある程度の時間、一緒にいると駄目になる。テレビの笑い声も、生活を感じさせる雑音も。全てをシャットアウトしている訳じゃないけれど、耐え難くなる。それが他の人にとっては何でもない事らしいと気付いてはいる。だから何を苦しんでいるのか理解して貰えそうにない。

 

 音楽というのは素晴らしいな。それに比べて絵というものはゴミだと思う。本当、ゴミだと思う。

 

 思考停止したら楽だというのは分かるが、一歩の距離を置いて振り返った時、それは思ったより怖いものだから。

 

 何故彼は自殺してしまい、もう一方は生きているのか。何をしたのか。何に生かされているのか。何を乗り越えたのか。何故、乗り越えられない人間もいるのか。何が降りかかったのか。何が降りかからなかったのか。何をしたから今生きているのか。

 

 どれだけ科学が進歩しても全ては神のお陰である事には変わらないだろう。その土台を退かす事は何者にも出来ないだろう。

 

 人間は最悪な時には、綺麗なものも、面白いものも、お洒落なものも、励ましも、美味しい料理も、何も目に映らない。目に映るのは糞だけだ。糞の中に煌めきを感じる。だけども、それは美では無い。汚れや傷や吐き気の様なものだ。それが初めて外界との繋がりになる。それが必要だ。

 

 赤ん坊が無垢だから、汚れていないから、無邪気だから、癒されるとか力を貰うなどと感じることは、褒められた態度なのだろうか。

 

 精神科医になりたいと思う。自分が自殺志願者になっている時、絵に価値なんて何も感じなのだから。心の底から絵に価値なんて何も見出せないから、誰も救えやしないだろう。

 

 欲しい物の事を考えるといつもどうしようもなくて、そうして欲しい物はなくなってしまった。欲しいという感情が分からない。何も見当たらないのだ。脳が完成してしまった。

 

 気分が良くても会う人はいない。気分が悪くても誰とも話さない。俺の気分は、俺自身に何の影響も与えない。俺の感情は、俺とは無関係な代物になっている。

 

 これを知らないと人生損しているよと押し付けて来る中学生の様に、友情や愛が押し付けられる。

 

 笑っている人間は病んでいる。笑っているのに病んでいないという事は有り得るのか。

 

 何も感じる必要はないのだという防御をする。孤独からの、苦痛からの、欲求からの逃避。現実を見ない為の防御だ。絶望したくないから期待はしないし、希望を持たない。それ自体が閉鎖的な絶望となって、価値や意味が消えてしまう。痛みを感じない為に心を空にし、人間を拒絶して、信用と信頼を潰してしまう。しかし苦しみは消えない。俺が一人で心を閉ざしているように見えても、そんな単純な話ではない。人を理解しようとする感情も、人に理解して欲しいと思う感情も既に抑圧されていて、何処かに見失った。人を理解しようとする術を失った。人の事を考えようとするが、何も考えられない。頭の中に誰もいないのだ。必死に苦悩すればもしかして、と希望を予感する時がある。押さえ込んだ苦痛の、途轍もない噴出と共に、希望はやって来るのだ。しかし希望が芽生えるとそれは簡単に殺意に取って変わる。本物の殺意なのだ。何も感じない状態を保っていなければ、殺してしまいそうになるのだ。完全に違う人間になってしまった。

 

 俺だって人と仲良くなりたいという幻想を抱く事はある。だが実際に特定の人間を目の前にすると、関わり合いを持とうとは絶対に思う事が出来ない。

 

 人と仲良くなりたくないけれど、人と仲良くなりたいと思う人になりたいので、人と話す努力をする。自然じゃない。面白くない。だんだんボロが目立って来る。「何が楽しいのか教えてくれ」と今笑いながら話している相手に問いただしたいのを我慢している。経験で分かるのだ。この人がいなくなったとしても悲しくも辛くもないという事が。それを確かめてみたくなる。今度こそ本当に悲しくならないのか。

 

 デッサンでコンクールを獲ってから、スランプの様なものが始まっている。県内一の予備校だから、極端に言えば日本で最も石膏が描ける高2の一人という訳だ。ストレスや不安の原因はただ絵が下手な所為なのだと思い込もうとしていたのが、暴露された気分なのだ。ここで辞める事なんて、今更出来ない。

 

 これから先、分からないという言葉だらけの文章になるだろう。本当に何も分からないのだ。

 

 何故みんな笑えるのだろう。理解出来ない。人と仲良くなりたいと思わない。人の笑顔が嫌だ。何が面白くて笑っているのだろう。

 

 良い事がない。それは正確な表現ではないのだ。良い事のイメージがないのだ。だからその言葉の意味が分からないのだ。親密さという感覚を思い出せない。楽しさや嬉しさを思い出せない。無感動で無気力で無欲だ。面倒だ。他の人もそうなのかも知れない。ただ俺よりも愛想笑いを身に付けるのが上手いだけなのかも知れない。もしそうだとしたらここは地獄だ。

 

 本を読んだが、記憶がない。喋り方を忘れた。音程が可笑しく、発音の強弱がない。声に抑揚がない。疑問文で語尾を上げる事を忘れる。自分の言ってる事が分からなくなる。何かを勘違いしているので絵を描いている。バランスが取れていない。賞状が三枚あるから余計に意味が分からなくなる。現実逃避を現実にしている。自分の絵を引き裂いて捨てる。水張りが何回も連続で皺になって、そのまま辞めて帰ってしまう。今まで一度も失敗した事なんてなかったのに。ああ、受験生になってしまう。人の笑顔が纏わり付くようだ。俺は自殺はしないよ。

 

 自殺未遂をする人間が一番苦しいとは思わない。気持ちは分かるけれど。しかし詳しく書く事はしない。幾ら書いても何の慰めにもならない。何も楽しくない。少しだけ人と話したりしている。暗い気持ちを伝染させる様にして人と話したりしている。俺と話をして何になるのだろう。人の顔と名前が一致しない。この人とはいつ出会ったんだ。一年も前だ。周りの人がみんな同じ顔に見える。事実ほとんど同じ顔だ。感心する程よく似ている顔だ。絵は何だったのか。絵を描きたいと思う人間になりたい。

 

 過去の自分が今と連続している気配が無い。人生の三分の一が空白に感じる。昨日まで小学生じゃなかったか。俺より救いのない人間が沢山いるのだ。でもそれも、どうでも良いという気分になる。

 

 自分自身の暗さや気持ち悪さを表現してそれを人に見せ付けて、一体何になるんだ。何故こんなに気色悪い絵になるんだ。ルノワールになりたい。幸せな人になって幸せな人に幸せを与えたい。幸せは卑怯だ。周囲の人達も幸せだから卑怯だ。正当な価値が生まれるから卑怯だ。そういう人が天国に相応しいのだ。そういう人には死後にだって悪い事はないのだ。幸せになりたい。

 

 殆ど何の記憶もないが、過ぎ去った時間がとてつもなく重い。

 

 他人に暗い自分を見せたくないから明るく振る舞うのは、虚偽ではないと思う。確固とした意志だと思う。こんなことで皮肉を言っても何にもならない。でもそれがどうしても出来ない。理屈の問題じゃない。

 

 友達がいないのは気持ち悪い人間なのだろう。気持ち悪くて不可解で哀れな人間なのだろう。俺は友達が欲しいと思った事はなかった様に思う。友達になりたいと思う人もいなかった気がする。出会いがなかったのだ。あるいは出会っていても、それと認識することが出来ないのだ。友達というものがあったら俺はどうなっていただろうと思う。よく話す相手との関係に名称を与えるなら友達の筈なのだと思っているだけなのだ。俺は自分の情動を認識していないから、友達は俺の中で、無関心の上に成り立つ自覚でしかないのだ。心の中では他人と変わらない。一歩も近寄ってはいない。近寄る事が出来ない。近寄ったとしても俺にはそれが識別できないので同じことなのだ。本当に友達がいた時もあった筈なのだが、今では何も分からないのだ。もし友達がいれば、それは俺の人生ではなく、誰か他の人間の人生という事になってしまうだろう。そういう人間として生きたい。この俺は別にいなくて構わないから。無価値で吐き気を催す、俗物の、汚らしい連中を、仲間として当たり前に見做す事が出来る感覚を持って生まれて来たならば、どれほど楽な人生だろうか。別に俺が他の人よりも俗物ではないように見える訳でもないし、実際にそんなことはないのだけど。俺が俺でなければ、人と関わる度に背徳心を感じる事もないのだろうと思う。そしてこんな隔たりは誰にも伝わりはしないのだ。

 

*****

 

 という訳で、惨憺たる吐瀉物なのだけど、教養がないので素朴さと気色悪さが強く出ていて、生々しくて痛いだけだ。今でも似た様なものかも。どう思いますか。

 わざわざ言語化して文章に残そうとする思考に関して傾向が偏っているだけで、存外気楽に生活をやっていた部分もある気がしないでもない。未熟な思考というのは硬直しがちなので、人間としてはもう少しふんわりした性質も備えていたはず。たぶん、若者なんだし……いや、これだって今の僕にも当てはまることだ。実際どうなんだろう。当然のことだけど、自分が思っているより悲惨な部分と、より良い部分は、混同して現実に含まれている。

 友人についての言及が多いのは、頻繁に到来する特殊な無感動を指し示そうとする為だ。当時は混乱していて単に実存的な問題として処理しようとしていたが、今考えると病的な状態の一歩手前まで来ていたのだと思う。もっとも、それは大学に入ってからピークに達するのだけど。

 絵を描いていた。実は僕は都内の某美大出身なのだ……。せっかく有名美大に入学したというのに、卒業間際になるまで殆ど何も描けない状態が続いていた。線や色を見ても丸で感受性が作動しないのだ。宗教や哲学に目を向けると、僕が陥っているのと類似した無感動を追求している先人がいるようだったので、もっぱらそちらの方面を掘り下げることに集中した。僕の脳は勉強には不慣れだから、これは途方もなく骨だった。そんな訳で、僕の画力は予備校生のレベルから殆ど進歩していない。一生絵を描くことはないだろうとまで思っていたが、最近またダラっと描き始めている。

 そろそろ自己開示した方が、文章を書くにしても気楽になりそうなので、そうしておいた。それと当時僕は重度の皮膚炎に苛まれていたことを添えておかなければならない。体調や外見について、彼は一言も言及していないのだ。多分そうしたことについて考えたり苦悩したりする発想さえ持っていなかったのだろう。彼にとっては意識が全てだったのだ。そんな記憶がある。

 

停泊地

 最近書いた雑文の適当な羅列。

 

 

 たとえば美しい景色を見る時、時々僕の魂はいなくなった友人と手をつないでいる。それは言うまでもなく本当の彼女ではないし、僕の思い出の中にある追憶の姿でさえない。生ぬるい倦怠や哀しみに僕を繋ぎとめようとするだけで、強く生きる力を与えてくれる訳ですらない。もはやそいつは死者や亡霊に属する存在へと成り果てている。だから彼女の面影と共に、生きることの否定へと僕の意志は流れて行ってしまうのだ。彼女がいなければこの世界は美しくないとでも、どこかで僕は思っているのだろうか。出会いや思い出の価値を貶すつもりはない。でもこういうのは違う。こういうのは良くない。

 別に感傷に浸っている訳ではなく、漠然と意識の流れが疎外されている感覚があるだけなのだ。結局、望みは象徴として具体的な人の姿を取って結実するのだろう。たとえば美術史を紐解けば分かる話で、人物の姿は感情移入するのに余りにも手っ取り早く強力なので、一度深く内面化されてしまえば、そこから切り離されることは生命そのものを否定するような、何か根本的な違和感を起こすのだ。もちろんその違和感は克服されなければならない。そうでなければ、生きることを放棄しているみたいじゃないか。

 

 

 むかし、「もう遊んであげない」という言葉で人を傷付けようとする子供がいた。その言葉が発せられるまで、おそらく両者の関係は真に対等で純粋だった。突如、煩わしく嫌らしい政治性というものが顔を出したのだ。僕は電撃を受けた様に硬直してしまった。そしてショックはすぐに次の疑問に変わった。「何故この人は自分の存在に人を傷付けるだけの力があると思い上がっているのか?僕と君はお互いに好きで付き合っているのではないのか?」 しかしそうした感情を適切に表現するには僕は幼過ぎた。だから僕の政治性への抵抗は、恐らく先天的な性格の助けもあって、自己効力感の否定という形を取ったのだと思う。僕は友達に向かってこう口にする。「僕は君にとって、いてもいなくてもいい。」 僕なんか必要な訳がないのだから。こんな風に安直な反対意見をぶつけること位しか出来ないのだった。言葉にした途端、全か無かという思考の窮屈さを感じた。本当はこんなことが言いたいのではないのに。こうした言葉は、余計に人を困惑させ、傷付けるだけだった。この態度は責任の放棄以外のなんでもないから、僕は実際に多くの子供以上に残虐なことを仕出かしていたと思う。そして政治性を自覚した言動が人を惹きつける力は凄まじく、自惚れや傲慢は脅威的な権力であると同時に、純粋な魅惑なのだった。時を経ても誰一人その力から逃れられはしない。

 バランスを取らなければならない。所詮バランスというものが多数者の声によって構築される都合の良い虚構だとしても。自分は価値のある存在なのだと言い聞かせなければならない。恐らく、きっと、本当はあってもなくても構わないのだろうけど。僕は君と無関係じゃない。僕は世界と無関係じゃない。僕は君を愛し、傷付ける。僕は人々の自由の前に立ちはだかる。僕は有用な人間だから、ここにいてもいい。他人の目。他人の目。吐き気がする。

 

 

 身体を包み込む空虚感が、僕が出会ったもの、僕が見てきたことの価値は、僕にとって本質的ではないのだとその都度証明してみせる。その時は本当に楽しいと思い、その時は本当に感動したもの、そうした全てを飲み込む暗点……それは深淵に開いた穴で、凡ゆる表象を吸い込み、一筋の光すらその中心へ届くことはない。というのも、僕は変化し続けるのだから、当然それに伴って僕が求めるものも変化するに違いなく、だから僕は腹を空かせるようにして、絶えず充実の鮮やかさを枯らし続けてしまうのだ。たぶん存在する者全てに課せられたこの貪欲……色彩を喰らう者、彼らは本源的に満足することを知らない。僕の責任に見えるものは、実は全て彼らに負っているのだ。表面的なものを幾ら引き裂こうと、この穴は「全て思うことの出来ること」を「見かけ」として再生する……ただこの空虚だけが永遠なのだ。それは停止とか変化とかいう概念を超えるものであり、だから永遠とは、ただ言語を絶していることだけを意味している。

 ただ言語を絶していること。本質はない。意識に到来するもの全てが青空を装飾する。

 創造の瞬間は一種の和解であるに違いない。インスピレーション以前、イメージ以前には、世界は敵であり、異質な物体として、立ちはだかっている。創造は愛であり、それは他なる者と手を繋ぐことに違いない。しかし我々は和解の可能性であると同時に、孤立への可能性でもあるのだ。何故ならば我々は動き続け、世界は静止していない……均衡は崩れ、離別は訪れる。これは世界観ではなく、平静が破られるあの瞬間、地盤の喪失を感知するたびごとに、確実に生じる経験なのだ。我々は世界と共にある。しかし同時に我々は、世界を手にしているのではなく、他なる者に委ねられ、突然ここに、異物として、意味も目的もなく、投げ出されている自己を自覚する存在でもある。一方は一方の中に可能性として含まれ、常にもう一方に向けて始まり続ける。終点はない。

 親しみの失せた世界。屹立し、罅も隙間もない白い壁。もはや誰も現れないだろう。誰もいないのだから。僕はしかし、期待することを知っている。未知への、すべての知られざる場所に向けての期待。既に終わっていることを理解しながらにして。あらかじめ感じてしまう失望を実際の失望以上に強く味わいながらにして。期待すること。全身は矢の様になる。やがて重力に屈して、後には力なく撓む弦だけが残される。

 

 

 時間が余っていても、不安に苛まれずとも、記憶がうず高く積もっているというだけで身体が重くなる。特に生きたという実感のない人生だから、あまり思い出すことなんてないのだけど(或いはむしろ、そのせいなのかも知れない)、思考は膨大な欠如と隙間を縫い合わせようと必死になる。

 何もなかった。それで子供のようでなければ日々を生きられない。幽霊のようでなければ古い土地にしがみ付いてしまう。

 

 

幼児の素朴さで「人を何故殺してはいけないか?」と問うているのではなく、人とゴキブリの差が感性的な次元で、もはや分からなくなる、最悪の、凍り付いた瞬間がある。

 宗教性とは心穏やかに獲得されるものではない。無意識に抱いてしまっている事物への愛着を暴力的にもぎ離す過程が必要なのだ。全く綺麗事ではない。剥き出しの、何の意味もない、ただの暴力である。その後で人間やゴキブリなどといった枠組みから外れた純粋な表象が現れる。或いは現れないかも知れない。それはただ詩であり、恩寵であるから、誰にも予期できない。

『恩寵を招くものもまた恩寵である。』(シモーヌ・ヴェイユ

 この言葉の意味するところは、暴力が神の恩恵であるということだ。無感動と麻痺への失墜。しかしそれが神の意志であるなどと信じることなく、完全に惨めになって落ちていく必要がある。宗教的共同体の歴史は失墜を人為的に為そうとする試みの結晶である。しかしそれが本当に純粋さへと届くことはない。あったとしても非常に稀である。何故なら共同体はその成員への世俗的な愛情を基底に持つものだから。偉大な聖人は宗教的共同体に名目上は属していながら、全実存を賭けて完全に社会から断ち切られて孤立していたのだ。そしてそれは自ら意図した孤立ではなく、外から与えられた使命として余儀なくされた断絶だったのだ。それは後から物語られるのとは異なり、実際には微塵の崇高さもない、単なる馬鹿げた事故の有様だったのだ。

 

 

 死ぬのは怖くない。分かり切った話だ。どうなるかは分からない。だけどどうなるか分かっている。この間に矛盾はない。今こうして生きているのと変わらず、僕は外部に晒されていくだけなのだ。知る事のできない何かが僕を浸していて、それは永遠に僕を、僕が僕でなくなっても、浸し続ける……僕をして僕を動かしている誰かがいる。そいつは感じ得るものさえ彼方から来て、また無へと帰っていく。だけど僕は「何かを感じる」ということが出来ているか自信がないんだ。それが問題なんだよ。馬鹿げたことがしたくても、何も思いつかない。抑鬱的な性質が骨の髄まで染み込んでいるからね。ちっとも愉快になれない。きっと、本当はどんなことだって楽しめるはずなんだ。誰でも思いつくような下らないことでも、それは最高だ、と言って笑いあえるはずなんだ。僕は最後まで笑えそうにない。結局何も楽しめないのかも知れない。自分は面白いことをやっているのだという惨めな自覚に、喜びを感じるフリをすることしか出来ないのかも知れない。それでも僕らはこんな冷たい感情だけを媒介にして知り合った訳じゃないはずだ。僕らの共通点は、何も感じられないということに対する意識だけではないはずだ。それが何なのかは分からない。或いはもうとっくに分かっていて、言葉にされないだけなんだろう。思うんだが、きっと全部が良くなった後でも……そうじゃなくて、始めから全部が良かったのだとしても、やっぱり僕らは出逢うことが出来たに違いないんだ。いつか、どこか遠く、未来で、或いはすぐそこで、明日か明後日かも知れないけれど、君はまた僕に声をかけるだろう。水溜りの波紋のようになって、柔らかく降り積もる影のようになって。別の存在となって。別の存在となって。そして僕は君の声、君の姿を認めるよりも早く、もう君を知っているのだ。君が君だということを、最初から知っているのだ。そのとき僕には分かるんだ、君が「それ」だということが。僕は信じる。怖いことなんてない。僕には確信があるんだ。

 

 

 三月に大学を卒業していました。まぁ、このブログに大学生だと書いた記憶はないけど……。体調が優れず、一年留年しましたが、今は問題なく働いています。

 

形式と内容

「怒鳴ったり哀願したりするのはよせ、言語的コミュニケーションをしろだって?しかし僕はまさに怒鳴り声のような非言語的な表現の意味しか理解できないのだから、君のいう《言語的コミュニケーション》の定義など、僕を前にしては機能しないのだということを君は知る必要があるね。僕のこの発言がまさに言語的だって?馬鹿言っちゃいけない。これは長く多様な発音を持った呻き声だよ。」

 

 

 

 怒鳴ることが感情的ないし暴力的だから許されるべきでないというならば、友好的態度による団結の感情的で暴力的な様をも非難するのがフェアというものだ。こんなのは折々の政治的妥当性に過ぎない。感情的になってはならないのではなく、ある環境で適切ではない振る舞いがあるだけだ。それならば、例えば「自分は市民社会のルールを内面化しているだけの人間です」と言えば良かろう。ある規範を内面化する際に常に付き纏う問題だが、内面化それ自体を自覚していないことは既に欺瞞の始まりである。そうした自己弁護の非誠実さを非難することが出来る人間は少なくとも社会には存在しない筈だから、この言い分の陳腐さを忌避する必要はないし、陳腐さに耐え忍ぶべきなのだ。むしろその程度の退屈な(ある共同体におけるルールの適応といった)問題に起因する感情の単純な表明を、その動機が陳腐であることを理由に嫌うことで生じる問題があるのだと言いたい。それは既に消え失せた正当性への誤った執着が生み出す問題である。政治的妥当性に過ぎないと言ったが、政治的であることには積極的な価値も存在するのだ。それは自分の行動が潜在的に他者を排除する能動的な選択であることに自覚的であるべしという規範である。

 断っておくが、頭脳の上辺だけを用いて思考する者が言うような「凡ゆる規範の消滅」などあり得ない。たとえ「規範の規範=神」が存在せずとも、ある規範の否定は直ちに別の規範を指し示すことであり、人間が規範そのものから逃れ出て行動することは不可能なのだ。では確たる正当性を与えることなく如何に行為するべきかを問題にしなくてはならないだろう。言うまでもなく僕は怒鳴る人間を擁護するつもりはない。(僕は感覚過敏だ…どうでもいいが。)僕はこの件について、何者も擁護しない。

 

 こんな風に前置きをしたが、僕は道徳についてではなく詩について語りたい。

 

 感情的になってはならないとか、身振りや語気は不純であり《言語的コミュニケーション》が通じない場合にのみ止むを得ず使用されるべきであるなどと言うならば、特定の性質だけを批判の対象として限定してはならない。形式と内容の区別はデカルト由来の肉体と精神の短絡的な二元論に値する。そうした二元論に於ける限界を、対立を極限まで推し進めることで検討してみれば良かろう。結論を言えば、肉体なき精神も、形式なき内容も共に(妄想の中でさえ)存在することは出来ない。ある身振りや語気を示し、それを否定するとき、透明な伝達の可能性を幻想してはならない。(例えばカミュが『異邦人』に用いた「白い文体」は、あくまで白であり無色ではない。)沈黙さえも例外ではない。黙っていることが意味作用を持たないとでも言うのか。ある表現の機能は他者に向けて賭けられている。その適切さは両者間でその都度形成される合意であり、それ以上の普遍性を含まない。

 ある場所では怒鳴ることは機能するが、ある場所では機械的な理屈が機能する。そしてまたある別の場所では暴力が機能するのだ。それらは等しく「言語的な意味において」機能するのである。道徳に普遍性が認められない以上、階層など存在しない。例えば「人間的/動物的」という区分は無効である。ある表現が動物的だと言って非難することはもはや出来ない。そうした振る舞いが「動物にも行い得る」ことを示しているだけなのだから。その様な尤もらしい二元論は形を変えて絶えず姿を現わす。しかし構造的な眼差しによる説明も、端的に政治の問題として感情を煽っているだけである。それは観念的な正しさを偽装しているので余計にタチが悪い。僕は感情を煽ることを否定しているのではない。それしかやりようがないことを意識した上で方法を選択すべきだと言いたいのだ。父なき時代とはこうした価値の乱立を意味する。だが価値そのものが消え去る訳ではない。

 中途半端な抽象は対立の構造的な欠陥を隠蔽するためだけに当の対立を持ち出す。形式の持つ威力を免れる可能性など誰にもあり得ず、沈黙や穏当を選ぶにしてもそれは権力の発露と無縁ではないどころの話ではない。多くの場合、人は政治的により機能する方を好んで選んでいるだけである。誰かの微笑みは、他の誰かの拳よりも強大な力を持つかも知れない。方法それ自体は単独で裁くことが出来ない。習慣的な印象に目を眩まされることなく、既に何かが排除され、何かしらの排他が完了された空間内でのみ中立を気取っている自己というものを反省しなければならない。

 何かを暴力的だと見做し、集団的に排除する動きもまた暴力的である。彼らによって糾弾される暴力性といえども、当の対象に固有の性質に由来しているのではない。それは指示されて始めて暴力となる。何故なら暴力とはそれを認識する者の心情的な堪え難さを意味するのだから。残念ながら「殺人の暴力性はそれ自体の性質に由来するのではないか?」という問いは無力である。確かに殺人は生の根元からして堪え難さを引き起こす、何か例外的な脅威を孕んでいるかも知れない。その特異性は十分に考慮されるべきだろう。しかし「そうあるべきだ」という叫びは、どこまでも叫びに過ぎない。特定の殺人が見過ごされ、次第に認可され、最後には賞賛されるまでに至ったある時代を思い浮かべることは、余りにも容易いのだから。無論、糾弾することは正しい。それは常に正しいのだ。正しさもまた暴力的である(それがたとえ自明であるかのような悪の糾弾であったとしても)ということを忘れさえしなければ。

 一般論はこうした価値の変容が、かつて闘争によってもたらされ、まさに今も闘争によって塗り替えられているという、その血生臭さを中和する。それは無責任な日和見主義者の自己正当化に過ぎない。その戦法は不徹底に表現を形式/内容へと二元化することで成り立っており、構造的な欠陥を抱えている。自分自身の名に於いて語ること。それは積極的な意志(=別の形式)の創造であり、そこには具体的な力の動きだけがあり、如何なる正しさの保障もない。意味内容は形式の効果なのだ。さて、僕の文章に僅かばかりの説得力が生じているとしたら、それは一体何によって生じているのだろう。

賽を振る

 例えば「泣き喚けば人に気持ちが伝わる訳じゃない」という種類の戒めが、全く同様に、「今こうして書いている文章が誰かに理解されること」に対しても生じている。それくらい言葉が他者に伝達されることに飛躍を感じるときがある。

 言語能力の有効性は、赤子が泣き喚く様な一つの賭けから別のもう一つの賭けへと、ただ横滑りした結果として、事後的に与えられているように思う。自分がそう考えるところの言葉の正確さを心掛ければ意思伝達の可能性が上がる訳ではなく、言葉は鳴き声の派生であって、環境が適切さの水準を決定するのだ。

 

 (子供の頃、自分の見ている世界が全くのデタラメであるかも知れないという不安の一部は、自分は並外れた人間なのだと思い込むことで回避されていた気がする。)

 身の振る舞いを知ることで、不定形な実在は外的な規則に絡め取られる。自惚れと同じように、自分を凡人だと受け入れることも、劣等感に苛まれるのも、多数に対する少数を恐れるのも、実存的な不安を隠蔽するために拵えた嘘のバリエーションであることに違いはなかった。僕がまだ僕である以前に触れていたリアリティに相応しい場所は、嘘の内部では決して見つからない。


 孤独が世界を剥がすまで、知性が失墜する暗がりに向けて、真っ逆さまに落ちていけるようになること。他者への伝達可能性による意味の正当性に保証を求めることを辞めれば、正常も異常も、中心も周縁もない時空が出現する。それを受け入れさえすれば、不安は不安のままで、敵対すべきものではなくなる。

 

 本を開くと理解できる言葉が書かれている。挨拶をすると「こんにちは」と返ってくる。そうした契機によって、再び秩序の内側に立つ。個人的な推測が世界を固定する。目に見えないものは存在しないことになる。安心は訪れるだろうか。次に出会う本や人にだって、僕は同じように触れることが出来るのだと信じる。それは妄想ではなく客観的認識と呼ばれる。僕は根底さえもの彼方に生きているのだ。

  狂気の淵から生還すると言うのは、いつだって適切ではない。回復するべき正しさなんて存在する筈がない。いつもいつも繰り返し、これは偶然なのだと感じるべきなのだ。姿なきものを忘れないために。

 

 

 ☆  ☆  ★

 

 

 意味や目的など存在しないことも、到着した時に問われるのは「今までどうだった?」という質問であり、最初に見定めたゴールは幻想でしかないことも、知っていた。振り返って初めて現在を生きることの重大さに気が付く、陳腐な劇の主人公のような盲目さで生きてはいなかった。未来へ目標を先送りすることの中に実質はないということを、正しく理解しているつもりだった。

 それにも関わらず、僕は閉じ込められ、如何なる輝かしさにも手を伸ばすことが出来ず、どんな充溢も経験することは出来ないのだと予感していた。そしてそれは決してあり得ない話ではないのだと、ひしひしと感じていた。


 意味や有用性といった観念から自由になることは新たなスタート地点であり、それはどんな描線を引くことも可能な下地に立つことでしかない。イメージはいつも外から訪れ、偶然が新しいものを引き連れてくる。僕に出来ることは、より良い兆しが現れるのを待つことだけだ。

 何を体験することになろうと、僕は少しも世界を知ったことにはならないだろう。だけど僕は真理の不在なんて恐れていない。僕が恐れているのは、体験を体験足らしめる「何か」の不在だ。


 例えば外的な価値基準に取り憑かれ、勝敗にしか意義を見出せなくなっていた人が、ある日、身の回りに当然のように存在する物の美しさに胸を打たれることがあるとする。憑き物が落ちたという訳だ。しかしそんな風に「今ここ」を取り戻すことが出来たのは、彼に懐かしむべき生命の実感や、愛すべき故郷の記憶が備わっていたからに過ぎないかも知れない。別のある人はそうした外的な価値の虚構性を全て理解した上で、乾涸びた残骸だけを目にすることになるかも知れないのだ。


 他者と比較することから生じる惨めさを解除したところで救われないみすぼらしさは存在する。非言語的なものへ繋がる回路が焼き切れていることを発見してしまうという絶望がある。

 水を飲み、渇きが癒されるのを快く感じること。カーテンを開け、差し込む日差しを綺麗だと思うこと。そんなことさえ既に一つの恩恵であるかも知れない。


 自力が通用するのは価値を相対化する所までだ。そこから先は人間の意思を超えている。そのことを無視すると、身体性もまた一つの権威へ変貌してしまう。

 わざと物語に騙され続けている人もいるだろう。自分自身の体を痛めつけたり、命を危険に追いやったりすることでしか生きた感触を得られない人もいるだろう。ただ僕はそうした欺瞞を辞めることに決めたのだ。

 誰もが身体に豊かな生命を宿しているなどと、あらかじめ言うことは出来ない。それでも自分自身を他者として信頼し、サイコロを振り続ける。そうすることの内にだけ、僕の願う充足が舞い込んでくる希望がある。

 

捩れた方法で

 僕は物事を理解できる。僕は現象を解釈できる。だけど僕の理解や解釈が他者のお眼鏡に叶うかどうかに関して、つまり僕の理解したと思っていることが、第三者の価値にとって『理解に値するかどうか』に関して、一切の自信がない。僕の不安はこの様な形で、凡ゆる知的な努力を根源的に上回っている様だ。

 

 物事を理解したという感触は、直接的で無根拠な直感としてしか正当化しえず、その社会的な正当性は、つまりその直感が他者に伝達可能なものとしての地位を得るかどうかは、他者の表情や身振り手振りによって賭けられている。例えば、僕が子供の頃に、算数の九九を正しく諳んじることが出来た際の、大人達の「優しい反応」が、そうした「手応えの反復」が、自分の直感が実際的に有効であるという、客観性への信頼を形成するのに役立つ唯一の指標なのだ。要するに僕は「僕が理解したと信じること」を信じないことだって出来るのだ。自己自身と世界への信頼が発生する根拠を指し示すことは出来ない。暴力に耐え得る強度の言葉-世界認識など存在しない。この文章を恐れたまえ。

 

 他者達が犇めく世界をこの様な疑惑の観点から眺めると根源的な不安が生じるため、人は問題を単純化する。つまり「僕の直感に与えられた『理解の感触』が正しいのだから、彼がそれを認めないならば、彼の方が間違っているのだ」という具合に。この二者択一の思考が社会の前提となる。

 

 古典主義は世界の悲劇性を知っている。世界の悲劇性は本能心理学のそれとはまた違った源泉、即ち「客観的な」根源がある。マニエリストは、しかし、世界の「メランコリア」の内に立っている。それは彼が主観主義者だからだ。「不条理な」「エロティックな」狂気にすら陥る程に、「イデア」における、また「空想」裡における反対物の「狂気的」統一をすら成し遂げるほどに、主観主義者たり得るからだ。即ち、形象の世界と彼自身のエロティックな表象の形象とは、ーー自閉症的にーー交流する。彼を執拗に襲う非合理的な形象の数々ーーそれらは如何なる意味でも「自然」とは無関係だーーが、二重の意味で彼を満足させている。より適切な表現を用いれば、言うまでもなく自己満足と同様に繰り返し起こり得る、世界の「黒ミサ」の中で、この非合理な形象に満足を感じ、またこの形象を通じて満足を得るのである。「意志」と「表象」とは、怪物的な一致する不一致の内に一体となる。この過程に於いては、世界はただーーデフォルメされた形で現れる他はない。(ルネ・ホッケ)

 

 古典主義者にとっての「悲劇」とは、確固とした一つの事実であり、例えばそれは災害による死亡人数や、どの国が戦争をしているかなどの報告によって、客観的な基底を成した世界の上に与えられる感情だ。しかし主観主義者にとって現実の出来事や事実性は、まず差し当たって問題とはならない。彼らの「メランコリア」とは、自己と、その主観性が今まさに構築しようとする世界との中間で生起する、悪夢的でせん妄症的な荒廃だ。彼らは認識の枠組みそのものを始めから信用していない。彼らの目に映るのは、理路整然とした纏まりを失った無意味の形象が継起して出現する、錯乱の現場である。それら矛盾に満ちた(秩序を持たないという意味で原理的な混乱をきたしているのであって、合理主義的な枠組みに適わないという理由による「客観主義者にとっての矛盾」ではない)形象を結び付ける内奥の力の出現は、ただプラトン主義的な直感を指し示すことによってのみ語り得る、独我論的な(言語の極北の意味に於いて)自己満足に終始するより他にない、迷宮からの束の間の解放なのである。

 

 そのため新たに創造された表象は奇妙にデフォルメされている。しかし人間がデフォルメされていない表象を認識することなどない。もし「ありのままの現実」が在るように見えるならば、それは習慣と愛着が呼び起こした錯誤でしかないのだ。亜流形式主義者による表層的グロテスクを峻別するにしても、ことが生じる現場が一人の主観であるところの形象同士の結合は、「観念的」である他に成り立ち得ず、故に硬直した古典主義=自然主義の排他性は、こうしたプロセスの忘却によって起こるのである。他者への伝達を自明視した「自然」など、本来、創造なしには存在しなかったのだ。常に自分自身の主観性の中で、「プラトン主義的」に矛盾を乗り越え、決して自己満足以上の結果を偶然としてしか享受せず、ただ一人「イデア」の内に調和を試みるのが芸術家の目標であった。「メランコリア」の芸術家は、意味が砕け散り、イメージが奇妙に絡み合いながら湧出する、荒れ果てた更地にまで降りて行く。

 


 しかし表象されたものはすぐさま記号化への危険に晒される。ここである一つの深刻な逆説が生じる。完成されたものは何故それが完成を表徴出来るのかという疑問に対する根拠を持たないが故に、未完成よりも恐ろしいという逆説が。理性は表象を「既に在ったもの」として客体化する。客体化された対象はプラトン主義的な自己=恩寵という手触りを拭い去る。もはやそれは有象無象と同じ土台に並び立つ一つの意味に過ぎなくなる。即ち(常識的に考えられているのとは逆に)理性の健全さこそが主観主義的な感性を不安に陥らせるのだ。直接に感じられたもの以外の全てに疑惑の眼差しを向ける者にとって、充実した安心感は、記号体系を形作る理性の解除によってもたらされる。


 だが理性の眠りはまた狂気を呼ぶのである。だから主観主義者は平静な生を送る上で、作為的な仮面を脱ぎ捨ててしまうことは許されない。世界との和解は恩寵であり、残念ながら、それは持続しないのだ。彼らは自分の言葉を、自分が構築した世界の正しさなど信じてはいない。しかし他者の存在する空間で生きる上では、直接に感じられたものを、客観性へと堕落させ、その仮構された秩序を自明なものとして扱わなければならない。ただしこの主観性の客観性への置換こそが(どれだけの科学的論証も虚しく)どんな奔放な想像力にも増して、飛躍的なアクロバットなのだ。理性崩壊の兆しはそこかしこに広がっている。彼らにとって社会を生きることは緊迫した、息を継ぐ間もない、賭けの連続となる。

 

追悼

 幸運の意味を知っているから。不条理を知っているから。それが起きるということくらい分かっていた。だから君が自ら命を絶ったからといって、悲しむこともなかった。改めて驚くことはなかった。それは悲劇じゃなかった。僕は世界の残酷さを知っていたから。世界は僕の思う通りに運行しているわけじゃないことを知っていたから。それは不幸でもなかった。君のような人間にとって、人生に意味や希望があることは前提ではなかったから。僕らが大した仲でもなかったことだって関係しているのかも知れないけれど(僕たちはいわゆる友達を作れるような人種ではないから)、そんなわけで君の死は、ただ起きるだろうことの一つでしかなかった。僕に「どうして」と口にする気はない。僕には原因を説明するつもりも、価値を表明するつもりもないからだ。

 だからといって僕が何も感じなくなった訳ではない。むしろ以前よりはっきりと感じられるくらいだ。それは二度と再演されることのない音楽の停止の様なものだった。他に名前を付けてしまえば取り返しようもなく変質してしまう、比類なき終わりだ。ただ一回の出会いと、君と僕が存在した僅かばかりの中間と。そしてこれからも時間は、何も変わることなく茫漠としたまま流れていくことだろう。たぶん僕は純粋に物事を受け止めるようになったのだ。ただそれだけだ。不在の感触……さようなら。ほんの少し結び付いた言葉、僕が訪われた表象、さようなら。きっとそれだけだ。

 

日差し

 少し熱いくらいの日差し。時間がゆっくり進む気分。退屈を感じるのは良い兆しなのだと思う。(僕は生きているか死んでいるかの実感も湧かないまま消えて行くつもりだったのに。)空が綺麗だった。木々の色が深くなって、風が強くて、僕はさざめきが好きだった。

 どこか遠くで誰かが演奏した音楽を聴く。場所とか世紀とか人名が、かつて存在した事実なんて本当にどうでも良かった。そんなことがどうして分かるのだろう。確かなのは僕がいま聴いている音だけだ。微細なものが巨大なものと和解して、凡ゆる懐疑は意味を成さなくなった。必然とか運命とか。それはどこからか運ばれて僕にまで届く。馬鹿みたいだけど、それで十分だ。

 

 疑う余地もなく幸運の結果がばら撒かれている。大地とアスファルトは同じで、蟻の巣と高層ビルは同じだった。それは角膜に刻まれた描線で、手のひらで払われて消える模様だった。人工的で作為的なものは何処にも認められなかった。散り散りになったのは光。揺らめいているのは湖で、構築されるのは石だ。言葉と意味の連なりは、瞬きをする度に配列を変える星座だった。そして結局、全ては僕の眼差しに帰属していた。美しいことも残酷なことも、全て無償で現れるのだ。遠くから。それは途方もなく遠くから。

 

 相変わらず生活は面白くなく、創造性は欠落していて、僕は二十数年の間に捏ね上げられた自分の傾向性に辟易している。天才にだけ許された充足があるのだろうし、それは僕には手が届かない。こんな風に恩寵は静けさを与えるだけで、表面的な不協和音が消え去る瞬間なんて、この程度の気休めなのだろう。周囲を見渡す限り、死にたくなる程に重苦しい何かは見当たらない。それは有難いことだけど、それでも僕は基本的に死に惹かれている。何も変わりはしない。

 自殺に必要なのは苦悩でも、絶望でもなく、意識の軽さだ。勇気すら要らない。むしろそれは邪魔なのだ。こんな調子なら、死ぬのは余りにも簡単そうだ。と、ふんわり思った。