スクリーンの空

パロディ

日差し

 少し熱いくらいの日差し。時間がゆっくり進む気分。退屈を感じるのは良い兆しなのだと思う。(僕は生きているか死んでいるかの実感も湧かないまま消えて行くつもりだったのに。)空が綺麗だった。木々の色が深くなって、風が強くて、僕はさざめきが好きだった。

 どこか遠くで誰かが演奏した音楽を聴く。場所とか世紀とか人名が、かつて存在した事実なんて本当にどうでも良かった。そんなことがどうして分かるのだろう。確かなのは僕がいま聴いている音だけだ。微細なものが巨大なものと和解して、凡ゆる懐疑は意味を成さなくなった。必然とか運命とか。それはどこからか運ばれて僕にまで届く。馬鹿みたいだけど、それで十分だ。

 

 疑う余地もなく幸運の結果がばら撒かれている。大地とアスファルトは同じで、蟻の巣と高層ビルは同じだった。それは角膜に刻まれた描線で、手のひらで払われて消える模様だった。人工的で作為的なものは何処にも認められなかった。散り散りになったのは光。揺らめいているのは湖で、構築されるのは石だ。言葉と意味の連なりは、瞬きをする度に配列を変える星座だった。そして結局、全ては僕の眼差しに帰属していた。美しいことも残酷なことも、全て無償で現れるのだ。遠くから。それは途方もなく遠くから。

 

 相変わらず生活は面白くなく、創造性は欠落していて、僕は二十数年の間に捏ね上げられた自分の傾向性に辟易している。天才にだけ許された充足があるのだろうし、それは僕には手が届かない。こんな風に恩寵は静けさを与えるだけで、表面的な不協和音が消え去る瞬間なんて、この程度の気休めなのだろう。周囲を見渡す限り、死にたくなる程に重苦しい何かは見当たらない。それは有難いことだけど、それでも僕は基本的に死に惹かれている。何も変わりはしない。

 自殺に必要なのは苦悩でも、絶望でもなく、意識の軽さだ。勇気すら要らない。むしろそれは邪魔なのだ。こんな調子なら、死ぬのは余りにも簡単そうだ。と、ふんわり思った。

 

解除

 すぐダメになりそうだけど、出来るだけ毎日書く。そうすれば書かれた内容は自ずと、その日に偶然そう感じただけというニュアンスを含むようになる。これが数週間に一度となると、一回性の成長やら思想の変化やらといった趣になり、内容が煮詰まって重苦しくなる。一撃で現在の自己を説明しようとする様になり、ますます何も書けなくなる。そんなこと出来やしないと知っていても勝手にそうなっていく。さらに言葉を使わないと言語野が自省録(マルクス・アウレリウス)みたいになる。それはそれで笑えるかも知れないけど、僕はどちらかと言えば、表現の本質は多様な変奏をすることだと考えている側の人間なので、それは芳しくないという訳だ。別に書くべきこともないけど、好意的に見れば、主張しなきゃいけないことが何もない程度には自由なのだ。人と毎日会ってる人ほど無内容な話を口にするように見える。そっちの方が気楽そうだ。

 

 

 以前より生きていて苦痛に思うこともなくなったけれど、愉快になった訳でもない。幾つかの個人的な問題を解決したつもりになったら、退屈が勝るようになった気もする。生活は順調にならない。習慣の問題ではなく病気の所為かも知れない。出来ることなら食事なんて摂らずに、光合成か何かで済ませたいとか、そういう風に思ってしまっている。食事にさえ気合いを要するのは生まれもった性格な気もする。立て直した所で、体を壊す度にリセットされてしまうことから刷り込まれた無力感かも知れない。ハッキリしているのは、自然体で生きていると僕は着実に死に向かって沈んでいってしまうということ。何とかやっていかなくてはならない。

 

 

 友人や恋人を作ること。他人より良い結果を出して、誰かに勝利すること。世の中の役に立ち、有用性を知らしめること。ある種の人間はそれらを健常さや優秀さの証だと信じている。そうすれば自分に訪れた恵みを、有り難いと感じられるだろう。意味と基準さえ設ければ、もっと下の連中がいるという理由で、抽象的な存在に、例えば神に感謝することだって出来るだろう。これは良い場合であって、悪い時には彼らは弱者を排撃しようとするだろう。多分でかい事故や病気に遭遇するまでは、そんな風に死ぬまでの時間の大半をやり過ごすことも出来るのだ。

 意味も基準もなしに満足することは難しく、出来事に対して素直で透明な喜びを感じる為には、まず何より自分自身がユニークな存在でなければならない。自分の機嫌を自分で取らなければ他者と上手に関わることが出来ない、というのは正しい。目の前にあるものが退屈ならば、それは僕自身の陳腐さを反射しているのだ。どんなに素晴らしい光景を目にしても、どれだけ人間関係に恵まれても、そいつはずっと付き纏ってくるだろう。逆に自分で自分の機嫌さえ取れるなら、その他の凡ゆる報酬は、純粋にボーナスとして出現することになる。そういう人は稀にしかいない。たぶん本物のエンターテイナー。たぶん本物の詩人。

 

 上等な存在になろうとしてはいけない。可能な限り比較を絶すること。どこにも辿り着こうとせずに直感で道を曲がること。既視感の元に一般化せず、ゆっくりとページを捲ること。僕には大した知性も才能もないから、堕落していると、完成された作品は一日で既存のガラクタに成り下がってしまうし、生きることは退屈さからの逃避という側面ばかりを主張するようになる。

 理想的な幸福と見做している状態に永遠に近付けない絶望がどれだけ強くても、空が綺麗とかいう瞬間ごとに、意識そのものを解除して生きていける人間になること。そうなりたい。

 

オタクと海に行くなどした

 先日ツイッターで知り合ったオタクと海を見に行った。オフ会というやつ。

 

 普通のブログっぽいこと(?)を書きます。

 

 先週にもひょんなことから仲良くなった東大生のオタクと会ったばかりだと言うのに。注目すべきは、マジで人と遊ぶことが少ない僕に、一週間に二度も交友的なイベントが起こったという事実だ。ちなみにオフ会は人生初です。

 今回会ったのは早稲田のオタク。何の捻りもないが、二人とも頭が良い。巡り会いに感謝。おかあさんに自慢しよ。

 

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 どこに向かうのか知らされないまま、君に連れられ辿り着いた海は、しかし生憎の曇天の為、ハチャメチャにエモい訳ではなかった。そのことを冗談まじりに伝えると、君は少し哀しそうな顔をした。

「いや、こういう海も好きだよ。ほら、アンゲロプロスみたいでさ…」 

 僕はそう取り繕ってみたが、君は映画には疎いらしく、そっぽを向いてしまった。

 「私があげられるのは、これくらいで全部」

 少しの間があって、戦場ヶ原ひたぎの台詞が聞こえてきた。化物語のラストシーンだ。

 だが隣を見ると、そこにいたのは長髪ツンデレの女子高生ではなく、オタクだった。

 

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 ところでオタクは写真に撮られるのが嫌いな生き物だ。

 どの写真にも人間がいないから、実際にオフ会をしたのか怪しくなってくる。

「本当は一人だったんじゃないの?」

 そういう疑惑を僕にぶつけるのは止めて欲しい。僕も自信はない。

 

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 代わり映えのない灰色が続く。ある種の美しくない死に方の様なものを連想させられる。

 歩きながらVtuberやネタ・ツイッタラーやエロ漫画について話した。虚無だ。

 

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 この辺りには何もない。見捨てられた土地なのだ。

 彼は言う。「東京で最も"終わり"に近い場所だ。」

 (ちなみにこのセリフは6回くらい聞いた。)

 

「ここはギリギリで東京?」

「ギリギリで世界だ」

 なるほど?

 

 だけど終末の地にも美しいものはある。一筋の希望だって見えてくる。そう信じて俺たちはここまで来た。そうだろう?

(この先めちゃめちゃ歩いたけど行き止まりだった。)


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 何だかんだ言っても海は良い。

「人生初の海はポケモンだった。」

「おおー、我々の時代的感性を見事に表した言葉ですね。」

 それはそうとフナムシが大量にうじゃうじゃしてるのが見れて素晴らしかった。

 

 

 はい。

 

 

 帰りに食べたトンカツはトンカツの味がした。シモーヌ・ヴェイユの良き読者である我々は食に疎かった。

 

 

 こういうのって何を書けばいいんだろう。書き方を根底から間違えたっぽい。終わります。

 

 オタクと話すのも高学歴と話すのもインターネットの人間と話すのも全然経験がなくて、何が正解なのかさっぱり分からなかったが、この日を境に相互ブロックになった訳じゃないので成功ということにします。

 

 

 平成最後の夏は最高の夏になりました

 

 ありがとうございました。

 

 

 

 おまけ

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 一回目のオフ会が僕の誕生日だった為、オタクがプレゼントしてくれた花束です。花束を貰う機会なんて普通ないので、凄く嬉しくなったから見て欲しい。値札の部分とか。

 

 

 

 

 みんな夢でありました。

 

 

 

ロートレアモン伯爵の文体で人間を殴るだけ

 おや!君の剛健な身体に備わったミミズの様に太い神経にも、痛覚が備わっているとは知らなかった!しかし、自動機械の定められた文法に従って緊張した、普段なら盛りの付いた猫の尾の様によく動く表情筋や、僕の耳には優しいヒキガエルの様なうめき声で、僕の同情を誘おうとするのを諦めろ!そう君に説教しながら、マゾヒストの犬の睾丸の様に柔らかい、縛り付けられた君の剥き出しの鳩尾に、僕の岩石の鋭さを持つ、骨ばった拳をめり込ませるのを、君が赤子そのものである善意がそうさせている懇願で、止めることが出来るかも知れないという幻想を、もし君が昨今の優れた道徳教育によって、絶滅収容所の死体の前で、満面の笑みでピースした写真を、愛情の印として恋人に送り届けたという親衛隊の残忍な偏見が、全世紀までの野蛮な人類特有の振る舞いとして終止符を打たれたのだという、無知な大学生のそれと見紛う、惚けた歴史観を持っているのでなければ、今すぐに捨てろ。だが、僕の真意を、君も直ぐに理解することだろう。僕が十何度目かの拳を振り上げた時、君がこの世でこんなにも理不尽な目に合っているのは自分だけだという、理性的に考えれば馬鹿げたものでしかない激情に駆られながら見せた、標的に狙いを定めた猛禽類にも似た、数秒後に起こる殺人を約束する、獲物にとって致死的となる眼光を、僕が見逃した訳ではない。だがそれと同じ眼が、彼のきめ細かく艶のある顔に宿ったのは、彼がまだ十五にも満たない頃だった。いや、彼の受難に満ちた物語を、今はまだ僕が語る頃合いではないだろう。カミソリの様に瘦せこけた頰を見せる相手もいなくなった、賢明なる読者は、僕と彼との出会いの、ウンバチクラゲも神経毒の分泌を、その必要がもはや皆無だという理由で止めてしまうエピソードを、僕がいずれ秘密にしておくことを諦めるという約束を、ここに交わすことに感謝しろ。さぁ、君の悪意によって僕自身が黒い血を流す為に、肢体の縛めを解いてやろう。……おお!何てことだ。まさか絶命してしまうとは!この長話をしている最中にも、君の急所を、怒り狂ったマッコウクジラが海面を叩きつける尾の万力を込めて殴り続ける暴力行為を、一時中止することを、僕がうっかり失念していた為だというのか?鮮血と吐瀉物が花開く床に寝転がった、鬱病を患った猿の様な君よ。心から済まない。命を奪うなんて、そんなつもりは毛頭なかった。僕はただ世界の重い一撃が、健康な君の魂に加える変容を、この目で確かめてみたかっただけなのだ。そして数年後には、君が大事そうにしていた綺麗事の数々を捨て切れずに、海岸から身を抛つというロマンチストの真似事さえしなければ、現実に目を瞠いた君は、僕に感謝するまでになったことだろうに!僕の少しばかり極端ではあると僕自身も認めるところの、動機主義に偏った倫理観を、君が承認してくれるなら、この拷問の帰結として用意されていなかった不可抗力の殺人を、思わず神も許してしまうに違いない。悪気はなかった!そして君は、傲慢な者と嘘吐きが堕ちるのだと迷信深い連中に言われている、逆さ吊りの地獄にて、積もる話を蓄えて、一足先に待っていろ。もし僕の様な人間が堕ちる地獄が、この地上以外に存在すればの話だが、やがて僕もその地に赴くだろう。氷漬けのコキュートスで悪魔大王に噛みちぎられる為に、奈落の最下層へと向かう、その通過点として。

中くらいの収束

 これまでと違う言葉を使おうと思う。いや、そんな心構えは無意味で、だって同じ言葉を使おうとしたことなんて一度もなかった。線引きをするのは馬鹿馬鹿しい。これまでとこれから、それがずっと続いていくだけだ。ただ、もう少しだけ普通の文章を書こうと思う。余りにも漠然としているけれど、とにかくそう思う。単なる日記、日々のこと。哲学ではなく言葉遊び。深刻になったり、軽率になったり。偶然目に付いたニュースや、読んだ本のこと。今日あったことや、人と話したこと。失敗したことを語る時も、まるで笑って誤魔化せることであるかのように。愚痴を言いながらも誰も憎んでいない人のように。これからやりたいこと。気取らず、知的であろうとせず。病んだ人間の気負いを捨てて。かと思えば束の間もの思いに沈んだり、そんな人間的な、数々の、差し当たって目的もないあれこれ。こうして言語化すると、そんな凡庸さすらもイデアの様になってしまうので、意識は程々にして。

 

 

 ブログのタイトルを変えました。「中くらいの拡散」は自分自身の自我の拡散についての記述を旨にした、誰にも読まれないつもりで始めたブログだけれど、ごく少数ながらとても美しい文章を書く方々と相互読者になれたりして、絡んだりはしていないけれど、素直に嬉しかったです(なんでこんな改まった風なんだろう)。今は適当な対義語をタイトルにしているけれど、すぐに変えるつもり。別に文章を書くのが得意な訳でもないし、物書きになろうとしてる訳でも勿論ないから、気楽に呼吸出来ることが一番大切だ。そんなコンセプトでやっていきます。まぁ、精神の段落を一つ終えた様な気がしていて今はこんな文章を書いているけど、もしかしたらそれも嘘かも知れないから何とも言えない。

 

 

 僕は今では目の前にあるものを美しいと思うことが出来る。世界は色鮮やかに廻り続けていて、僕はそこから弾き出されてしまってはいないらしい。僕がまともな人間になったとか、幸せになったとか、そんなことはなくて、ただ目の前にあるものを普通に眺めていられるようになっただけ。達成と呼べるようなものじゃなくて、本当にそれだけのこと。

 僕の感情が死んでいる内に消えてしまった人がいて、消えてしまったことさえ思い出として心に刻まれてはいなかった。それ程に感情は死んでいて、時間は無機質に通り過ぎて行き、毎日行くべき場所に通っていたのに、自己認識は今まで一歩も外へ出たことがない子供そのものだった。手で触れられるものは影のようになって、即座に遠くへ消え失せてしまった。意味を与えられない記憶に対して忘却は容赦しないから、僕は霧の中で朦朧と死体をやっていた。

 無色透明な出来事の数々を、壊れた記憶を、繋がらない人生を、どうやって取り戻すことが出来るだろうか。そんな問い掛けが芽生えた時には、罪責感と虚無に潰されていた。自殺しようとしていた。けれど生きている。やがて心を乱すことなく語れる過去になるだろうか?

 

 

 解釈することを暴力だと感じていた。どんな内容も、表現されてしまった途端、物の側に属するようになってしまう。それは広告の様に各々の幻想へ意味を貸し出すだけだから、ナルシシスティックで、許されない行為だと思っていた。人はその人が引き出せる意味だけを引き出せば良いだなんて、そんなことを知らなかった。昔聴いていた曲を改めて聴いて、こんなに良い歌詞だったんだ、なんて始めて気付いて、涙を流すなどしている。かつては僕の感情が終わってることを知らしめただけの災害も、ニュースなどでふと目にして泣いてたり。一過性の感激症。

 

 

 僕の理性を破壊するものは世界に属するが故に無限、僕が考え得ることは人間的であるが故に有限だ。そんな訳だから解釈は行われた瞬間に崩壊の危険に晒される。人間は物語が壊れてからでなければ対応出来ず、予め用意出来る万能薬は存在しない。ずっと予兆に備えようとしていたのに、世界は盲目の意志に貫かれていて、悲劇は常に外部から、不意打ちで襲ってくる。

 けれど僕に出来ることは、僕が意味を感じ取ってしまうということだ。僕が選んだのではないそれ。僕がコントロールしたのではない感受性と理解力。僕は何も所有していない。僕は僕自身を他者として眺め、まるで贈り物の様に自分自身を受け取っている。僕はそこで初めて意識の過剰を止め、従順になれる。もう未来に身構える必要はないのだ。全てが無関係だと思うことも出来て、そう思わないことだって出来るそれ。何故自分がこいつなのか、なんて問いすら外から訪れて、ずっと変わることなく続いてきたそれは、たぶん悲劇と同じ無限の側からやって来た。何故そうなっているのか永遠に謎のまま、ただ見えてしまうというそれだけなのだ。僕たちは死に物狂いになってやっと歩けるのに、それだって簡単に壊れてしまうものなのだと自覚までしている。それでも眼差しが生き続けているのは、偶然によって、ただ幸運によってだ。そんな訳で、或いは語り得ない諸々の力の働きを借りて、僕は自分に、現在に出会うことを許した。

変転

 土埃が舞うように、それとも楕円形の光が溶けていくように。十五階建てのビルの、右から六番目の窓を照らす太陽。一歩ごとに眩くなって行く光線。円盤から聴こえるアリアに呼びかけられたように、力ないビニルは幽霊のように吹き上がる。二人の子供は水溜りに木の枝で模様を描いて遊ぶ。何もかもが穏やかで、すべて時間は、波紋に揺蕩う青空の様に、淡い影の周囲をひとりでに巡っていた。だけど百万回も変奏が繰り返された時点で、煙は漂うことを辞め、水面の揺らめきは固定された。きっと少しずつそれは始まっていたのだが、今となってはどう足掻いても手遅れだった。窓に映る景色は、一瞬間ごとに目まぐるしく、僕はそれを凝視するが、その変化を捉えることは出来ない。ポスターには、空の方を向き聡明そうな眼差しで宙を見やる、顔の良い青年が描かれている。それは確かに一人の人間の顔であるのだが、秘めたメッセージの単調さによって人々の視線は彼の顔を貫通し、暫く前に穴だらけになり、今では湯気のようになってしまっている。視線が移ろい、次の景色を見ると、そこにまたさっきと同じ男が写り込んでいる。昔の友人の中の一人のように見覚えのある顔。だけど懐かしくはない顔。記憶に定着することのない顔。父親のようであり、兄弟のようでもある顔。親しみを込めて僕たちを誘う顔。きっと二千年前から生きていた男に違いない。手触りのない顔だ。数秒も目を離すと、鼻は高さを変え、また長くなり、短くなる。目は眩しそうに細めたかと思えば、いっぱいに見開かれた目玉でこちらを睨みつける。口は閉じることがなく、両端は持ち上げられ、決して喋り続けることを辞めない。それぞれに特徴的な顔。覚えやすく、目に優しい顔。刺々しい顔。心温まる顔。尊敬を集める顔。ほんの些細な差異によって、世界を作り、一貫性を鍛え上げる顔。すみれ色、バーントアンバー、黄金色、チャイニーズレッド、立体派、遠くの方は少し白く、藤色、鈍色、水玉模様、花柄、めくらめく紋様。その先に、或いは交互に現れる顔。これら全てが果てしなく続いていく風景を、僕たちは猛烈な速度で走り抜けていく。ある臨界点を超えた時、太陽は凍りつき、全てのビルは狂ったように輝き、枯葉がアスファルトを転がることは二度となくなった。速度と轟音によって人々に時間の観念を伝えるが、もはや時間は前後のどちらに進行しているのか分からない。四方から広がる光線は発進する列車、階段を降りる女、笛を吹いている少年を照射して、リアリティを奪い去り、一つの染みのようにしてしまう。顔はもう笑ってはいない。持ち上げられた口角は泥粘土の凹み以上の意味をもはや持たない。自動販売機に描かれた可愛らしい白熊が涼しさを、コカ・コーラが喉の渇きを誘発し、130という数字が金銭を思い起こさせる。しかし降り注ぐ光は視界を印象派の様に、すぐさまそれらを色彩の斑点へと解体する。だが通り過ぎるたびに電柱、歩道沿いの樹木は回り込み、世界が三次元であることを告げ、光は斜めから差し込み、直線の数々は透視図法を示唆している。それも長くは続かず、眼鏡のフレームに反射した光が、或いは不自然に伸びた木の枝が視線を遮ると、遠くの屋根のザラつきは前面に押し出され、まるでバターナイフで塗り付けたようだ。消失点は定まることがない。車が通り過ぎるたびに、ヘッドライトとナンバープレートを繋ぐ三点は一つの顔貌を認識するよう脅迫し、色彩とパースペクティブは崩壊し、視点は運動を追って集中し、斜めに横切る。すると歩道橋のラインの滑らかな曲線が、僕に眼球の丸みと孤立を示し、空に浮かぶ雲が天蓋のように迫り来る。色彩は宙に浮き、世界中が斑点のようになる。しかし葬儀屋の看板に書かれた文字は死の概念を想起するよう促し、僕の意識は網膜であることを辞め、今度は言葉になる。燃えていく写真のように黒い穴が広がり、馬鹿みたいに巨大な主語によって画面は歪み、世界は皺くちゃになる。赤色の煉瓦はすぐ横の木の陰になっており、ピンク色と青紫色の微妙な揺れとなり幻惑的だ。しかしすぐ隣は光に晒され、直角によって立体感を強調している。裏側は明瞭な陰影によって地面と一体化し、くの字型のシルエットとなっている。部分はそれぞれに世界を持ち、爆発四散しながら感情であることを示している。数々の主義が脳裏を高速で過ぎ去って行き、瞬く間に諸世紀を通過して、互いに相反し、裏返る。景色は感情となり、観念となり、二十秒と持続することはない。見慣れた景色。懐かしい景色。どこかで見た景色。匂い立つ景色がある。それから悪魔のような景色。恐怖を覚える景色。恍惚とする景色。暗転し、空を切り裂く高音、そして鏡。一粒の粒子でさえ何かを叫んでいて、空気を震わせ、辺り全体と共鳴を企てる。木が揺れるならば風が揺れ、空は渦巻き、地面は隆起する。それは記憶のある一点を指し示し、その次の瞬間、調和は無残にも犯され、すると何かしら残虐な趣のあるまた一つの記憶が現れる。だが運動はそこで急停止し、再び目をやると蒼ざめた幾何学模様が浮遊しているだけだ。目を閉じれば色彩の残響はしっとりと、あるいはザラザラとして、幻想的であるか、それとも暴力的であるかするだろう。同じ言葉が何千回と繰り返され、しかし同じ対象を示す名前であることは二度となく、シールのように剥がれ、粉々に千切れて視界全体を紙吹雪のように覆っている。不意に、ぶ厚い雲が太陽を隠すと、押し潰すような不穏が訪れる。ガラス窓の炎のような光輝は消え、遠くのビルの青白い透明さは彩度を落とし、発色を殺された看板は広告的な素早さを失い、文字は目に届く寸前の所で地に堕ちてしまう。風が止み、時計の針の進行が、心なしか緩慢になったように感じる。物は役目を終え、瓦礫か残骸へと変貌する。水平と垂直が入れ替わり、現実と虚構、夢と眠りが、電線の弛みに沿って、真っ逆さまに落下し始める。何者もこの力から逃れることは出来ない。大きな手のひらが底にあると信じている脳と身体だけが、点滅を繰り返しながらこの先ずっと、変わることなく落ち続けて行く。

愛していた訳でもなかった

 新幹線が加速して、サティのジムノペディを聴いていたから世界が遠かった。電子版を流れる文字を眺めていたら頭痛がしてきたから目を逸らした。僕は自ずと心に立ち上がってくるものを、義務のように否定して生きていた。僕には感じるべき感情や、考えなければいけない思考がある気がしていた。これではないもっと相応しい何か。それは途轍もなく膨大な質量で、いつだって僕の手には負えなかった。音楽を聴きながら他の曲を脳内で再生しようとして、やめた。馬鹿げている。無意味に決まってる。瞬間、恐ろしいほど沢山の可能性が脳裏をよぎった。なのに僕は世界の遠さでしかなかった。そんなことが不思議だった。

 新幹線でサティだから世界は遠かった。速度は僕に突き刺さり、音は僕に突き刺さり、それは僕の隠された力だった。僕が意図していない、僕自身が狙い定めた訳でもない、僕に備わっていた偶然の感性だった。僕は世界の遠さになることが出来るのだ。実を言うとそんなことはとっくに知っていて、疑問なのは他の喧しい連中をどうやって眠らせたかだった。別に何だって構わなかったし、凡庸な気分だと思ったし、僕はそいつを愛していた訳でもなかったから。

 運動が、旋律が、色が、明るさが、柔らかさが、微笑みが、それらの在らん限りの組み合わせが、生成しては剥がれ落ちる意味が、砕け散ったものの中で束の間、平和のように訪れる。そんなありきたりな奇跡の時。僕は理由もなく消し去られていった全ての予感に手を振って、さよならをした。本当に何の理由もなかったから、悲しかった。どうしてそれで良しということにしたのか思い出せなかったけど、思い出せないままにすることにした。体が気体になったみたいに感じた。