スクリーンの空

パロディ

変転

 土埃が舞うように、それとも楕円形の光が溶けていくように。十五階建てのビルの、右から六番目の窓を照らす太陽。一歩ごとに眩くなって行く光線。円盤から聴こえるアリアに呼びかけられたように、力ないビニルは幽霊のように吹き上がる。二人の子供は水溜りに木の枝で模様を描いて遊ぶ。何もかもが穏やかで、すべて時間は、波紋に揺蕩う青空の様に、淡い影の周囲をひとりでに巡っていた。だけど百万回も変奏が繰り返された時点で、煙は漂うことを辞め、水面の揺らめきは固定された。きっと少しずつそれは始まっていたのだが、今となってはどう足掻いても手遅れだった。窓に映る景色は、一瞬間ごとに目まぐるしく、僕はそれを凝視するが、その変化を捉えることは出来ない。ポスターには、空の方を向き聡明そうな眼差しで宙を見やる、顔の良い青年が描かれている。それは確かに一人の人間の顔であるのだが、秘めたメッセージの単調さによって人々の視線は彼の顔を貫通し、暫く前に穴だらけになり、今では湯気のようになってしまっている。視線が移ろい、次の景色を見ると、そこにまたさっきと同じ男が写り込んでいる。昔の友人の中の一人のように見覚えのある顔。だけど懐かしくはない顔。記憶に定着することのない顔。父親のようであり、兄弟のようでもある顔。親しみを込めて僕たちを誘う顔。きっと二千年前から生きていた男に違いない。手触りのない顔だ。数秒も目を離すと、鼻は高さを変え、また長くなり、短くなる。目は眩しそうに細めたかと思えば、いっぱいに見開かれた目玉でこちらを睨みつける。口は閉じることがなく、両端は持ち上げられ、決して喋り続けることを辞めない。それぞれに特徴的な顔。覚えやすく、目に優しい顔。刺々しい顔。心温まる顔。尊敬を集める顔。ほんの些細な差異によって、世界を作り、一貫性を鍛え上げる顔。すみれ色、バーントアンバー、黄金色、チャイニーズレッド、立体派、遠くの方は少し白く、藤色、鈍色、水玉模様、花柄、めくらめく紋様。その先に、或いは交互に現れる顔。これら全てが果てしなく続いていく風景を、僕たちは猛烈な速度で走り抜けていく。ある臨界点を超えた時、太陽は凍りつき、全てのビルは狂ったように輝き、枯葉がアスファルトを転がることは二度となくなった。速度と轟音によって人々に時間の観念を伝えるが、もはや時間は前後のどちらに進行しているのか分からない。四方から広がる光線は発進する列車、階段を降りる女、笛を吹いている少年を照射して、リアリティを奪い去り、一つの染みのようにしてしまう。顔はもう笑ってはいない。持ち上げられた口角は泥粘土の凹み以上の意味をもはや持たない。自動販売機に描かれた可愛らしい白熊が涼しさを、コカ・コーラが喉の渇きを誘発し、130という数字が金銭を思い起こさせる。しかし降り注ぐ光は視界を印象派の様に、すぐさまそれらを色彩の斑点へと解体する。だが通り過ぎるたびに電柱、歩道沿いの樹木は回り込み、世界が三次元であることを告げ、光は斜めから差し込み、直線の数々は透視図法を示唆している。それも長くは続かず、眼鏡のフレームに反射した光が、或いは不自然に伸びた木の枝が視線を遮ると、遠くの屋根のザラつきは前面に押し出され、まるでバターナイフで塗り付けたようだ。消失点は定まることがない。車が通り過ぎるたびに、ヘッドライトとナンバープレートを繋ぐ三点は一つの顔貌を認識するよう脅迫し、色彩とパースペクティブは崩壊し、視点は運動を追って集中し、斜めに横切る。すると歩道橋のラインの滑らかな曲線が、僕に眼球の丸みと孤立を示し、空に浮かぶ雲が天蓋のように迫り来る。色彩は宙に浮き、世界中が斑点のようになる。しかし葬儀屋の看板に書かれた文字は死の概念を想起するよう促し、僕の意識は網膜であることを辞め、今度は言葉になる。燃えていく写真のように黒い穴が広がり、馬鹿みたいに巨大な主語によって画面は歪み、世界は皺くちゃになる。赤色の煉瓦はすぐ横の木の陰になっており、ピンク色と青紫色の微妙な揺れとなり幻惑的だ。しかしすぐ隣は光に晒され、直角によって立体感を強調している。裏側は明瞭な陰影によって地面と一体化し、くの字型のシルエットとなっている。部分はそれぞれに世界を持ち、爆発四散しながら感情であることを示している。数々の主義が脳裏を高速で過ぎ去って行き、瞬く間に諸世紀を通過して、互いに相反し、裏返る。景色は感情となり、観念となり、二十秒と持続することはない。見慣れた景色。懐かしい景色。どこかで見た景色。匂い立つ景色がある。それから悪魔のような景色。恐怖を覚える景色。恍惚とする景色。暗転し、空を切り裂く高音、そして鏡。一粒の粒子でさえ何かを叫んでいて、空気を震わせ、辺り全体と共鳴を企てる。木が揺れるならば風が揺れ、空は渦巻き、地面は隆起する。それは記憶のある一点を指し示し、その次の瞬間、調和は無残にも犯され、すると何かしら残虐な趣のあるまた一つの記憶が現れる。だが運動はそこで急停止し、再び目をやると蒼ざめた幾何学模様が浮遊しているだけだ。目を閉じれば色彩の残響はしっとりと、あるいはザラザラとして、幻想的であるか、それとも暴力的であるかするだろう。同じ言葉が何千回と繰り返され、しかし同じ対象を示す名前であることは二度となく、シールのように剥がれ、粉々に千切れて視界全体を紙吹雪のように覆っている。不意に、ぶ厚い雲が太陽を隠すと、押し潰すような不穏が訪れる。ガラス窓の炎のような光輝は消え、遠くのビルの青白い透明さは彩度を落とし、発色を殺された看板は広告的な素早さを失い、文字は目に届く寸前の所で地に堕ちてしまう。風が止み、時計の針の進行が、心なしか緩慢になったように感じる。物は役目を終え、瓦礫か残骸へと変貌する。水平と垂直が入れ替わり、現実と虚構、夢と眠りが、電線の弛みに沿って、真っ逆さまに落下し始める。何者もこの力から逃れることは出来ない。大きな手のひらが底にあると信じている脳と身体だけが、点滅を繰り返しながらこの先ずっと、変わることなく落ち続けて行く。

愛していた訳でもなかった

 新幹線が加速して、サティのジムノペディを聴いていたから世界が遠かった。電子版を流れる文字を眺めていたら頭痛がしてきたから目を逸らした。僕は自ずと心に立ち上がってくるものを、義務のように否定して生きていた。僕には感じるべき感情や、考えなければいけない思考がある気がしていた。これではないもっと相応しい何か。それは途轍もなく膨大な質量で、いつだって僕の手には負えなかった。音楽を聴きながら他の曲を脳内で再生しようとして、やめた。馬鹿げている。無意味に決まってる。瞬間、恐ろしいほど沢山の可能性が脳裏をよぎった。なのに僕は世界の遠さでしかなかった。そんなことが不思議だった。

 新幹線でサティだから世界は遠かった。速度は僕に突き刺さり、音は僕に突き刺さり、それは僕の隠された力だった。僕が意図していない、僕自身が狙い定めた訳でもない、僕に備わっていた偶然の感性だった。僕は世界の遠さになることが出来るのだ。実を言うとそんなことはとっくに知っていて、疑問なのは他の喧しい連中をどうやって眠らせたかだった。別に何だって構わなかったし、凡庸な気分だと思ったし、僕はそいつを愛していた訳でもなかったから。

 運動が、旋律が、色が、明るさが、柔らかさが、微笑みが、それらの在らん限りの組み合わせが、生成しては剥がれ落ちる意味が、砕け散ったものの中で束の間、平和のように訪れる。そんなありきたりな奇跡の時。僕は理由もなく消し去られていった全ての予感に手を振って、さよならをした。本当に何の理由もなかったから、悲しかった。どうしてそれで良しということにしたのか思い出せなかったけど、思い出せないままにすることにした。体が気体になったみたいに感じた。

表面に踏み止まること

 僕は映画を見ていて話の筋が分からなくなったりしない。YouTubeの下らない動画で笑ったりも出来る。音楽を聴けば、曲が自分の身体とどこかで共鳴していることが分かる。小説で作者の欺瞞や陳腐な図式性を批判することが出来る。文字の羅列を読み、それが理由もなく詩であることが分かる。このような可能な感受力の箇条書きが、あの心的状態を逆向きに照射することはないが、僕が言いたいのは、それらが出来るという、「知性の圧倒的な表面性」は想像を超えて尊いということだ。この点はいくら強調してもしすぎることはない。僕にはそんなことさえ容易でない時期もあった。いつも人格の片隅で表面性を漂い続けることを留意するべきで、それが生活をするということなのだと感じている。

 

 

 失われた事物の表情、それがこれであるという「感じ」の喪失はどのような事態だったのだろうか。認識された事物の表情の豊かさとは、円柱を真横から見れば長方形であるという様な誰にとっても既知である一つの視点のことではなく、百人の画家が百通りの円柱を描くような「感じ」の多様性であり、さらにその中のある「感じ」が自分自身と共にあるという「感じ」だ。その欠落は、芸術やコミュニケーションの意味的な差異が認識出来るにも関わらず、全てが自分と等しく無縁である為に無意味になってしまう感覚となる。ニヒリズムのような絶望ではなく、為すこと全てが直ちにフェイクになってしまうような断絶。僕たちは「感じ」の上で始めて判断を下すことが出来るらしい。

 それが与えられていることは多くの人にとって余りにも当たり前らしいので、誰も問題にすらしない。或いは多くの人は、そのように目まぐるしく事物を見ることが出来るという可能性を知らないのか、そうでなくても日常的にはその重要性をとても低く見積もっているように見える。人々の多くは芸術家ではないし、少なくともある程度は、従うべき意味が自明に与えられる世界を生きているのだろう。

 そのような喪失とそれに伴う混乱はしかし、その始まりに於いて、表面性を秤にかけようとする試みによって生じてしまったのではないだろうか。僕たちが生活する日常世界では、事物は大した多様に開かれてはいない。意味の殆どをシームレスに運ぶ空間化された時間が、僕たちの思考を制限する。たがそこで行われる凡ゆる判定を、例えば芸術の様に開かれた無数の選択肢と平等に相対化して、「感じ」の水準によって眺めてしまったならば。意味の違いであるべきものが、純粋に質の違いとして見做されてしまったならば。このような症状は事実、「感じ」の差異を識別する感性にかけては鋭い人に多いようなのだ。

 僕なりにその内面的な状況を記述するならば、心からすっかり「感じ」が消えてしまったのでは決してないように思う。むしろ数え切れない程の感じを俯瞰してしまい、そこに優劣が存在しないことを誰よりも知悉している頭脳から、評価を下す判定だけが消えたのだ。つまり心の中には余りにも沢山の「感じ」が並列していて、選択を絞り込む無意識的な機構が欠如しているのだ。それは主観しか存在しなくなった世界に於ける主観性の欠如と言っても良いと思う。それが日常生活の様に固定された文脈に満ちた世界で特に危険となる、未知性の不気味さという事態ではないだろうか。

 或いは、これこそが己であるという一つの質に肉薄しようとするあの探求の意識的な眼差しが、この惑乱へと至る後押しをするのかも知れない。だがそのようにして沈み込もうとしている深みは、生活する人間が呼吸をする場所ではないのだろう。それなのにそこに留まることが出来る人がいる。そこが本当の自分の住処なのだと思ってしまう人がいる。だけどそれは、芸術を生きようとした筈が、芸術を生活してしまったという誤ちだったのではないか。だとすれば、今度は自己消滅の恐怖に逆らってでも、捉えられないものを捉えようとする意識を放棄していかなければならないのではないか。「感じ」は、身体の声は、本当の意味で死んでしまいはしないのではないか。

 感受性はその深みを失くしたのではない。その逆に、表面性をこそ斬り裂いて細切れにしてしまったのだ。「感じ」を失ったのではない。世界の全てを「感じ」の水準で考えようとすることにして、痙攣してしまったのだ。そうして思い描く限り可能な世界全てに向けて注がれる眼差しの過剰が、自分自身の目を焼いてしまったのだ。僕は想像するのだが、自然な自明性を失うに至った彼らは、決して何者も断罪しようとはしなかったのではないか。何故ならある一つの「感じ」の相の下で事物を捉えることは、現実の多様を切り捨てることに他ならないからだ。そして彼は如何なる表情も自己の経験の前提にしないことを選んだのだ。理性的な意味の系列が織り成す体系への不信は前提である。彼らは不可知性を前にして、自らの倫理すら手放してしまわなかったか。そして彼らの境界を揺らす資質は、何らかの衝撃によって暴走してしまったのではないか。

 

 

 事物の表情。それは追い求めれば消える幻であり、影こそが実体であるような蜃気楼だ。立ち止まらなければならない。現れた形象は、直接に与えられたのであり、それ以上の何者でもない。僕に感じられることも、考えられることも、根拠なしの賜物だ。一歩でも近寄れば、それは奇妙に形を整えて擬態する。記憶のコレクションは骨抜きにされた素材でしかなく、そこで参照される質感は平板に均されている。決して意図するな。それが見える時、知性を働かせるな。「これが自己なのだ」と口にするな。それが世界へと成長することはない。一貫性へと進化することはない。自己意識とは、開けようとすれば閉ざされる扉なのだ。これは明白な経験であって、禅問答などではない。リアリティは形象にそのまま突き刺さっていて、それを見る時、僕たちは既に自己意識へと到達している。朝日が射したなら、朝は来たのだ。

野蛮なもの

 人が他者に何らかの説明を求める時に多くの場合、自動的にある一つの暗黙の主題を設定してしまい、その時点で関係性は硬直に陥っている。それは時に最も下品な、しばしば権力を握る者による、意図的な弱者への圧迫であることもあるが、他方では自由なやり取りが封殺されて行く息苦しさの中で、ある日突如としてバラバラの身体性となって噴出する強引な論理空間ということもある。後者の場合、彼らの意図とは裏腹に、そのように真面目な空間の中で、対話はすぐさま挫折してしまう。そこで行われるのは一つの岩ともう一つの岩の衝突のようなものになる。その時、両者は論理空間を共有してはいない。論理とは前提となる経験によって歪曲する特殊な空間であって、誰もが等しく参加できる一本の予め整備された道ではない。その時、分断された空間は、衝突によってのみ統合され得るかのように我々を急き立てるだろう。どうやら我々の理性は目の前の分断された状況を、立ち止まって眺めることに耐えられないようなのだ。

 言うまでもなく、もっとも野蛮な低い次元の統合性は暴力であり、それ故に暴力に於ける関係性の構造はもっとも明瞭だ。その次に低い次元が論理的説明の要求であるように見える(その差は歴然だが)。そしてより低い次元の統合性は、より高い次元の統合の可能性をなし崩しにして、相手を同じ土俵に容赦なく引き摺り込む力を持つ。仕掛けられた相手はそれを根底から拒否する権利がない。例えば暴力において一方が殴りかかったならば、もう一方は防衛をしなければならない。可能な選択は闘争か逃走に限定される。

 多くの人は論理的説明の破綻から暴力へと至る野蛮性ならば認識しているが、自由な対話から論理的説明へと至る野蛮性を正当な方法として見做している。それよりも高い次元の事となると下手をすれば感知さえされない有様だ。確かに、異なる次元でのコミュニケーション(暴力含め)は、それぞれ機能を、全く異質な機能を担わされた方法に見えるので、次元間の移行は何らかの問題を解決する上で必要な秩序のようにさえ見えてくる。もちろん論理(場合によっては暴力も)の有効性を貶める気など誰にもない。だが高い次元での対話の現実的な挫折が、我々に論理を要求し始めるという側面を忘れてはならない。そして高められた空間でしか、凡そ相手の人間性など理解出来ないのだ。

 好きな女性を必死に説得しようとする哀れな男は、ある特殊な高い次元でのみ生き生きとしていた、豊かな兆候を野蛮に消し去っていく。そうした場面の想像は容易い。兆候は説得のように単調な図式的コミュニケーションを生業とする男にとってはある種、神懸かりなものにさえ見えるだろう。それは確かに詩的だとか霊的だとか形容される。だがそうした兆候は、より豊かな対話を可能にする、我々に備わっている認識の形式の一つなのだ。もちろんそれは、余りにも豊富な可能性を含むために、誰にとっても困難な形式であるには違いない。

 

 低次な空間に感性を隅々まで塗り潰された人間が窒息を免れ、それを成熟などと思い違いをして、ぶくぶくと自惚れているように(ときどき)見えるのだけど、さて、そうなってしまった人間に、芸術は薬になるのか?いや本当はそんな悲観的な事態なんて全然なくて、誰しもの心が他の者には想像も付かないような、決して穢されることのないユニークな豊かさに開かれているのかも知れない。全か無かの思考が過ぎる気がしなくもないけど…。

 

 僕は筋金入りのポエマーなので(?)こういう主観から外れた文章をぼんやりと書くのはこれで最後にしたいと思います。多分。

色んな音に聞こえる長い溜息

サルトルは『存在と無』の中のもっとも見事な個所で、他人の実在という次元で、眼差しを機能させています。もし眼差しがなかったとしたら、他人というものは、サルトルの定義にしたがえば、客観的実在性という部分的にしか実現されえない条件にまさに依存することになってしまいます。サルトルの言う眼差しとは、私に不意打ちをくらわす眼差しです。つまり、私の世界のあらゆるパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序づけるという意味で、私に不意打ちをくらわす眼差しです。


 既に何度も繰り返された話だが、自らの理性の正しさを保証するものはこの世界のどこにもないのだ。何故ってこの世界を構築しているのが僕自身であり、正しさを与えようにも自己循環しているのだから。狂人との、面と向かっての対話を想定してみるが良い。自分の認識している世界について、君と違った仕方で確信している、そんな信念の狂人との対話を。もちろん狂人というのは説明の為の極端な代表に過ぎない。すべて他者の眼差しは僕の世界に不意打ちを食らわせる。むしろその限りにおいて他者は眼差しを持っていると言って良いだろう。この地点でサルトルの言う、眼差しの決闘が起こる。断っておくけれど、決闘と言ってもそれは単なる力比べではない。これはある主題に於いて己の優位性を証明する、そんな限定的な闘いではないのだ。狂人の例に戻ろうか?いや、聡明な君のことだ、その必要はないだろう。ここでいう他者とは、ある社会的ヒエラルキーの代表者などではないのだ。他者の眼差しの恐怖とは、「君のことなんて、君が思ってるほど誰も見てないよ」などという自意識過剰くんに対する言葉に慰められるような、あの惨めったらしさなどとは無縁なのだよ。そのような他者は、言うなれば自分自身の鏡でしかないのだ。アアッ!そんな程度の不安ならばどれだけ幸せなことか!自分自身の認識している世界の枠組みを乗り越えてくる、あの恐るべし眼差しよ…。そうそう、こんな文章を書いている僕も、確信を持った狂人かも知れないね。何せ疑惑すら、眼差しの前では平等に崩壊の危機に晒されるのだから。

彗星

 あと一歩を踏み込めば、僕はこの世界から消えてなくなる。誰かが少し背中を押しさえすれば、それは為されるだろう。目の前を轟音が通り過ぎる。だけど僕はまだ黄色い線の手前にいる。恐らく同じ時、どこか別の場所で、彼は五十八錠もの睡眠薬を飲み干した。十五歳の時。それなのに僕は立ち尽くしたまま。二日後に彼が病院で息を吹き返した時も、同じ場所で立ち尽くしていた。


 生きていく事の困難や、日常の煩わしさからの逃避、数え上げれば切りがない程の呪い。そうした理由をどれだけ積み上げても、決して一つの行為へ踏み切る説明にならないことなら、誰だって知っている。

 だけど、そうではなかった。僕達は何一つ説明しようとしなかった。道徳や哲学を口にすることは即座に過ちだった。正当性というものは問題ですらなかったのだ。

 

 夜空を走る光が流れ星の全てであるように、深い眠りに就くよう静止する身体は彼であり、引き千切られて地に横たわる身体は僕だった。イメージは余りにも速く来た。動物と亡霊達の騒めく沃野を貫いて、それは心臓のリズムと同期する。僕達は確かにそれを掴んだ。なのに次の瞬間にはもう、捕らえられているのはこちらの方なのだ。

 

 それは生物学的な死を意味していたから、僕達も自然、それを自殺と呼ぶことにした。そうすることで何かが明確になるような気がしたからだ。だけどそんなことさえも僕達にとっては、偶然でしかなかった筈なのだ。それが死を意味するという事実は、死のビジョンに比べれば、不純で、取るに足らないことだった筈なのだ。

 

 それだから僕達は、本当は自殺を試みたのではなかった。僕達が必死になって手に入れようとしていたのは、命を終わらせることではなかった。きっと、だから彼は息を吹き返したし、僕はいつも線の前で立ち尽くしていた。

 

 (単なる回帰する物語として。)

 

 彼は生き返った。僕は死ななかった。

 目の前を通り過ぎる轟音を、今も目撃している。

 彼は生きている。僕は生きている。

すべて一つの生き物は

 誰もそれを言葉に出来ないし、言葉にした所で僅かばかりでも意味あることは伝えられないということならば、分かり切っている。僕たちはすぐ隣にいる人とさえ、感情を共有しているなどと言うことは出来ないのだ。だけど現にそれが起きているこの世界で、僕に確信出来ることだってある。例えば自己と他者のあいだで、触知することの叶わない無限の中間地点に、誰でもない者の声がいつも微かに谺していること。

 

 きっと始めは彼、一人の奏者の意図から外れた音色の、何か違和感のようなものだ。他の人もまた同じようにそれを感知しているのか、決して確かめることは出来ない。にも関わらず、あるかないかの気配が消えてしまわないように、全ての奏者が自らの呼吸を僅かに注意する。誰もが同じ一つの、たぶん外からやってきた声のトーンに耳を傾けていることを、このとき僕たちは既に感じ取ってしまっている。理由は分からないけれど、この予感にはそうした求心力があるのだ。そしてそれは起こる。何が契機となったのか、発火や沸騰のように突如として。僕たちに理解出来るのは性質が変化したという、ただその結果だけだ。はっきりと分かる、『あの瞬間』に何らかの閾値を超えたということは。それなのにすべてが終わった後で、一切の印が残ることはない。だってそれはただ一度しか起こり得ない現象なのだから。

 それは余りにも遠くから聞こえて来るので、あたかもあらかじめ僕の胸の中で響いていたかのようなのだ。兆候はそこにあり、しかし誰がそれを掴んだという訳でもなかった。気紛れな風が合図となるのを、たぶん皆が期待していたのだ。何故なら純然たる偶然がないとすれば、異なる意識が一致する瞬間を、誰に思い浮かべることなど出来るだろう。すべて一つの生き物は、こんな風にして息づき始める。心と世界の真ん中で。音楽が生まれたのだ。