スクリーンの空

パロディ

色んな音に聞こえる長い溜息

サルトルは『存在と無』の中のもっとも見事な個所で、他人の実在という次元で、眼差しを機能させています。もし眼差しがなかったとしたら、他人というものは、サルトルの定義にしたがえば、客観的実在性という部分的にしか実現されえない条件にまさに依存することになってしまいます。サルトルの言う眼差しとは、私に不意打ちをくらわす眼差しです。つまり、私の世界のあらゆるパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序づけるという意味で、私に不意打ちをくらわす眼差しです。


 既に何度も繰り返された話だが、自らの理性の正しさを保証するものはこの世界のどこにもないのだ。何故ってこの世界を構築しているのが僕自身であり、正しさを与えようにも自己循環しているのだから。狂人との、面と向かっての対話を想定してみるが良い。自分の認識している世界について、君と違った仕方で確信している、そんな信念の狂人との対話を。もちろん狂人というのは説明の為の極端な代表に過ぎない。すべて他者の眼差しは僕の世界に不意打ちを食らわせる。むしろその限りにおいて他者は眼差しを持っていると言って良いだろう。この地点でサルトルの言う、眼差しの決闘が起こる。断っておくけれど、決闘と言ってもそれは単なる力比べではない。これはある主題に於いて己の優位性を証明する、そんな限定的な闘いではないのだ。狂人の例に戻ろうか?いや、聡明な君のことだ、その必要はないだろう。ここでいう他者とは、ある社会的ヒエラルキーの代表者などではないのだ。他者の眼差しの恐怖とは、「君のことなんて、君が思ってるほど誰も見てないよ」などという自意識過剰くんに対する言葉に慰められるような、あの惨めったらしさなどとは無縁なのだよ。そのような他者は、言うなれば自分自身の鏡でしかないのだ。アアッ!そんな程度の不安ならばどれだけ幸せなことか!自分自身の認識している世界の枠組みを乗り越えてくる、あの恐るべし眼差しよ…。そうそう、こんな文章を書いている僕も、確信を持った狂人かも知れないね。何せ疑惑すら、眼差しの前では平等に崩壊の危機に晒されるのだから。

彗星

 あと一歩を踏み込めば、僕はこの世界から消えてなくなる。誰かが少し背中を押しさえすれば、それは為されるだろう。目の前を轟音が通り過ぎる。だけど僕はまだ黄色い線の手前にいる。恐らく同じ時、どこか別の場所で、彼は五十八錠もの睡眠薬を飲み干した。十五歳の時。それなのに僕は立ち尽くしたまま。二日後に彼が病院で息を吹き返した時も、同じ場所で立ち尽くしていた。


 生きていく事の困難や、日常の煩わしさからの逃避、数え上げれば切りがない程の呪い。そうした理由をどれだけ積み上げても、決して一つの行為へ踏み切る説明にならないことなら、誰だって知っている。

 だけど、そうではなかった。僕達は何一つ説明しようとしなかった。道徳や哲学を口にすることは即座に過ちだった。正当性というものは問題ですらなかったのだ。

 

 夜空を走る光が流れ星の全てであるように、深い眠りに就くよう静止する身体は彼であり、引き千切られて地に横たわる身体は僕だった。イメージは余りにも速く来た。動物と亡霊達の騒めく沃野を貫いて、それは心臓のリズムと同期する。僕達は確かにそれを掴んだ。なのに次の瞬間にはもう、捕らえられているのはこちらの方なのだ。

 

 それは生物学的な死を意味していたから、僕達も自然、それを自殺と呼ぶことにした。そうすることで何かが明確になるような気がしたからだ。だけどそんなことさえも僕達にとっては、偶然でしかなかった筈なのだ。それが死を意味するという事実は、死のビジョンに比べれば、不純で、取るに足らないことだった筈なのだ。

 

 それだから僕達は、本当は自殺を試みたのではなかった。僕達が必死になって手に入れようとしていたのは、命を終わらせることではなかった。きっと、だから彼は息を吹き返したし、僕はいつも線の前で立ち尽くしていた。

 

 (単なる回帰する物語として。)

 

 彼は生き返った。僕は死ななかった。

 目の前を通り過ぎる轟音を、今も目撃している。

 彼は生きている。僕は生きている。

すべて一つの生き物は

 誰もそれを言葉に出来ないし、言葉にした所で僅かばかりでも意味あることは伝えられないということならば、分かり切っている。僕たちはすぐ隣にいる人とさえ、感情を共有しているなどと言うことは出来ないのだ。だけど現にそれが起きているこの世界で、僕に確信出来ることだってある。例えば自己と他者のあいだで、触知することの叶わない無限の中間地点に、誰でもない者の声がいつも微かに谺していること。

 

 きっと始めは彼、一人の奏者の意図から外れた音色の、何か違和感のようなものだ。他の人もまた同じようにそれを感知しているのか、決して確かめることは出来ない。にも関わらず、あるかないかの気配が消えてしまわないように、全ての奏者が自らの呼吸を僅かに注意する。誰もが同じ一つの、たぶん外からやってきた声のトーンに耳を傾けていることを、このとき僕たちは既に感じ取ってしまっている。理由は分からないけれど、この予感にはそうした求心力があるのだ。そしてそれは起こる。何が契機となったのか、発火や沸騰のように突如として。僕たちに理解出来るのは性質が変化したという、ただその結果だけだ。はっきりと分かる、『あの瞬間』に何らかの閾値を超えたということは。それなのにすべてが終わった後で、一切の印が残ることはない。だってそれはただ一度しか起こり得ない現象なのだから。

 それは余りにも遠くから聞こえて来るので、あたかもあらかじめ僕の胸の中で響いていたかのようなのだ。兆候はそこにあり、しかし誰がそれを掴んだという訳でもなかった。気紛れな風が合図となるのを、たぶん皆が期待していたのだ。何故なら純然たる偶然がないとすれば、異なる意識が一致する瞬間を、誰に思い浮かべることなど出来るだろう。すべて一つの生き物は、こんな風にして息づき始める。心と世界の真ん中で。音楽が生まれたのだ。

 かつて手を伸ばせば届く距離に、暗闇は横たわっていた。記憶はゆっくりと薄くなっていく。はっきりとよく見えず理解しがたいものならば、あっという間に。定かならぬ恐怖と混乱の生々しい記憶は、良くも悪くも想像以上の速度で消え去っていく。僕たちには何か別の回路が必要だ。非知なるものを思い出すために。

 何故だったのだろうと考えるけれど、車窓から眺める風景のように遠ざかっていく感覚だけが……やっぱりそんな綺麗なものじゃなくて、ただ自分がそこにはいないという、断ち切られているという、孤独よりも具体的な手触りだけが記憶に、身体にこびり付いている。僕は誰とも出会えなかった。いや、それは嘘だ

 

 眼に浮かぶのはあり得たかも知れない可能性。たぶん掴むことは出来なかった機会。もっと大きな幸運。或いはさらに残酷な不条理。取り返しの付かない事故。自分が選んだように見えて、外から決められていた必然。こうであったならと想像してみることが出来ること。もはや夢見ることさえ不可能なこと。巡り会うはずだった人の、目に見えない顔。病気ではなかったかも知れない自分の、決して話されることのない喋り方。体験することのなかった、あの人と気楽な時を過ごす気分。触れることはない。彼ら、すぐ隣にいたかも知れない何人もの僕が見る世界に、この僕の手が触れることはない。あるかないかの対象を意識することは決して出来ず、思い描く僕がいる限り、想像力は外部へと突き抜けることはない。こんな風に巨大に膨れ上がる憧れはたぶん風船とよく似ていて、中にはいつも空気が詰まっているだけだ。

 

 問題は、はっきりしていない。無限に遠い他者。理解することの叶わない自明性。演技と同化。何故笑うのか分からずとも笑えるように慣れてしまうこと。僕以外の者もまた同じなのかと問わないようにすること。表面を撫でるだけの娯楽だって、全く楽しくない訳じゃない。僕の本質が暗い奴だなんてことはない。分裂していたって良いんだ。その時その場所でだけ、優しくて礼儀正しい人ということになれば完璧だ。何を隠すためなのか。もしかしたら空虚さを。分からない。そんなことはどうだっていい。

ことの記憶

 僕は何かをしてきたし、誰かと出会ってきたけれど、経験の中で繋がりが断ち切られてしまっていて、喩えるなら何かの一貫性を保つために「何もない人生だった」と言わざるを得ないと強制されているかのようなのだ。実際に関わってきた人のことを思うと失礼だとは思うのだけど、記憶が意味から置いてきぼりにされてしまうのを、どうしても止められなかった。

 僕の人生が事実として、実質的に、取り立てて言うほど空虚ということでは多分ない。何かを探しているという感触だけが残っている。何かをなかったことにしている。そう思う。

 

 記憶の事象が「私はあなたにとって存在しないも同然だったのか」と問う。

 

 『始めの位置』に立った時、僕の手元にあるのは異常な熱量と執着心だけで、可能性すら信じてはいなかった。

 かちかちと脳の配線を切り替えてゆく、絶望的に気が遠くなる作業。言葉を糸にする。体の内を流れるものの幽かな気配だけを頼りに、存在するかどうかも分からない針穴に向けて。どこにも触れることの出来なかった物語はバラバラに砕け散って、他者の眼差しに貫かれて死んでしまった。何かを間違えた。頭では理解出来そうもない何かを。グロテスクな仮面が幾つも出来上がっては、付けてみることさえせずに割った。

 

 その仕事を僕はやり遂げたわけではないのだろう。それなのに自分がぼんやりとした平穏に落ち着いてしまいそうなのが怖い。平穏は自分の力で獲得したものでもなければ、苦難の証明でもないかも知れない。

 考えもしなかったことだ。自殺を思うほどに強い感情は、ほんの僅かな間だけ許されている。ただーーーのことを、今でも僕はこの人生に起こった出来事として、確かに組み込めてはいないと感じるのだ。どんな納得があり得るのか未だに想像も付かない。まだ回収出来てはいないのだと意識し続けなければならない。それは実際に起こった事だ。自分の何割かを分断させて、どこかの地平に置き去りにしたことさえ忘れてしまわないように、えらく感傷的な言葉をここに残しておく。もう少しだけ答えを出すのを延期する。

 

 もし意識が変容し続けるものであるならば、答えのあり得ない問いかけは、すがたかたちを変えながら決して消え去ることはなく、何度でも。(これは祈りだ。)

青色だったと気付く

 僕たちがお互いにいてもいなくてもいい存在でしかないという事実は、当然のことだって受け入れている。そんな関係は、或いは少し酷薄なのかも知れない。いつだって世界は僕抜きで旋回している。そんな風に感じてしまうのは、目の前のこの人も、この人を含む景色も、いつか世界の概念に溶けてしまうことを知っているから。ついこの間まで星や夜景の仲間だったものが、ふいに僕の手を引く。人々はそんな風に立ち現れては消えて行く。

 夕日が建物の隙間から細く差し込む。テーブルクロスや飲みかけのグラスに反射した光が、こんなにも鮮やかな橙色に見えるのは、補色の効果でもあるのだろう。僕は世界が青色だったと気付く。今この瞬間が時の時だと分かることは幸運で、いつも遅れて来る感情が、空っぽの間に通り過ぎていった時間をきっと、埋めてくれるだろうことを願っている。

或いは眠りながらのようにして

 表象から別の表象へ。有用性なのか、それとも芸術的な、あるいは神秘的な、目的は分からない。だけど僕らは何かを望み、何かから望まれるだろう。そして裏切られるのだ。僕たち自身が表象の一部なのだという事実によって。僕たちの内で何かは存続し、何かは滅びる。投げられた賽の目は、問題にすらならない。

 僕たちは表象の、その奥を見る事はない。そこには何もない。何かが目に映り、欲望と呼ぶものによって、与えられた尺度によって、承認する事。それか嫌悪する事。対象は変わるが、形式は変わらない。僕が何かを成し遂げたなら、その事実によって、それは認められる。それとも認められる事で、成し遂げたという事になる。そして僕は生きられるだろう。僕は勝利したのだろうか。そうではなく、怪物の背に乗ったのだ。ただそれだけの事なのだろう。誰かが、欲するものを欲する。僕は僕の欲するものを欲する。太古の昔から、連なる表象の歴史。それは刻み込まれ、時間を超える。或いは葬り去る。気まぐれの判定によって。それは在り続ける。

 無数の感情が僕の内面に映し出され、選択をする。僕が、ではない。だって僕が美しいと思うものは、どうしようもなく美しいのだ。誰も選ぶ事は出来ない。人間は消え去る。それはそうなっているのだ。

 生きているのは。移ろい、殺し、眠るのは。残酷なのは、言葉なのだ。僕はそれを、僕を傷付け、今も誰かを傷付けているそれを、利用する。快楽から、恐怖から。動機は何だっていい。餌食になるよりは、むしろ積極的に。或いは何も感じずに。何も考えないように。僕は今こうして生きている。

笑いが、夢が、そして眠りの中でおびただしい屋根が、残骸となって雨と降る......何も知らぬこと、果ての果てまで(恍惚の果てではない、眠りの果てだ)何も知らぬこと。

 きっと敗北なのだ。だけどもう抗う必要はない。それは決定された敗北だったからだ。現実を舐め尽くす事で、価値をそのまま転倒させられる。虚無も恐怖も、味わう事が出来る。それがこの世界の答えだという事。僕たちは何も知る事はない。僕たちは一筋の痕跡も残す事はない。この上なく完全に諦めて、それでも僕は、理由もなく何かを摑み取ろうとするのだろう。何かを捕らえてやろうと試みるだろう。無駄だと知りつつも、命令を受けたマシンの様に。次に来る感情を既に感じながら、駆り立てられて、約束された失敗に向けて、それは繰り返されるだろう。そうする事が定められているかの様に、死に物狂いで。或いは眠りながらのようにして。